自分の後で閉まったドアの音が不自然に大きく響く。吸い込んだ、自分の息の音。それにさえも体がすくんだ。
 階段室の壁中に収められた蔵書が、階段そのものが。圧し掛かるように重い。今までそんな事を感じた事など一度もなかった。
「……いないんだ」
 呟いた、声。自分の声には聞こえなかった。カイルが自分をおいていなくなるなんて、考えた事もなかった。
 なのに。今はなにを見るよりそれが真実だとわかっている。ゆっくりと階段を、上がる。その足が、震えた。
 舌打ち。なににした舌打ちかわからない。そんな自分に夏樹は、苛つく。
「あ……」
 階段を上がりきったそこに。
「……本当に」
 辞表が、あった。見慣れた、文字。生粋の日本人などよりよほど綺麗な、カイルの字。
 一言の弁明もなく、ただ辞表だけをおいていなくなった、カイル。
 大きな音を立て、ノックもせずにドアを開け。いないのが身にしみてよくわかっているから。
「カイル……」
 いない。いない。もう、いない。
 まだ中天にも達していない陽の光が一面に入るリビングがこんなに乾いて見える。
 カイルがいない。なにも変わっていないのに。いつもどおりきちんと整理された部屋はなにも変わっていないのに。
 なのにもう、カイルはいない。部屋中を確かめてまわる必要などどこにもない。もう、いない。
 カイル、呼ぼうとした名は唇の中で、消えた。そっとソファ代わりのクッションを覆ったカバーに手を触れる。
 あれは。いつの事だったろう。薄明かりの中、二人で並んで一緒に夜景を見ていたのは。口説けよって笑っていたのは。
 自分に苛つく。あんなに怒っていたはずなのに。いや、いまでも充分すぎるほど怒っているのに。
「なんで……」
 怒っているのだろう、自分は。なにに怒っているのか。真琴を自分の下から奪われた逆恨み。信じてくれなかった事。それとも今までにもあったただの、喧嘩。違う、全部違う。
 ひとつひとつ並べ立てれば全部違う。なのになんでこんなに自分は怒っているのだろう。
「いなくなったんだ、カイル」
 ふいに関係のない事を呟いた。そのつもりが、ふと気づく。理由は、それかもしれない。
 いつも一緒にいる、そう言っていたのに。自分だけはどこにもいかない、そう言っていたのに。
「俺の事、おいてった……」
 子供じみた言い分だ、わかっている。
 たぶん間違いなく自分が悪いと、それもわかっている。でも。
「俺の事……おいて、いった……」
 まるでなにかの冗談みたいに。涙が。こみ上げる。
 別に好きなんかじゃない、愛してなんかいない。そう言ったのは、いつの事だったろう。
 夏樹の足は揺れながら寝室に向かう。理由があったわけではない。おそらく自分でそちらに向かっていると意識してもいなかった。
 だから、カイルが寝室にいるなんて思っても、いない。開いたドアの、向こう。
「……っ」
 モデルルームのように整えられた、ベッド。人が住んでいたことなどないように。夏樹を拒絶するように。何気なく、本当に何気なくクローゼットを開けた。もういないのだ、そう確認したかったのかもしれない。
「あ……」
 クローゼットの中に、似つかわしくないものがある。一冊の、本。カイルがいつもタイピンやカフスを片付けていた形のいい小箱の上に一冊の、本。
 栞した、本。栞、引き抜きページを繰れば、そこに。
  一昔 環の如し
  昔々 長に夬の如し
  但だ月輪に似て終に皓潔ならば
  氷雪をも辞せず 卿の為に熱からん
「蝶恋歌、か」
 切々とした恋の、歌。わざと、だろうか。わざとに決まっている。夏樹がきっとここを見るだろうことを予測して、カイルはこの本を置いていった。
 もしも辞表だけを取って部屋まで入ってこないなら、それでよし。部屋まで入ってきたなら、寝室まで来ることがあるなら、きっとここを見る。
 もしもそうなら伝えたい。
 今は去っていく。けれど。想いは変わらないから……と。
「ドイツ人が漢詩の引用なんかするなよ、馬鹿」
 ゆがめられた、口元。寄せられた眉根。笑おうとしたのかもしれない。泣きたかったのかもしれない。
 知らず視線が小箱に吸い寄せられる。
「あ」
 小箱の中からなくなっていたものは、ただひとつ。あの、キャッツアイのタイピン。くらり、目眩。
 今こそ本当に実感した。カイルはもういない。あの、自分が贈ったあの石だけを持ってドイツに帰ってしまった。
 それがどういうことなのか。痛いほど、わかる。今になって、良くわかる。体中から血の気が引いていく気分の悪さにベッドに倒れ。
「寒い……」
 嘘みたいに整ったシーツを見ていたくなくては引きはがし、もぐりこむ。
「……あ」
 カイルの、匂いがする。髪の匂い。つけていた香水の残り香。カイルの。
 あれほど。いつも一緒に眠っていたのに。気づかなかった、匂い。昨日別れたばかりのあの金の目に、会いたい。声に、ぬくもりに。カイルに。
 ふいに夏樹は立ち上がりほどなく戻ってきた時にはその手にひとつの壜が。
 霧を吹く音。カイルの香水。置いていったアンテウスの、香り。
 カイルの匂いに包まれて再び夏樹はベッドにもぐりこむ。枕を抱いて、震えながら。
「真琴……」
 恋した人の名を呼んでみた。わざと。
 なのにそれはもうなんの感慨ももたらさない。
 もしも。あの問題を自分ひとりで処理できたならたぶん、今も真琴と一緒にいた。質の悪い男と手を切らせ、いつまでも一緒にいたいと思っていたはず。だからこそカイルの助言を無視した。けれどあのときの真琴の顔を見てしまった。騙されているのでも使われているのでもなく、自分の意思で夏樹を操ろうとした、顔。一緒にいたい、そう思っていたはずなのに。
 なのに。真琴ではない人の顔ばかりが、浮かぶ。本当は自分が何をしたかったのか、よくわからなくなっていた。真琴と共にありたかったのか。そっと指で唇に触れ。柔らかい肉を押しつぶす。
 突然、起き上がった夏樹が壜を壁に投げつければ鈍い音。割れる事もなく部屋の隅に転がっていった香水の壜を夏樹はただ睨みつけるように見ていた。
「バカヤロウ……」
 寒さではない震えに膝を抱え、夏樹はただカイルのベッドにうずくまっていた。

 ただ。緑の森を眺めていた。鬱蒼とした、黒く見えるほどの森。故郷の森、シュヴァルツヴァルト。
「故郷……」
 声に出してみてもピンと来ない。風も空も森も大地も。みんな馴染みの深い、幼い思い出の場所なのに。
 心がここにないから。溜息と共にカイルはそっと手の中に握りこんだものを太陽にかざした。
「……夏樹」
 陽に透けて金に輝く小さな石。
「お前の目の色だ」
 そう夏樹が笑った、あのキャッツアイ。
 カイルは日本を出るときただこれだけ、持って出た。夏樹が少しでも思いをかけてくれた、その思い出。後悔、もしくは自虐。
 石が揺らめき猫の目が煌くたびに。あの人との思い出が、一緒に過ごした十五年が浮かぶ。
「愛してる」
 遠く離れた想い人に。呟けばずきり、傷が痛む。流れる赤い血もそのままに塩を塗りこめ酒を注ぐ、そんな行為に似た、自虐。
「愛してる」
 なのに石をかざさずにいられない。想いを唇にのせずにいられない。こんなにもあの人に恋焦がれている。
 わかっていた。けれど、これほどまでに焦がれ、切実なまでに狂おしいとは、知らなかった。
「あの人がいないなら」
 生きてはいけない。そうは言わない。それでも生きていたくは、ない。このまま。彼の側にいられないのなら。
 ただ緩慢に惰性で生きていくのだろう。飲み、食べ、眠り。あるいは誰かが側にいるかもしれない。
 冗談のひとつも言って、笑う。憤っては怒る。そんな日々を暮らしながらそれでも。
「死んでいるんだ」
 彼がいないのならば。今まで生きてきた時間がまるで慣性の法則に従うようにただ流れ、意思とは関係なく生きていく。生きているだけの屍。精神のない、体。人形。
「夏樹……」
 会いたい。ただ、会いたい。哀しいほど愛しくて。会いたい。

 七月のドイツは、少し騒がしい。夏休みに入って人々が心騒ぐから。
「コンラート」
 義姉が呼ぶ。
「今日も……?」
 微笑を浮かべて問われたそれが心配からだ、そうわかってはいる。
「はい」
 けれどそうしか言えない。
 この古い、城。カイルの幼い頃の家は、ホテルとして人を泊める。最近日本でもまた流行っている古城ホテルだった。
 泊り客には夏休みに入ったドイツ人だけでなく、一組、日本人がいた。だから。いたたまれなくて。気の違いそうな愛しさに、いまはただ髪の先までドイツ語に染まっていたい。日本語が耳に入るたび、苦しさに胸をかきむしりたくなるから。
「持っていきなさい」
 義姉が渡してくれたのは綺麗な色のナフキンに包まれた塊。見なくても、わかる。パンの塊。今でれば暗くなるまで帰ってこようとしない彼へのせめてもの、心遣い。
「ありがとう」
 俯きがちのカイルの目の端にちらり、心配そうな兄の顔が、映った。
 さわさわ鳴る草を踏めば緑色の匂いが立ち上る。木漏れ日の森を歩いても人には会わない。それが慕わしい。もともと観光名所などと呼べる所はあまりない場所だ。ゆったりと休暇を過ごす人や古い城が珍しい人がいるのはたいてい城の近くだった。
 だからこうやって少し歩けば一人になれる。森の奥に進めば心ゆくまで独りでいられる。
「危ないから入らないように」
 義姉は泊り客にそう言うけれどカイルにとってこの森は子供の頃の遊び場のひとつだった。
 気をつけさえすれば今でもそう危ないことはない。ふと振り返れば木々の陰。城が見えていた。なんの気なしに遠くに見える城を眺めながらカイルはその場に腰をおろす。
 年老いた大きな木に寄りかかり、足を投げ出し。ナフキンを開いてはパンを取り出す。
「わかってるくせに」
 そんな嗤いは義姉に向けたものか自分に向けたものか。
 カイルの指はパンの塊を細かく細かく砕いていく。ひとつかみ出来上がるとそれを撒き、また作業に戻る。
 そうしているうちに警戒心の薄い鳥が次第に集まり始め。カイルがパン屑を撒き散らすたびにばさり、飛び立つけれど程なく数を増やして舞い戻る。
「いいかげん慣れるか……」
 ドイツに帰ってきて以来、ずっとこうしているから。
 餌をついばむ鳥を見てもその声を聞いても心和む事などありはしない。それでも人の相手をしているよりはずっといい。木漏れ日にそっと。金の石を透かせて眺め。カイルの金の目はなにも見てはいない。ただ。遠い、想いだけを。
 その耳がふと、ありえない異音を聞いた。まるで急ブレーキを踏むような音。
「……え?」
 こんな所で聞こえるはずのない音に顔をあげる。森の中でそのような音がするはずもない。再びうつむいた口元には深い自嘲があった。
「そんなわけ、ない」
 ついに焼きが回ったか、そんな風にカイルは独り呟く。空を見上げ。目に入る黒い木々の葉。視線を落とし日本時間にしたままの腕時計を見れば真夜中。
「夏樹……」
 どうして、いるのだろう。いま。彼はどうしているのだろう。彼の側には誰がいるのだろう。あの人の声を聞き笑顔を見、そして隣で眠るのは。
 誰だろう。
「夏樹……」
 背後で土を踏む音。観光客が迷い込んできでもしたか。人目に触れたくなくて目をそらす。
「呼んだか」
 振り返る。そこに。異音以上にありえないもの。姿。
「いま、俺のこと呼んだろ。カイル」
「……夏樹!」
 嘘だ。嘘じゃない。まやかし。違う。考えるのももどかしくてカイルは夏樹の手をそっと取る。
 取った手は少し冷たかったけれど。それでも。
「ここに……いる」
 呟いた自分の声も耳に入らずカイルはきつく彼の体を抱きしめていた。
「カイル……」
 くすぐったそうに笑うのは。今までからは想像もつかないほど嬉しそうなのは。なぜだろう。なんでもいい。いま。ここにこの人がいる。
「会いたかった……お前、帰ってこないから……」
「迎えに、来てくれたんですか?」
「……会いに、きたよ」
 一瞬、言いよどんだ夏樹の言葉。それもいまは、夏樹が腕の中にいるいまだけは気にならない。
 ふわり、見上げてきた目が笑う。夕方の木漏れ日に透けて深い蒼が揺れる。
「……カイル、まだ、俺のこと?」
「愛してます」
「……うん」
 安心したように、けれど照れて居心地悪そうな夏樹がそうっとカイルの肩口に頬を沿わせる。ためらいもなく背中を抱き返した手に少しだけ力が入ってはシャツをつかんだ。
「カイルが……好きだ」
「夏樹」
「それだけ言いたかった……自分の口でちゃんと言いたかった」
 ふいに夏樹が腕から抜け出した。
「カイルの実家って、あそこ?」
「えぇ」
「お前の部屋って見えるのかな……」
 すこし、遠い目。
「ほら……」
 カイルの指で示した先に城がある。木の陰から一歩踏み出しカイルはもう一度指し示す。
「あそこですよ。左の……影に」
 わかりますかと、そう。振り向いた先に夏樹がいない。
「……え」
 音もなく。いや、それよりも。一瞬前まで確かに指先が触れ合っていた。
「夏樹……!」
 声はただ虚しく黒い森に吸い込まれ。不思議と小鳥の鳴き声ひとつ聞こえなかった。




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