出勤したとたんに電話が鳴った。電話と言うのは不思議なものでなぜか鳴った時には相手と用件の見当がついたりする。
 だから嫌な予感がしてカイルは受話器を上げた。
「おはようございます」
 案の定、安全管理部長だった。
 安全管理部と言うのは研究所職員の「安全管理」であり会社全体の機密情報の「安全管理」をする部でもある。表向きには社員の健康管理と福利厚生を扱う部署と言うことになってはいた。
 部長の岩田はカイザーがその座に着いたときに抜擢した、いわば新進気鋭の男で当年とって三十歳だ。
 彼が秘書室長のカイルに直接電話をしてきた、ということはそれだけのことがおきていると見なしていい。
「手が空いたらでかまいませんからちょっとウチに来ていただけませんか」
 自分が来るのではなく、来いと言う。これで研究所がらみの健康管理でないことだけは、確かになってしまった。
「わかりました」
 重い声でカイルは肯き、溜息と共に受話器をおいた。

 安全管理部長室のドアを開けるなりコンピュータの鈍い音が聞こえ始める。複数のコンピュータに無数と言っていいモニタが接続されている。その膨大な情報を一目で見て取ることができるのは岩田くらいのものだった。
「お呼び立てしてすみませんでしたね」
 岩田が努めて明るくそう言った。
 もともと機密関係を扱うようには見えない明るい男なだけに彼が無理に振舞う、それ自体が不自然で、嫌な予感が増す。
「最近、カイザーはご自宅のコンピュータから会社にアクセスされる事、ありますか?」
 予感は当たった。
 会社のコンピュータは情報の漏洩を防ぐためにあらゆる手段を取っている。
 ソフト的にはもちろんの事、社員が社内から新薬の開発情報にアクセスする場合であっても毎回パスワードを入れることになっていた。
 そのパスワードも週に一度、変更される。一ヶ月以上アクセスのなかったコンピュータからアクセスする場合、直前一ヶ月四つ分のパスワードと今週のパスワードを要求する、という手の込みよう。
 またその履歴が管理部に送られ岩田は着任以来のそれを完全な形で手元に持っている。
 だからいつ誰がアクセスしたかわかるのだ。知られている、というだけで犯罪を未然に防ぐ事にもなる。そう言ってカイザーはこの方式に改めたのだった。また、社外からのアクセスはほぼ完全に不可能だ。
 今のところハッカーに侵入を許した事はない。というのも岩田と言う男。ハッカーだったのだ。いったいどこで知ったものか、それをカイザーが見出して部下にしてはこの部署に据えた。
 だから岩田のカイザーに対する感謝と尊敬はひとかたならぬものがある。
 その岩田が自身の意地とプライドにかけて組み上げたプログラムは某政府機関が教授を願ったと言うまことしやかな噂が流れるほどで。
 けれど社外からアクセスできるコンピュータというのが三台だけ、ある。一つは研究所長の自宅コンピュータ。この男、無類の研究好き、というよりもある種の変人だ。人間よりも分子配列に魅力を感じるそうで自宅につくったラボでも研究をしたい、と言うたっての願いでアクセスを許している。自宅と言いはするものの研究所内に住んでいるのだからまぁこれは良しと言うよりなかっただろう。
 もうひとつはカイルの書斎から。カイルは秘書室長とはいえ、事実上の副社長としてすべての部署を統括してもいるのだから会社のコンピュータへのアクセスは欠かせない。
 最後のひとつ。無論、カイザーのものだった。
「……ないと思う」
「随分はっきりと?」
「同居してる人がいるから、ね」
「ははぁ……」
 わかったのだかわからなかったのだか岩田は肯き、モニタを指差す。
「ほら、ここです」
 細かい数字と英字の羅列をこともなげに指した岩田はそうカイルを見上げた。
「わかりますか?」
 いくらカイルでもこういった見慣れないものを示されてはなかなか簡単には理解できない。
「ん? 説明してくれた方が早いな」
 思わず苦笑してしまった。
 このどうしようもないであろう事態に対してはもうほとんど笑うしかない。
 そうですねぇ、岩田はあっさり言うと説明をはじめた。要するにこの三日ほど毎日カイザーのコンピュータからアクセスがある、と言う事らしい。
「でもおかしいんすよ」
 興奮すると彼はつい「昔の口調」になってしまう。カイルは岩田のそんな所が好きだった。
「ほらここが時間です」
 モニタを指差しながらまた説明を加える。
 それによると朝の二時から三時にかけてアクセスしている、ということだった。
「カイザー、あまり丈夫なほうじゃあ……? 確か前に室長が規則正しくしてもらってるって言ってたでしょ」
「あぁ。まぁ大人だからなぁ。毎日ちゃんとって訳にはいかないだろうけど、逆にいえば毎日そんな時間にってことは考えにくいな」
「で、喧嘩でもされてます?」
「は?」
 突然岩田はにやりと笑ってそんな事を聞いてきた。
「実はね、ここからが本題なんすよ」
 にやにや笑いをすっと引っ込めた彼は今度は深刻そうな顔になる。
 カイルはそれに頭を抱えたい気もしたのだけれど「本題」に意識を引き戻され、自分まで厳しい顔つきになるのが、わかる。
「今まで便宜カイザーがアクセス、と言って来ましたけど……辿りつけてないんすよ」
 やっぱりな、カイルは言葉もなく深い溜息が漏れる。
「だから室長と喧嘩でも、なんて冗談言ったんッすよ」
「パスがわからなければ私に訊けばいいからな」
「そういうこと」
 顔見合わせた二人が期せずして同じ唸り声を漏らす。
「ちなみに辿りつけてないってのは?」
「全部ハッカー退治のプログラムに引っかかってるってことッす」
「じゃあ……」
「そ。正規のアクセスでもない、ということですよ」
 緊張した岩田が努めて明るく言ってのけた。
 社員にはある一定の手続きを踏んでアクセスするようにと告知されている。
 それ以外の方法でもアクセスできるしその方が簡単でもある。岩田謹製ハッカー退治プログラムを回避できれば、の話だが。
 だからあえて手続きを踏ませるのだ。そうすれば仮に侵入を許したとしてもそれがわかる。もちろん「手続き」そのものも社員が守る機密、だった。
 カイルはそっと唇を噛み、そして岩田に心の中で感謝する。
「この件……任せてくれないか」
 そのつもりでしたよ、そう笑って見せた岩田に再度の感謝を。部長室を出るときカイルが不意に振り向いた。
「室長?」
 岩田の不審げな声に黙ったまま、カイルは静かに頭を下げていた。

「最近、眠れてますか」
「あぁ……随分早寝だな」
 あいつがレモネード、つくってくれるんだ。
 夏樹は少し、微笑って見せる。
 カイルのした何気なさそうな質問に、夏樹は困ったような顔をしてそう答えたのだった。
 実際、何気ない問いだった。
 あれから、あの人が夏樹の元に戻ってからも何度かしている。
 だから彼はきっとまだ心配をかけている。そう思って答えたのだろう。
 苦い後悔、ではない。でもそれに似た、なにか。
 カイルは岩田とあの話をした後、ふっつりと夜の外出をやめた。
 書斎にこもる。傍らにウィスキーのグラスを置いてはいたけれど、それもほとんど手がつけられることはない。
 ただ。じっとコンピュータのモニタを見ている。モニタには以前だったらよくわからない英字の羅列が表示されている。それをじっと見ていた。
 カイルはあれから、大まかではあるけれどプログラムの勉強をしたのだった。無論、教えたのは岩田だ。
 これで普段岩田が見ている解析を見ることができる。今モニタに表示されているそれはその解析をリアルタイムで表示したものだった。
 真夜中。通常だったらこの解析が動く事はない。時折。研究所長のアクセスがあるだけ。後はセキュリティープログラムが二十分に一度不審なアクセスがないか見回りに来る。
 それ以外にこの文字列が動く事はない。ないはずだった。けれど今。その文字列が現に動いている。
「……間違いない」
 知らず呟いたカイルの声は、掠れていた。
 間違いなく、夏樹のコンピュータからのアクセスだった。それも岩田の言う通り、通常の経路を通っていない。
「間違いない……」
 また、呟く。夏樹は眠れるかと言う問いになんと答えたか。
「レモネード、つくってくれる」
 照れたようにそう、微笑ったではないか。
 夏樹はあれから、カイルがあまりに自然にしている所為だろう。いつか彼自身、こだわらなくなっていた。
 前のように、笑い。前のように、頼る。
 それはそれで、いい。いいと思う。少なくともあのまま交渉を絶たれてしまうよりはよっぽどいい。
 そう、思うことにしている。だから夏樹もあの問いにそう答えたのだ。
「レモネード、か」
 上手いもんだ。カイルは呟く。自嘲。そうかもしれない。違うかもしれない。
 カイルは確信している。あの人が夏樹に薬を飲ませているはずだ、と。レモネードならばあの甘さに、酸味にわずかな苦味に、薬の味がごまかされる。
 まさかとは思ったけれどしかし彼のコンピュータを無断で触るのだ、それくらいの用心をしている方が当然だった、そう思い直したのだ。
 モニターの解析は今も、動き続けている。

「カイザー」
 自分にこんな深刻そうな演技ができるとは思っていなかった、カイルはそう思う。
「ん」
 社長室の中、彼は読んでいた書類から目を上げてかすかに心配そうな顔をする。
「昨日……喧嘩でもされましたか?」
「あん?」
「いえ……物音がしたような気がしましたから……」
 こんな大嘘を表情ひとつ変えずに言ってのける自分にわずかな嫌悪を感じた。
「何時ごろだ」
「さぁ……三時ごろでしょうか」
「じゃあ聞き間違いだろ。俺もう寝てたな、とっくに」
 それより。夏樹は言うと完全に書類を脇にのけカイルの目をじっと見た。
「お前そんな時間まで、起きてたの?」
「たまたまですよ。仕事で気になることがあって……パソコンつけていたら目が冴えてしまって」
 苦笑と共に、嘘ではない。だから一層、胸が痛んだ。
「なら、いいけど」
 内容を彼が訊く事はない。
 自分に報告するレベルではないとカイルが判断したならそれが的確なのだ、夏樹はそう信じている。
 だから。内容を訊かれる事がない。信用されている、それがこんなに痛いものだとは知らなかった。
「あんまり……無理するなよ」
 優しい言葉、気遣いが今は。胸をえぐるほどに、辛かった。

 からからと、二人が揺らすグラスの氷の音が重なる。随分と長い間、黙っている気がする。
 無理を言って貸切にしたシャブランのカウンターに二人、黙ったまま座っている。
「確実、なんだな」
 ようやく言った露貴の声は震えていた。
「あぁ。完全、とは言えないがほとんど間違いないと思う」
「あいつが……」
 乱暴に置いたグラスから氷で薄まった酒が飛び散る。
「夏樹が、だまされてる……」
 もう何度目だろう。露貴が言うのは。
「そうだ。だまされてるんだ」
 苦い声でカイルも答える。何度も。
「わかってくれると思うけど……中傷や憶測じゃ……」
「わかってる、そんな事言わなくってもわかってる……」
 カイルの言葉が終わらないうちにかぶせた声は、カイル以上に悲痛だった。
「……すまん」
「謝るな」
 お前の所為じゃない。
「俺が怒ってるのは……」
「あの人、だろ」
「あぁ」
「許せない、俺も同じだ。でも……」
「夏樹が俺やお前の干渉を許すとも思えない」
 店の中。急に誰もいないように静まり返る。二人、グラスに手を伸ばしたのは同時だった。
「仕事の事でも、だめだよなぁ」
 露貴の呆れたような、溜息。
「少なくとも俺やお前じゃあダメだ」
「岩田は?」
「岩田から正規の取り扱いをすれば大事になる。カイザーの部屋でカイザーのコンピュータを使って進入されたのがばれる」
 そして一瞬カイルは言葉を止める。
「カイザーの恋人が男だってのも、知られちゃまずい」
 言い知れぬ情けなさと共に吐き出された、言葉。自己否定にもつながる、言葉。
「なんてったって、社員の生活かかってるからな」
 無理に浮かべた笑い顔をひとつ、露貴がはたいてくれた。
「……すまん」
 ひょいと肩をすくめて露貴も答える。
「ま、いまの日本じゃ公表しない方が無難な事実ではあるからな」
「……そういうことだな」
「で、俺にどうしろっていうんだよ」
「……現場を押さえたい」
「諒解。今からでもいいな?」
 言った露貴はすでに腰を上げ。
「話が早くて助かるよ」
 溜息と一緒にカイルもまた、腰を上げた。立ち上がった二人を旭が悲しそうな目で、見ていた。



モドル   ススム   本編目次に