夏樹は出かけてしまった。昨日、あれだけ添ったと思った心がまたすうっと離れていく気がする。
「ちょっと出かけてくるから」
 シャツにジーンズ。気取った格好ではない。
「帰りは遅くなるかもしれない。夕食はすませてきちゃうよ」
 彼は笑う。たまにはゆっくりお前も羽伸ばせば、と。その笑顔が痛かった。
「じゃ」
「あぁ、ちょっと」
「なに?」
 振り向いた彼の手に小さな金属を握らせた。
「この部屋の鍵。持ってらっしゃらないでしょう? それとも今日は下に帰りますか」
 意地の悪い聞き方だ、カイルは思う。今日、という日を忘れ出かけてしまう夏樹に、ここに帰ってくるよ、そう言わせたかったのかもしれない。
 以前は彼もこの部屋の鍵を持っていた。まだ彼が高校生の時分のことだ。それを律儀な夏樹は自分が階下に引っ越してきたときに「いつでもこれるから」と言って返してきたのだった。
 昔、彼が持っていたままの鍵を渡せば懐かしそうに見やって手に取ってくれる。
「馬鹿。ちゃんと帰ってくるよ」
 夏樹が笑う。照れて笑う。
 けれど聞いてしまってわかった。なんの気になしに言うその言葉を聞けば聞くほど、切なさで胸が狂おしい。
「行ってらっしゃい」
 ただそう笑って送り出すより、なかった。
 今まで夏樹が今日と言う日を忘れた事はなかった。五月四日。恋人がいてもどうしてもはずせない用があっても、この日を忘れた事はなかった。
 五月四日。カイルの誕生日。いい年した男が誕生日もなにもないものだ、自分でもそう思う。それでも今まで一度も忘れられた事のないそれをあっさり無視されると情けない事にその場に座り込んでしまいたくなるほどの、無力感。
「Ich verstehe nicht.」
 わからない、そうもらした呟きが不意にドイツ語だったことに気づく。
 苦笑。自分で思っているよりもずっとこたえているのか。
 愛しているから、待っている。けれど愛しているからこそ、触れたい、抱きしめたい。キスして、それからも。
 一度伝えてしまった想いはそれだけで耐え難い激情になってしまった。
「困ったものだね」
 意識して日本語で、呟く。
 仕方ない、そういう人を愛してしまったのだから。他の誰でもない、自分の意思で、ここまで来たのだから。
「そうでも思わなきゃやってられないね」
 呆然としているうちに夕刻を回ってしまった時計に苦笑して、白く濁ってつめたく冷えた紅茶を入れ替えに立った。
 玄関でのどかなドアチャイムの音が鳴る。
 淹れたばかりの熱い紅茶のマグを唇から離しカイルは玄関へと立った。
「小包です、印……サイン、お願いします」
 若い郵便局員は印鑑、と言いかけてサインと言いなおした。
 普段来る壮年の局員は慣れたもので最初からサインを求めるのだが、今日の彼はここに来るのは初めての所為か、カイルの金の目を盗むようにめずらしげに見ている。宛名を見ればここに住むのが日本人でないことくらいとっくにわかっているだろうに。
「はい、どうもー」
 内心で苦笑するカイルにそう言って彼がおいて行ったのはドイツからの荷物だった。
「兄さんからか……」
 また紅茶が冷めてしまうな、と苦笑いしつつリビングで荷物を解く。
 内容はともかくどういう荷物かは、見当がついている。
「やっぱり」
 箱の一番上に一枚のカード。誕生日おめでとう、と。それから細々とした家族の近況。とはいえ、カイルの直接の家族はすでに兄一人だった。
 二人いた兄のうち、長兄はカイルが幼い頃に亡くなっている。荷物を送ってきた兄はだから二番目の兄だった。この兄が日本風に言えばシュヴァルツェンの家名を継いでいることになる。つまり現在のシュヴァルツェン伯だ。もっとも家長に与えられる称号ではないのでカイル自身、名乗ろうと思えば名乗れる。そうする意思がないだけだった。
 貴族制自体はすでに存在しないので名ばかりの伯爵ではあるけれど、今もカイルが幼い頃にすごした屋敷、小さな城に住んでいる。
 両親はすでにない。だから家族とは言っても兄とその妻に彼らの息子がいるばかりだった。
 だからこそなのかもしれない。小さな頃に離れてしまったせいかもしれない。留学すると言って出て行ったきり故国に帰ろうとしない弟の事を兄はこよなく大切にしてくれているのだ。少なくともいままでで十六年、誕生日とクリスマスの贈り物が途絶えた事はない。そのほかにも折にふれてはなにくれなく送ってくるのが常だった。
 箱の中には薄い紙に包まれたセーター。メッセージには兄嫁が選んだ、とあった。フェアアイル模様のくせにシックな色合いのセーターはカイルの好みに充分あう。
 きっと兄が色々と妻に指図しつつ選んだのだろう、そう思えばなにか懐かしい。
 そのほかにもなんだかたくさん入っている。
「また子ども扱いして」
 苦笑が浮かんだのはチョコレートを見つけた所為。
 リッタースポーツという板チョコが二枚。ビスケットの入ったものとラムレーズンのと。ビスケットの方もおいしかったのだが随分前、まだ十代の頃、ラムレーズンのほうがすこぶる気にいって、あのラムの風味がいいね、と言ったことがあった。以来こうしていつも送ってくるのだ。
 本当は日本でも手に入るのだけれど、まさかそうも言えない。もっとも、言ったとしても兄は送ってくるような気がして苦笑がもれる。それはどことなく温かい思いだった。
 兄にとっては未だあの頃の自分のままなのかもしれない。
 そのほかにもチーズにワイン。これもいつも入れてくれている。ただしものは常に違う。あれにしようか、これがいいかときっと夫婦で選んでくれているのだろう。
 ドイツといえばビール。そんな印象がありがちだけれど、実際ビールが盛んなのは北ドイツであって、カイルの故郷のある南ドイツではワインとともに食事を楽しむのが普通だ。
 古里はシュヴァルツヴァルトの中にある。その名の通り真っ黒に見える森だ。針葉樹がうっそうと茂っている所為だった。
 その黒い森のほぼ中心部にトリベルク、と言う小さな町がある。そこがカイルの生まれた町だ。
 まわり中いたるところに緑があふれていた。郭公時計が有名になるほど時計産業の盛んな町でもあった。
 そんなことをつらつら考えていたら無性にドイツが懐かしくなった。けれど帰りたい、とは思わない。あの人がいるから。
 そんなことを思う内に手がワインを一瓶見つけた。
「へぇ……」
 つい、感嘆してしまった。ラベルを見るとモーゼル川流域のあたりのワインなのだが、変わっているのがボトルだ。
 猫の形をしている。ドイツのやはり有名なシュヴァルツカッツェのようにラベルにだけ猫がいるのではない。ボトルそのものが猫の形をしているのだ。
 白ワインの風味を殺さないようにつけた深い緑の色をしたガラスの、猫。飼い主をふと見上げるように首を傾げたその姿はなんともいえず愛らしく且つ、気品にあふれている。あの人みたいだ。そんなことを思う。
「決めた」
 夏樹が帰ってきたら一緒にこれを飲もう。
 臆病なくらいシャイなあの人は、自分とこうなってしまったからなんだかわかっていてもきっと言い出せなかった。きっと、それだけのことなんだ。
 そう、カイルは自分に言い聞かせる。
「そうだよな。猫?」
 そうやってワインボトルに話し掛けてしまうほど不安な気持ちに強いて気づかぬふりをしながら。

 カイルは書斎にこもっている。リビングでいかにも待ち疲れました、という顔をしているのがいやだったから。
 ちょうど出張の報告書を書かなくてはならない。会社でやってももちろんいいのだけれど、随時報告をしていたから後はそれを纏め上げるだけになった書類を作るのは、今の気分にちょうどいい。
 なにかをやっていたい、けれど複雑な事はできない。そんな、気分。時計は九時を回った。夏樹はまだ帰らない。
 書斎には紙を繰る音、キーボードを叩く音。それだけが響いている。
 不意に目を上げ窓の外を見上げれば静かに煙る夜空の色。
「……雨か」
 まだ外にいるであろうあの人は今ごろ濡れているかもしれない。
 煙草に火をつければ、薄い紫の煙に雨が透けて見える。と。
「ただいま」
 ドアの向こう、夏樹が笑っていた。
「……お帰りなさい、濡れませんでしたか?」
「ん。大丈夫。露貴(つゆき)が送ってくれたから」
「ああ……」
 そうか、彼といたのか。カイルは少し事態を把握した。彼ならば今日という日に夏樹が出かけるのも無理はない、と。
 藤井露貴。夏樹はつゆき、と呼ぶけれど本来はつゆたか、と読む。奇遇な事に夏樹の大伯父、篠原の終生の友人と同じ名だ。
 いや、実は奇遇でもなんでもない、その藤井露貴の直系の孫がその彼なのだから。
 双方の父親が冗談のようにつけたそれぞれの名の通り、非常に仲のいい親類だ。血縁的には今は従兄弟になる。
 そう、夏樹が「かじゅ」と愛称で呼ばれる事を厭わないただ一人の人間だった。今までは。
「なに、仕事してたの?」
 家でまでやるなよ、というように彼はちょっと呆れた顔を作っては覗き込む。火をつけたばかりの煙草をねじ消した。
「暇つぶしみたいなものですよ」
「ふぅん」
 言いつつ彼は。背中から座ったままのカイルを抱きしめた。頬に触れた髪から柔らかな香水の香りに立ち混じり、わずかに雨の匂いがした。
「……誕生日」
 夏樹が言う。それだけを照れ臭そうに。見れば彼の手の中、小さな箱が。
「え……」
「だから!」
「……私に?」
「他に誰がいるんだよッ」
 いらだたしげな声。たぶん照れてどうしようもなくなっているのを隠すように。
「あけても、いいですか」
 肩に埋めた額が肯きの形にゆれた。背中から抱いたままの、腕。顔を見ればきっと真っ赤になっているのだろう。
 愛しい。心底そう思った。
「あ……」
 出てきたのはタイピン。それも。キャッツアイの。カイルの金の目はキャッツアイ、と呼ばれる色だ。黄みの勝った蜂蜜色をしたその石はまさにカイルの目の色合い。
「夏樹……」
 ありがとう、も言えなくてただ夏樹の手に自分の手を重ねた。
「……驚かせたくて。俺、こういうのどうやって探していいかわかんないから、露貴に探してもらって。それで……今日全部見てきた」
 だから、遅くなった。夏樹はぽつぽつとそれだけを言うのにも恥ずかしい、そんな声だった。
「全部?」
 思わず聞きとがめてしまった。
「だって、露貴に探してもらっただけじゃ……その。だから候補を五つくらい絞り込んでもらって……」
 指先がきゅっと白くなる。カイルの胸元をつかむように。羞恥に染まる色を隠すように。
 そんな姿がどうしようもなく愛おしくて、腕を解かせては自分の腕の中、夏樹を抱いた。
 愛している、こんなにも深く。そう言いたいのに言葉が出てこない。ただ黙って彼の体をかき抱くだけ。
「あ……」
「んだよ」
「夏樹、香水……」
 柔らかな黒髪から立ち上る香り。甘く深いエゴイストの香り。そのはずだった。だから気づきもしなかった。
「アンテウス。ようやく気づいたのかよ」
 夏樹がまとった香り、それはカイルの香り。彼の香りと立ち混じったときによく調和するように、そうカイルがつけている、香水の匂い。
「せっかく悪戯したのに、今朝気づかなかった、お前」
 そう、責める言葉のなんと甘いことか。想い人が自分の匂いを身につけている。その悦楽に歓喜にくらくらと、目眩さえする。地獄のように甘い、至福。
 今だけ、胸の痛みを忘れていよう。ずきずきと血を流し続ける心の傷を今だけは、忘れていよう。
「兄からワインが届いたんです、冷やしてありますから、飲みませんか?」
 これ以上腕に抱いていたら無体をしてしまいそうでカイルはそっと彼の体を引き離す。
「いいな。土産も……あるし」
「え?」
「来いよ」
 そうしてつれられて行ったのはダイニング。カイルの趣味でダイニングセットは置かず、カウンターを作り付けにしている。そのカウンターの上。ケーキの小箱。
「……誕生日、だし」
 ほのかに目元を染めた夏樹。ぶっきらぼうに見ろよ、といった口元に浮かぶ、笑み。そしてカイルの三度目の、驚き。
 小箱の中のケーキはカイルの故郷のケーキ。懐かしい、ドイツの菓子。
「中々ドイツ菓子扱ってる所ってなくて……関内のドイツ料理のレストランに、頼んどいたんだ」
 誇らしげに言う夏樹を抱きしめたくて、きつく抱いても彼は、拒まなかった。
「懐かしい?」
 腕の中、夏樹が問う。
「懐かしい、というよりも、あなたの心遣いが嬉しいんです」
「……誕生日、おめでとう」
 愛しい人にその愛しさのあまりただ一言のありがとう、さえも言えなかった。ただ黙ったままかき抱き、抱きしめる。
「独りにして、ごめん。カイル」
 そうっと夏樹の腕がカイルの背を抱いた。柔らかい温もりがカイルの体中に広がっていく。なにより大切な人の体温を感じている事のできる「今」がカイルにはこの上もなく貴重なものだった。
「いいんです。帰ってきて、下さったから」
「……ただいま、カイル」




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