ほんのりと頬を上気させた高遠が見上げてくる。もう一度触れたくなってしまう気持ちを何とか抑え込んだ。
「先生と……キスしちゃったね」
「あ、改めて言うなっ!」
「だって、眼鏡っ!」
「眼鏡がなんだよ、もう……っ」
 改めて言われると、先生という言葉に感じる罪悪感以上にキスという単語の持つなんと言うか甘さみたいなものが妙に恥ずかしかった。
「だから、眼鏡かけてると『先生』ではずしてると、その……僕の……みたいな、さ」
 だんだんと小さくなっていく、語尾。その震え。その愛おしさ。
 そうか、いまのところ眼鏡をかけていない時は自分のものだと、高遠は思っているのか。確かにプライベートとオフィシャルをそれで分けている所が自分にもあるからな、そんな納得をする。
 大体、眼鏡がない方が好きだ、とも言っていた。そんなことを思えば自然、頬が緩んでしまう。
「改まられると、照れるだろ」
 言いながら高遠を腕に抱いたまま眼鏡をテーブルに放り出した。いまは、お前だけのもの。
「このまま、話して。二人のこと」
「俺が話して聞かせるより、篠原の旅行記読めよ。そのつもりで読めば、どれほど慈しみあってたか、わかる」
「それでも……先生の声で、聞きたい」
 声を聞いていたいだけかもしれない。だから耳元で話した。囁くように。
 どこに行くのにも二人一緒だったこと。不器用だった伯父貴が、二人の初めて会った記念の日にだけは毎年、欠かさず贈り物をしていたこと。
 喧嘩をしたってすぐに仲直りして、側にいた子供の自分が目のやり場に困るほど仲がよかったこと。
 それほどまでに頼りあって生きていた二人なのに、自分で選び取った作家あるいは歌詠みであると言うことが生きていくうえで一番だった。お互いは別格だったのかもしれない。
「そんな生き方が、僕もしたい……」
「できるさ」
「でも大学、国文行って、それからどうしたいんだろう。琥珀の研究者になりたい、とは思う。けど……それで一本立ちするまで、どれくらいかかるんだろう。先生の側にいつになったらいかれるんだろう」
 不安。年若き少年が、将来の夢を持っているからこそいだく、不安。
 思えば自分もそんなことを考えたことがあった。教師になりたい。でも教師になってどうしたいんだろう、そんなことを考えた日が懐かしい。
「大学入ったら……俺のとこ、来いよ」
 腕の中で高遠が小さく身じろぎをする。それじゃだめだ、と。
「下宿。破格にしとくぞ。お前がバイトして払えるくらいに、な。それに……琥珀が実際に住み暮らした家だぞ。研究したいなら悪い話じゃないと思うけど?」
 かすかに、それからはっきりと肯いた。
「大学卒業してからも、居ていい?」
「いつまででも。琥珀がそうしていたように、ずっと」
「……うん」
 うっとりとしたその返事は初めて俺が与えた確証への嬉しさだろうか。そんな愛しい人をきつく抱きしめた。
 下宿代は貯めておいてやろう、今からもうそんなことを思った自分に少し、笑った。

 二学期に入ってから、睡眠薬騒動があったり、体育祭がらみで喧嘩したりと色々あったわりに高遠は、中間試験でも国語の学年首位を守り抜いた。
 廊下に張り出された席次の前で新田が憤懣やるかたないといった調子で高遠をそれでも祝福しているのだろう声を、微笑ましい思いで聴いている。
 確かに高遠はたった一人の愛しい人だけれど、今はまだ自分の教え子でもあり、国語の成績だけが芳しくなかった高遠がこうしていささか不純な動機であっても、国語という科目に興味を持って精進しているのを見るのは嬉しい。
 それが一週間前のこと。一週間の試験休みに高遠は父親に下宿の件を話したそうだ。それから俺自身が高遠家に出向いて、今は一生徒として接していること。琥珀の研究者になりたいという高遠の熱意を教師として、それから琥珀の縁者として嬉しく思っていること。大学に合格したなら実家から通うよりも近くのアパート等から通った方が近いと高遠に相談されて、ならば自分の所に来るのはどうかと奨めたこと。
 それらを若干の嘘を交えて父親に話し、そして快諾を貰った。高遠の父は顔の前で照れたように手を振って言葉を繋ぐ。
「母親が居ないものだから、わがままいっぱいに育ってしまった息子でしてね。大学入学を機に家から出そうとも思っていたんですが、先生に引き受けていただけるなら、安心ですよ」
 一人息子が結局心配な親ばかですよ、なんて言って笑われてしまっては、良心の痛まないこともない。
 大事な一人息子に多くの親が望むような、いい会社に入って可愛い嫁さん貰って孫が生まれて、そういう幸せから引き離したのは他ならぬ俺だから。
 それでも、共にあること。それがお互いの幸せなら、それでいい。伯父貴と真人さんは限られた人だけがその関係を知っていただけだけれど、世の中に隠さなければならない関係だったけれど、それでも幸せだったから。「息子」の俺がそれを誰よりもよく知っている。

 十月の末、内部推薦者の合格発表があった。もちろん、新田は国文に合格していた。
「当然だな」
 そう嘯く新田を見る高遠の目には、新田には負けない、そんな幼い敵愾心と、わずかな焦り。
 自習室でのいつもの補習。その時でさえ苛々としている様子が隠せなかった。
「今まで僕、全然、国語に興味なかったんですし、仕方ない。過去の成績後悔したって、そうでしょう?」
 だから頑張るんだ。じっと見詰めてきた瞳が、そう言う。
「頑張るのはいい。後ろを見ても仕方ない、それもわかる。ただ……」
「ただなんです?」
 確信した。普段ならこんな風に畳みかけてくることなど、決してしない。
「焦るな。大丈夫だから」
「そんなこと言ったって……今まで真面目にやってきた人と基礎が違うもん。……焦りますよ」
 かりり、親指の爪を噛む。見れば少し血さえにじんで。ここ何日か、内部推選の発表を待つそのストレスに。
「誰が受かって、誰が落ちたか。目安にしてる。自分がこんなやなヤツだと思わなかった」
 自嘲の呟きは、高遠にとっては深刻なものだろうけれど、それだけちゃんと見てるなら安心だと思う。
 いやなヤツというのはこういう事を言うんだ、とはさすがに言えない。受かったのも、落ちたのも、いずれも自分の生徒なのだから。
「おいで」
 それだけを言い自習室を出る。振り返らずとも不満げな顔して高遠がついてきているのは分かった。焦り、不安。もしも落ちたらどうしよう。そんなものが渾然一体となって高遠を追い込んでいる。
 わかるけど、誰がドア越しに覗いても不思議じゃない自習室。慰めてやるわけにはいかない。
 二階分階段を上れば、専門書の書架の並ぶ図書室の二階部分。いけないな、と思いつつもここなら誰もこない。来たとしてもあまりの静けさに、人がくるのが分かるから。ちょうど具合のいいことに国文関係の書架は部屋の隅。
「先生っ!」
 なんで突然ここに連れたこられたのか、高遠にはまだわからない。苛々とした声は、一問でも多く問題を解いてしまいたいとも。
「痛そうだな……」
 握り締めたこぶしをそっと開かせれば、親指の傷。両手で包んで。口に含んだ。舌で傷をたどればわずかに痛そうな、顔。そのまま腕に抱きこんだ。
「大丈夫だから。合格できるラインより上にいるから。俺の言うこと、信用できないか?」
「……ごめん」
 包み込んだ背中の制服の感触。ここは学校で図書室だ。教師で、生徒で。それがどんなに悪いことか、自覚はある。それでも高遠が、愛しい。嘘は、つけない。
「ありがと」
 珍しく自分から離れていった高遠はようやく落ち着いたものかなんだか情けなさそうに、笑った。
 唇を重ねる代わりにそっと襟を飾る翡翠のピンにくちづけを。まるで本当にくちづけを交わしたような高遠の、ため息。
「戻るぞ」
 ようやく肩の力の抜けた高遠をじっと見ていると自制がきかなくなりそうで、ふいと背にした。
「先生」
「ん」
 だからそのまま、背中で聞いた。
「ごめんなさい」
「なにが」
「……上手く言えない。でも、『校内では絶対に先生』っていうの破らせちゃった」
 そう、確かに今になっても校内ではお互い言葉つきからなにから気をつけている。教師、生徒。それぞれ演じているのかもしれない。
「緊急避難だ。気にするな」
「緊急、避難?」
「そ。緊急避難。これ以外にお前が落ち着く方法が思いつかなかった」
 にやり、笑えば。恥ずかしそうに俯いた。
「なんか、体に納得させられたみたい」
 独り言ほどの小声。うっかりすれば聞き漏らす所だった。
「それは深読みしすぎだぞ」
 本当に独り言だったものか、羞恥に頬を上気させそっぽを向いた高遠がそこにいた。

 受験生にとっては当然かもしれなかったけれど、高遠はクリスマスも正月も返上で勉強に明け暮れていた。
 俺はといえば他の生徒の指導もあればテストもある。採点して、通知表をつけて。なかなか忙しい。そんな折のことだった。
「先生。しばらく……会わないね」
 時々ではあったけれど、淋しくて仕方ない時、高遠は地元の図書館に俺を呼び出した。特に何を話すわけでもなく、ただ一緒にいて参考書を覗いている、それだけで充分満足してくれていた。それが。
「……受験に専念して、合格して、先生にふさわしくなりたい。だから……」
 そうしてわかった。会いたくて、淋しかったのはむしろ、俺のほう。だけど高遠が、自分より十一も年下の高遠が、子供だとばかり思ってた高遠が、そんな風に言うのだ。だから、困らせないようにするのは、俺の責任だ、そう思う。
 だからあれからずっと年が明けた今になってもこまごまと家の片付けなんかして気を紛らわせているのだ。
 実際手間がかかるのは仕方ないこと。今年の夏頃にはどうだろう、出来るだろうか。篠原忍と水野琥珀の、記念館。
 彼らが愛した野毛山公園の一角に市の施設として建設されることが決まったのはちょうど高遠と喧嘩をした頃のことだった。
 実際は俺の実家の経営する会社と市が半々くらい、いわゆる第三セクターというやつだ。
 どうせ建てるならきちんとしたものをという父の意向もあって建物自体は小さくともきめ細かい展示になりそうだ。
 だから。うちにある伯父貴たちの遺品の整理をしているのだった。原稿やら写真やらという紙類は図書館に預けてあるからいいものの、まだこの家には、着物だとか万年筆だとかそんなものがたくさん残っている。
 文学者の記念館としての展示物には事欠かない反面、それが篠原の物なのか琥珀の物なのか、今となっては区別できるのは俺だけ、という恐ろしい事実。
 手間がかかってしょうがない。が、これで居住スペースが広がるのはありがたい。高遠が、もう少ししたら引っ越してくるのだから。

 ここ二三日、職員室があわただしい。各大学の合格発表が集中している所為だ。無論、うちの大学の発表もこの数日のうちに全学部の発表が、終わる。
 職員室のあちこちで、合格の報告をしている生徒の弾む声。受ける教師のこれもまた嬉しげな声。今日はことのほかそんなものが耳について仕方ない。国文学部の発表が、あるから。
「たーにん!」
 一年近く付き合ってようやく新田がこんな風に呼ぶのは、一種の照れ隠しなのだとわかりつつある。
 今まで教師を教師とも思っていなかったくせにいきなりしおらしく先生、なんて呼ぶほうも呼ばれるほうも困るだろう。
「何か用か?」
 デスクの上の無意味な書類から目を上げて、落ちてもいない眼鏡をずり上げる。正直言って会いたくないのだ、今は。高遠が……。
「あの、先生……」
 一瞬、目を見張った。新田の影に隠れるように、高遠の姿。心細げな、自信のなさそうな、困りきった笑み。
 もしや……いやそんなわけはない。そう思いつつもどう声をかけていいものか。さっきまではうるさいほどだった職員室の中が針ひとつ落としても聞こえるほどに静まりかえっている。
 きぃんと、耳鳴りめいた音。気のせいかもしれない。わずかな、目眩。
「あの、合格しまし、た」
 大きく息をつき、それと共に音が戻ってくる。時計が一度に動き出したような気分だった。
「……よかったな。よく、頑張ったよ」
 当たり前のことしか言えない。にやにや笑っている新田のことさえ気にならない。本当は黙って抱きしめてやりたかった、それから。
「祝福のちゅうでもしてあげたら? 担任?」
 軽口を叩いた新田に軽く拳固をお見舞いして、また落ちてもいない眼鏡を直した。決して見透かされたからでは、ない。

 さすが伝統ある学校の典雅な卒業式に、今日ばかりは純粋に教師としての喜びを感じている。
 あの子は協調性はなかったけれど、一人でする作業は飛びぬけて優秀だった、とか、ほんの遊びのつもりの悪戯が大騒ぎになってあちらこちらと奔走させてくれた子が今日は一人前の顔して厳粛に式に参列してる、とか。
 一年きりの付き合いでも、たくさんのことがあった。ひとつひとつ思い出せばキリがない。
「卒業生、退場!」
 張りのある司会の声がそう告げる。精一杯のその声は、生徒会長、四條遥。今まで寮のひとつ部屋で共に暮らしてきた恋人と、四條は今日で離れ離れになる。
 ふっと笑って見せた視線の先には、新田。いつになく厳しい顔は既に少年とは言えない。新田のことだから、これから先、二人で一緒にいられるためにもう何か考えているのかもしれない。
 それでも一年の間離れているのは辛いだろう。さぁっと席の中央に在校生が道を作った。送り出すのは無粋な拍手なんかではなく、これまで歌い慣れた、校歌。
 朗々とした響きに背中を押され、卒業生は旅立っていく。新しい世界へ。
 俺の前を通る時高遠がにっこり、笑った。



「ハル、どうしたの?」
 すぅと顔を寄せて、手元を覗く影。
 ふわりと柔らかい髪が頬をくすぐった。
「アルバム。懐かしいだろ?」
「あぁ、高校の時の写真かぁ……色々あったもんね『先生』」
 いたずらを見つかった子供のよう、くすりと笑う恋人を引き寄せて、くちづけをひとつ。
「好きだよ、翡翠」
 応える幸せそうな笑顔の恋人をそっと抱きしめる。
 この先も、これからも、ずっと一緒に歩いていこう。つないだこの手を離すことなく、ずっと。「両親」のよう、終生を共に。




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