「同じ学部の友達でさ、車好きがいるんだ」
 翡翠は一度の留年もなくめでたく大学三年生になっている。
 高校生の頃の少年特有の線が抜け、少し背も伸びた。
 けれど相変わらず春真より頭一つ分ほどは小さい。春真がずば抜けで長身だ、というのもあるが。
「ほお。なに乗ってるって?」
「んー、スカイラインだって言ってたな」
 ふぅんと気のない返事をしたままそれきり春真は興味を失ったように読みかけの本に目を落とした。
「スカイライン、嫌いでしょう」
 そんな姿があまりにもおかしくて、つい翡翠はからかってしまった。
 春真はといえば自分でも大人気ないのが自覚できたか
「別にスカイラインは嫌いじゃないよ」
 と、苦笑した。
「だってけっこう突っかかるでしょう?」
「スカイラインはいい車だよ。多少重いのが難点といえば難点だけど、それを生かせればとんでもなく速いし、だいたいそれをカバーするシステム積んでるし」
 相変わらず車の話となれば生き生きとする春真を翡翠は嬉しそうに見ている。
 自分のことを棚にあげて
「危ないから絶対にだめ!」
 と言って翡翠は免許を取らせてもらえない。
けれど、その分必要な時にはRX-7の送り迎え付だから、悪くないななんて考えてもいる。
春真にしてみれば翡翠を横に乗せて走るという楽しみを例え本人にであっても奪われたくない、とそれだけだったのだが。
「でも嫌いじゃん」
「嫌いじゃないさ」
「嘘だね!」
 二人は顔を見合わせ笑ってしまう。
 こんな風にちょっとした事をああでもない、こうでもないと二人で言い合える、その喜び。
 あの頃夢にまで見た時間だった。
「スカイラインは嫌いじゃない。乗ってる人間が嫌い」
「なんだ、そうなんだ」
「だって、あいつら上手くなったって勘違いしてるだろ?」
 ぷいっとあらぬ方を向いて春真は憤慨してみせる。
 翡翠の担任であった頃にはまず見せる事のなかった子供っぽい仕種を見るのが、翡翠は楽しくて仕方ない。
 これもひとつの独占欲かもしれない。
「車がいいだけ?」
「そう言うこと、だ」
 そう、笑った。
 それにしても、と春真は思う。
 一学期の成績表付けがあったとはいえこのところあまり走っていないな、と。
「走りに行かない?」
 こんな翡翠の勘のよさ、飲み込みのよさが春真はとても好きだった。

 湘南の海岸線も夏は随分混んでいる。
 夜になってもそれはあまり変わらない。
 親子連れがいなくなる、それくらいだ。
 春真は峠に着くまで、決して無理をしない。たくさんの普通の人がいるところでは流れに沿って安全運転、と言うのがモットーだ。
「当たり前だろ、一般道なんだから」
 とは言うが、どうにも矛盾している気がしなくもない。峠道もまぁ間違いなく一般道なのだが。
 その辺翡翠はいとしい人の言う事だからか多少差し引きつつ黙殺していた。
「あ……!」
 どぉーん。
 続く光と色の競演。
「そうか江ノ島の花火大会か。どうりで混んでる」
「今日だったんだねぇ」
 思いがけず花火が見れたと喜ぶ翡翠をちらりと見やり、春真は道をそれていく。
 後ろに流れていく光を残念そうに翡翠は見惚れた。
 車はいつのまにか人気のないところに進んでいく。周囲は暗い。人家の明かりも、ほとんどない。
「ハル?」
 にやりと笑っただけで彼は答えなかった。
 ちかり、派手なネオン。春真はためらうことなく車を進めてしまった。
「ハっハル!」
明るく、そして淫靡な光は。
「そ。ラブホ」
「ちょっちょっと、だって」
「嫌か?」
「い、嫌じゃ、ない」
 薄暗がりで俯いた翡翠の顔は見えなかったけれど、きっと赤面しているに違いない。そう思うと春真の口元は緩んで仕方なかった。
 車をガレージに停める。
「こっち」
 と言っては車の後ろ側からドアを開け建物の中に入っていく。どうやらそう言うシステムらしい。
 もう一枚ドアを開けた向こう、いかにもと言うような部屋
「……でもないんだ」
 あたりを見回し翡翠は呟いた。
「まぁこの辺なら抵抗も少ないだろう、と。顔見られる事もないし」
 まだあっけに取られたままの翡翠の顎先を捕らえ軽くくちづけ。
 身長差があるから、そんな女の子にするような仕種でキスをするのが妙に、似合う。
「ところでね、ハル」
 にぃっこりと翡翠は笑う。
 まるで絵に描いた天使の様な笑みだ。
 もちろん春真はそう言うときに彼が何を考えているのかよくわかっているから思わずぎくり、半身を引いた。
「なんでこんなトコを知っているのかな?」
 ほぅら来た。と心の中で身をすくませてしまった。
「あぁだから、その」
 言い難いことこの上ない。
「ふぅん、浮気したとは思わないけどね。ハルのほうが年上だし? 僕と会う前にこーゆートコ来るよーな人がいたわけだ」
 笑ってはいるもののその口調の冷たさ。ひとつふたつ殴られた方がどれほどましかと春真は思う。
「そうじゃなくてな」
「別にイイもん。しょうがないもん」
 そんな風に思っていないくせにと、そうちいさく春真は呟いて、小柄な恋人を腕に抱いた。
 恥ずかしがって誤解を解くに越した事はない、と。
「ハルから訊いたの! やましい事なんかないんだからな。ったく」
「え」
「たまには場所でも変えたら、とか。大きなお世話だよまったく」
 実際はもっと酷い事を言われていたりするのだけれど、なにもこんな所で思い出す事はない。
「……うぅ。ごめん」
「嫉妬は程よく狐色って? 可愛いから許そう、翡翠クン」
 はやとちりの嫉妬にまだ頬を染めたままのその唇に軽く音を立てたバードキスを。
「それより……」
 抱擁を解いて春真は窓に向かう。ぱちり、電気も消して。
それとわからないつくりになった窓を開け放てばそこに。
「あ、花火」
 目隠しの木々の陰から上がる大輪の、花。
 一瞬にして咲き誇り刹那にして消えていく夏の花。
「これをな、見せたかった」
 翡翠が至福の顔で、笑った。
 後ろからそっと恋人の体を抱き、一時の花にふたり、酔った。




モドル