ソラノトリ...

住人の半分を失った部屋に、所在無く大きなソファが横たわっている。
男二人でシェアしていた部屋に、突然女が訪ねて来たのが一日前。
その手には小さな男の子の手が握られていた。
女が訪ねてくる前の日、その子供の父親だという住人は逃げるように姿を消し。
逃げられたと知った女は、当然のようにあとを追いかけて消えた。
当然のように、子供を置き去りにして。

『預かって』

そんな短い言葉と少しの衣類、一冊の本と一握りの愛と共に置き去りにされた子供は。
本来おとなしい性格なのか、母親に言いくるめられたのか。騒ぐこともなく泣くこともなく母親を恋しがることもなく、ずっと黙ったままでいた。
光を厭うように部屋の隅で、持たされた一冊の本を見つめ続ける。
美しく描かれた鳥と空の絵本。
大切に大切に、そっと触れなければ壊れてしまう宝物を見つめるような切ない視線で、その子は、じっと本を見つめ。
自分の置かれた現実だけを、嫌う。
ため息だけを長く残して、子を託された男は為すべき事を見失ったまま。
昔から「子供らしさ」を持たないまま育った自覚はある。
正義の味方が鋼鉄の剣を振るう話は安っぽくて好きではなかった。
それ以上に森の妖精だとか熊だとかリスだとかが人間の友達になるメルヘンチックな話は、非現実的で苦手だった。
だからそれを熱心に見つめる目の前の子供に何と言って話しかけていいのか、検討もつかない。
要は、子供が苦手なのだ。
誰にも文句を言われずに独占できるようになったソファに寝そべり、手持ち無沙汰にタバコを一本取り出した。
燻らせながら、心が落ち着くその時を待つ。
白く細く儚げに伸びる軌跡は、微動だにしない部屋の空気の中を垂直に昇り。
窓から差し込む禍々しいオレンジの光を反射して、それでも男の心を癒そうと柔らかな色を帯びる。
やがて長くも短くもない時が過ぎて、それでも、ゴールどころか一秒先でさえ見えない沈黙と空間に、かけるべき言葉も取るべき行動も投げ捨てて、男はキッチンへと逃げ出した。
驚くほど足音が部屋に響いてさえ。
子供は何の反応も見せないまま。
「なんだか…、な」
握り締めて持ち出したタバコを再び銜える。
ここでも真っ直ぐ昇る白い筋。
歯車はまだ、止まったままで。

**********

二日目は冷え込む日だった。
迎えに来る気配のない母親に、行方知れずの父親。
コンビニで買ってきた簡単な食事を消費して、会話のない空間は限界まで重みを帯びていた。
食事以外は別々に時を過ごす。
さすがに小さな子を置いて外出することはなかったが、それでも沈黙のまま同じ時を過ごす居心地の悪さに、キッチンやベランダへ逃亡することもしばしばで。
幼いそのこはずっと、部屋の隅で絵本を広げたまま。
食事の呼びかけにしか反応しないその静かさは、生来のものではなくて無理の見える忍耐だと、そのくらいのことは男にも検討は付いた。
それが母親と居る時からの忍耐なのか、ここに居る間だけの忍耐なのか。
答えのでない疑問は、血管を滑るように延々の体内を巡る。
冷え切った空気が肌を刺すようになって、男はようやく寒いベランダから室内へと戻った。
ソファへと倒れこみ、長い長い息を吐く。

ふ、と。

そのため息に初めて反応を見せた子が、その漆黒の視線をあげた。
かち合った男の驚いたような目に、すぐにそれは絵本へを戻されてしまったが。
何かが変わるなら、もし本当に変わるなら。
今しかないと刹那に悟って。
男は思わずというように、子供に、手を伸ばす。
フローリングに落ちたタバコが小さな焦げ跡を残すのも気にせず。
ただ、子供だけを見つめて。
手を、伸ばす。
「………………」
パタン、と。
初めて絵本を閉じて。
一瞬だけ逡巡を見せて。
小さな手がこちらに伸ばされた。
外気に冷え切った男の指先に、ほのかに暖かい指が綿雪のように触れていく。
指先から一本一本辿って、広い手のひらをなぞり、そっと自分のそれを重ねて。
「…………つめたいね」
子供独特の高い声が、長い長い沈黙に焦れていたのか少しだけ掠れてしまったけど、それでも心地よく部屋の中に広がる。
軋んだ音を立てた空気が、終着点を見つけて動き出したのがわかった。
「おいで」
ずっとのどの奥で空回っていたその言葉が零れ落ちて。
幼い声を自分の胸に抱き上げ、小さな頭を撫でてやる。
「名前……聞いてなかったな」
じっと男の手の感触を追っていた子供は、満点の夜空のような瞳を、あげて。
「ななせ、りく」
その無感動な響きに違和感を覚えながらも、ようやく流れ出した鼓動のゆるやかさに、目を閉じた。

**********

「陸は字が読めるのか?」
母親が消えて三日目。
少しずつ会話も増え、二人で居ることにも慣れ始めた頃。
男はソファに、陸はその隣に。それが定位置となって時を過ごす。
じっと絵本を広げている陸の手が、あるページから動かないのを見て、唐突に尋ねてみた。
「よめない」
キョトンと見上げてきた瞳に、その意外な答えに。
なんと答えていいのか……言葉になるはずだった酸素が部屋に混ざってゆく。
しばらく男を見つめていた子は、続きがないのを知って、視線を絵本に戻した。
何となく息を詰めていた男は、ようやく長い息を吐き出す。
またポッカリと落ちた沈黙は以前の重みを失ってはいたが。
それでもシコリのようなモノを感じながら、男はぼんやりと視線を彷徨わせる。
冬の生ぬるい太陽は、現れた雲にやがて隠れるだろう。
相変わらず窓一枚隔てた外界は、軋むような寒さで。
眺めていた木々が寒そうに揺れる姿に、本格的な冬の気配を見る。
黒い雲の一段が近づき、世界は薄墨色に覆われる。
「……雪が降るかもしれないぞ」
根拠もなく零れ落ちた言葉に。
一緒に零れ落ちたのは、大切な絵本。
男の上によじ登って窓を見上げて。
ゆっくりと世界を侵食する雲の動きを追う視線は、何か神聖で清冽なものを見るようなものだった。

「………字、よめなくても」

長い長い沈黙の後。
本当に白いものがちらつき始めた頃になって、失っていた会話の続きを小さなその子 が補う。
「よめなくても、いいの」
遠くを見つめるような視線。
その先にあるものは、きっと少年にしか見えないもの。
「……ちゃんと、わかるから」
子供独特な不明な文法だったのか、子供に似合わない深い意味を含んでいたのか。
またも先を失った男は小さく「そうか」とだけ呟いて、その言葉が地面に辿り着く音を追った。

**********

雪の降った日から、子供は絵本を手放した。
変わりに大きなソファの背もたれに手をかけて、飽くことなく窓の外を眺める。
あの日見た窓の外の世界が、初めて見る世界だったかのように。
ずっと眺めていないと、視線の先のものを見失ってしまうかのように。
動かない少年を心配して、男が頼りない背中を撫でてやると、まるで男を安心させるように甘えて倒れこむ。
「空が好きなのか?」
世界に張り巡らされた電線には、冬の寒さに耐える小さな鳥の姿。
ふと、遠くを見ているようだった少年の視線が、それを見つめているのに気がついて。
男は答えを求めぬまま、一心に幼い横顔守り続ける。
返って来る事のない返事に焦れず、男はじっと待ち続けた。
陸の視線は日が暮れて、世界が闇に沈んでなお、世界の外に向いたままで。
霞んだ月が浮かぶばかり。

「お月さまってとおいかな?」

唐突に尋ねて、子供は不安そうに大きな手に縋る。
ソファから起き上がって、その小さな体を抱きこんで。
男も共に空を見上げた。
「遠いんだろうな」
「いったこと、ある?」
「ない」
「…そんなに大きいのに、とどかないの?」
「ちょっと無理だな」
夜空にポッカリと浮かぶその月に手を伸ばして。
それでも足りない距離を見せると、大きな黒い目が薄っすらと霞む。
「……とりでも、いけない…?」
ポトリと落ちた小さな言葉。
何か重要な意味を感じで、安易に答えを出せず。
けれど聡いその子は、沈黙に答えを見出して。
初めて、一心に空と鳥を見つめていた憧れが地を見る。
「そらをとべても……とりでも、いけないところがあるんだね」
彼が飽くことなく見つめた、森の美しい鳥の囀り。
寒さに震える柔らかな羽。
現代に霞んだ遠い月。
言葉にせずに、求める心。
その視線の先に何があるのか。
漠然とそれを感じて、男は、強く強く、小さな魂を抱きしめる。
「…一緒に鳥になろう」
いくら潤ませても、決して雫を落さない大きな瞳が切ないほど愛しくて。
今度だけは迷うことなく。
「空を飛んで、どこまででも飛んでいけるように、たくさん練習しよう」
「…………」
「いつか、月にだって行けるって、信じてる」
柔らか頬に自分のそれを寄せて、少しでも力になればと祈りを込めて。
霞んだ月が、寄り添った影の色を描く。
両手いっぱい、銀の月を引き寄せて。
「……じゆうに、どこにでもいける?」
幼い『自由』は胸に痛くて。
何度も、何度も、そうだよと囁く。
その小さな子供が幸せな夢に辿り着くまで。
鳥になって空を舞い続けるまで。
ずっとずっと、ずっと。


「どこへだって、行けるんだ」

**********

その日の明け方、子供と共に置いていった言葉よりも短い言葉を携えて、女は唐突に現れた。
少年の少ない荷物は、五分と経たないうちにまとめられて。
あの時、地面を見つめた視線は、遥か上にある男に注がれている。
「やくそく、だよ」
「約束、だ」
小さな指に、大きな指を絡めて。
ほのかな温もりに、離しがたい思いを感じながら。
「なまえ…、しらない」
「俺の名前?」
名乗らないままだった事実に苦笑しながら、男は。
刹那に湧き出したイタズラ心で。
「…………」
耳元で囁かれた響きに、少年は小さな笑みを零して。
焦れた母親の手を、何日かぶりに握った。
「じゃあな」
少しだけ無意識のままに掠れた声に、何か言いたげに動いた子供の唇は、迷いの後で短い別れの言葉だけを渡す。
キシリと冷えた空気に、幼い声だけはいつまでも残って。
余韻の中で男は短い言葉を空に還した。
何年か経って『空野 鳥さま』と宛名書かれた葉書に書いてある言葉と、同じ響き。





「いつか、空で」






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