テーブル代わり、作り付けのカウンターの上には所狭し、と言っていいほどの皿の数々。あれもこれも夏樹の好物ばかり。
 外食する機会も多い事だから、と自宅では和食を好む彼の為、いつの間にやらカイルの料理の腕も上がっていた。
 本質的に料理は嫌いではなかった。けれど彼がいなかったならば自分ひとりのためだけに料理をしようと言う気になったかどうかはカイルにもわからない。
 彼のためにだけ、覚えた。もしも自分のためならば、和食はそれほどたくさん覚えはしなかっただろう。それだけは確実だった。
 ふと。どれほど長い間この人の為だけにこうして料理を作り、身の回りの世話をしているのか。
 そんな事をカイルは思う。
 ずいぶん長い間だったような気もする。ついこの間からのような気もする。あっという間の十余年。
 彼のためだけに流れた日々ではなかった。彼と共にあることを自らが選んだ日々。二人で過ごしてきた時間だと思えばつらさも何もかけがえのないもの。
 これからは、たぶん。
 本当に今日という日は今まで見てきたはずのことでも新鮮な発見のように思えてしまう日だと胸のうち苦笑する。それほどまでに何もかもが嬉しかった。
「さあどうぞ」
 カイルの笑いにつられたように夏樹も笑む。
 この、すぐそばに彼がいる、そんなどうしようもないほどの幸福感。
 湯上りに少しだけつけたものか彼の香りが、エゴイストがほのかに香っている。
 なぜというわけではなく唐突にそれは彼なりの武装なのかもしれない。そんな事を思った。
 なにかがほどけるようにまっすぐな道が見え始めるような、そんな。そんな日もあるのかもしれない。
「こんなに作ってどうしろって言うんだよ」
 そう言った夏樹の憎まれ口にさえ、愛おしさを。
「無理しなくていいですよ」
 久しぶりに作って差し上げたのが嬉しくて。カイルは言って微笑んだ。
「無事、退院されて、良かった……」
 そして思わず言葉を続けた。
「……心配、かけたよな」
「原因の一端としては、当然でしょう」
「……それだけかよ」
「違うに決まってるでしょう?」
 答えにふっと緩む彼の口元。その唇がいつもより、赤い気がした。思わず見惚れそうになった視線を引き剥がせば夏樹もわざとらしく何もなかったような顔をする。
「いただきます」
 けれど夏樹も自分の仕種の不自然さに気づいたのだろう。ごまかすように彼は箸を取った。そのことでかえってほんのりと染まった頬をカイルは黙って微笑んで見ていた。
 ぶつぶつ言っていたわりにテーブルの上はあらかた片付いている。
「やっぱうまい」
 あえてカイルに言う、という体を作らず視線を落としたまま言うのがなんとも彼らしくて、嬉しい。
「なぁ、俺も酒」
 先ほどからカイルは手にグラスを持っている。
 酒量は多い方ではないが夕食とともに好みのグラスを傾けるのが好きだった。
「ダメですよ」
「なんで」
「病み上がりの癖になに言ってるんですか」
 今日になってすでになんども言っている台詞をまた繰り返しては苦笑い。
「すこしだけ」
 けれど彼は、なんとも言いようのない表情をしたまま引き下がらずに懇願の表情を浮かべる。それとわかるほどではない。ただカイルにだけわかる表情。
「ちょっとだけですよ」
 ほだされて言ったカイルになぜかほっとした顔を見せた。
 カイルの手にはウイスキーのグラス。最近気にいりのバーボンを無論ストレートで。
 夏樹の手におさめたのは、偽マティーニと彼が笑った酒。ゴードン以外はジンじゃない、という彼の好みどおりジンはゴードン。ベルモットはチンザノ。カクテルグラスにステアで飲むのが正当のこれを夏樹はロックグラスに氷を入れて飲むのが好きだった。
「家で飲むのには楽だしな」
 そう言って以前から食後に楽しんでいたのだ。
「それ、なに」
 カイルの手の中の酒をさして彼が聞く。
「フォアローゼスですよ」
 甘いような香りのするそれを喉に流しながらカイルは答える。
「ひとくち」
 答えるより先にグラスは奪われ。彼の唇がガラスに触れる。
「好きかも」
 それだけ言ってグラスを返してきた。
 それがなにやらとても新鮮で、なにが新鮮なのか一瞬わからなかった。
「あ……」
 初めてだった。どれだけ親しかろうとも、どんなに信頼しあった仲であろうとも。今までひとつの皿を分け合ったこともまして同じグラスから酒を飲んだ事もなかった。
 たぶんそれは彼なりの境界だったのだろう。それが揺らいだ。彼の内側に少し入れてもらえた。胸が痛んだけれど、それは今までのような痛みではなく歓喜からくるもの。
「ん?」
 黙って微笑むカイルに、不思議そうに夏樹が目顔で問うてくる。
「いえ」
 それだけ言って笑みを深くしたカイルの顔に夏樹もその事実を気づかされたものか笑いながらうつむいた。
 そしてそのまじっと、彼は黙ったまま酒を飲み続け、もう半分ほどに薄まってしまっただろうそれで唇を濡らしている。
 何度も、そう何度も。
 なにかを言いかけては、止め、止めては言いかけ飲み込む。
 なにを悩んでいるのか、言うまでもなかった。
 酒でも飲まなければ解けない言葉。長い年月がただ、彼の唇から出てくるはずの言葉にためらいをもたらしている、それだけ。
 だから。
「夏樹」
 驚いたよう振り向いた彼にそっと。
 唇を、かさね。
 逃げるそぶりさえ許さず肩を抱けば今度はカイルが驚く番だった。彼が、夏樹が、自分からカイルの体に腕を添わせて、来る。
 重ねただけの唇にもっとを求めてしまいそうになって静かに離す。
 と。押し付けてくる、夏樹が。自分の唇をカイルのそれに。
 添わされただけだった腕が首にまわされ押さえつけるようカイルの髪の中、指は絡まり。
 息苦しいほどのくちづけから互いを解放すると夏樹は崩折れるようにカイルの腕の、中。温かい彼の体がそこにある事実が信じがたくてどうしようもなかった。嬉しくて、ただ嬉しくて。
「俺が欲しいって言うまで……しないって言ったの、誰だよ」
「そう聞こえた気がしましたが?」
 笑みを含んだカイルの声。柔らかなそれに夏樹がほっと息をつく。
 震えるようにためらった愛しい人の体をやすらわせたくてそっと、いままでにないほどそっと髪を梳いた。
「敬語、よせよ。お前……俺のなんなんだよ」
 自分の感情を表現することが何より苦手な彼の精一杯の告白。声が震えていた。
「気をつけ、る」
 気をつけます、言いかけて長年の習慣はそう簡単には変わらない、と苦笑も漏れる。
「俺……」
 大きくひとつ彼は息を吸い。緊張に体がこわばっている。だから。
「夏樹」
 呼びかけては彼の言葉を遮った。
 決心を鈍らされたのが不満、とでも言うように見上げて来る目。
 視線があえば彼の方からそらす。わだかまりがあったあのときのようなそれではなく、羞恥から来る、それ。あまりに近い距離に。
「無理に、言うことはないから。ずっと側に、いるから。私の気の長いのは、知ってるでしょう?」
 言ったとたん背中を引っかかれた。可愛らしい抗議の仕方に思わずカイルは瞬いた。
「馬鹿にすんな。急に慣れないってのはわかってる。でも……お前が普通の時、俺って言ってるのは知ってる。それくらいは、知ってるんだ」
 そうして、おまけのように背を叩かれた。
「お前が思ってるよりずっと、お前の事……知ってる、俺は」
 独り言めいて夏樹が言う。
 カイルの肩に額を預け、ぬくもりに安堵の溜息を漏らしつつ。
「夏樹」
 そうやってただ名を呼ぶだけのことすら、できなかった。
 代わりにきつく、抱きしめ。
「くるしい、馬鹿」
 照れた声に押し戻され。
 そらすだろうと思っていた視線はそらされず、穏やかに上気した夏樹が、微笑っていた。
「ベッド、行ってるから」
 言ってはじめて目をそらし。ぷいとそのまま立ち上がる。
「……夏樹、待って。そんな」
「別に嫌なら来なきゃいい」
「そうじゃなくて」
「ごちゃごちゃ言うなよッ。やだったら抱かなきゃいいって言ってんだろ」
 向こうを向いて立ったままの彼の肩が寂しそうで。
 口で、言葉で多くを語れる人じゃないとようやく、思い出した。
「待ってて。すぐ行くから」
 立ち上がり軽く抱きしめながら耳元でささやけば腕の中の彼はわずかに緊張したよう、黙ってうなずいた。

 一番ちいさなライトだけがサイドボードの上でかすかに明るい。
 ベッドの中、背を向けた人をそのまま腕に抱けば少し、震えていた。
「……恐い?」
「うるさい」
「途中でいやだって言っても止まらない。いやなら……」
「しつこい」
 そのまま夏樹の唇に言葉を、止められ。

 水面に浮かぶように目が覚めて、ここしばらくないほどの充足した睡眠だったと知る。
 訳など問うまでもない。腕の中、肌を合わせたまま眠る人がいる。
「ん……」
 ゆっくりと開いていく、目。朝陽が入ったか少ししかめたその目が蒼い。初めてこの色を知った日から、何度見惚れたことだろう。
 ゆらり、笑いになった。
「見んな。照れる」
 背にまわした掌で軽く叩かれればいつのまにかできている細かい傷が少しばかり痛んで、カイルの口元もまた笑う。
「やっぱ、信じない」
 唐突な言葉。でも声がやはり笑っている。それは言葉とは裏腹な深い信頼。
「え?」
「どこにも行かないって言ってたけど、信じない」
 信じれば裏切られる、とでも言いたげに。もしもカイルを失ってしまったならば。そう考えるだけで寒気がする、夏樹は言う。
 言葉にならない言葉で。全身で。カイルだけが聞こえる彼の声が叫ぶ。
 見つめてもそらすことのない目がじっとカイルを見ていた。カイルの姿を焼き付けようとでもするように。
「別に信じなくてもいい」
 だからカイルはそんなことを言う。
 それから彼を柔らかな目で見つつサイドボードの煙草に手を伸ばす。
 照れたのかもしれない。彼が示す不器用な愛情の深さに気恥ずかしくなったのかもしれない。
 胸苦しさにカイルは知った。これほどまでに自分は愛されている、と。誰よりも、何よりも。
「……んだよ、それ」
 自分で言っておきながらもカイルの答えが不満で仕方ないとばかりに、子供のよう頬を膨らませ夏樹は言う。
 信じていいと言ってほしかったのかもしれない。けれどカイルはそうしなかった。
 紫煙が揺れる。
「今際のきわに事実だったって、わかるから」
 今だけは、夏樹のような言葉にしたかったから。口先ではなく、言葉でけでもなく。自分のすべてをかけて言いたかった。
 揺れた煙の向こう側、にやりと笑ったカイルがいた。
「ったく、気障言ってんじゃねェよ」
 言った夏樹は、照れて笑って煙草を奪う。
 その仕種にカイルは心の底から湧きあがる思いを抑えきれない。通じたのだ、そう思う。ここから始まるのだと漠然と思う。いままで続いてきた時間が、変わることなく変わっていく。
 黙って目を閉じたカイルの唇に触れるもの。彼の指先。応えてそっとくちづけた。




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