そんなつもりはなかったのに、怒鳴ってしまった。
 カイルは独り、バスルームで自己嫌悪に陥っていた。
 延々と頭からシャワーを浴び続けてもそれが晴れるわけでもなく、頭痛だけが増していく。

「洗濯物ぐらい自分で畳めよ」
 仕事から二人で帰って来て、山になっている洗いあがった洗濯物を見たら、爆発した。
「……」
 なにかを言いかけた夏樹が口を閉ざす。
 一瞬、目を見開きそして唇をきっと引き結んだ。
 大きく呼吸を静かにして、そのまま背を向け。
「夏樹……っ」
 答えず彼は黙って部屋を出て行く。
 その彼をカイルは追えなかった。
 言うつもりなんてなかった。
 そもそも夏樹の身の回りのことは好きでしていること。
 彼がなにもやらないからといって、そのことで非難する言われはなにひとつない。
 それなのに。
 言い訳ならばいくらでもあった。
 部下がなんでもかんでも自分のところに仕事を持ってくる、だとか。唯一の上司は信頼しきって自分に任せきりだ、とか。
 それで疲れているのは確かだった。
 けれど「仕事」を言い訳にするならば、夏樹はおそらくもっと疲れているはずなのだ、カイルはそう思う。
 信頼しきって任せてくれるのは、彼が自分の仕事にかかりきりだから。
 カイルには自負がある。
「自分のところで止めているからこそ、カイザーの仕事があの程度で済んでいる。仕事がきちんと回っている」
 と。
 だから所詮「忙しい」は言い訳であってそれ以上の何物でもない。
 忙しいのはお互い様なのだ。
 なのに。
「馬鹿……」
 自嘲とも自責ともつかない独語。
 シャワーの音だけがバスルームに響く。



 シャワーから出ても、夏樹はダイニングにいなかった。
 リビングのライトがほのかに灯っている。きっとそちらにいるのだろう。
 きっとお互い、これほどまでに疲れきっていなかったならば。
 夏樹は自分の頭を軽く叩いてそれで笑って済ませてくれる。
「しょうがねぇやつだな」
 とでも言いながら。
 そうではなかった、その事実が彼の疲れを如実に物語ってもいる。それなのにお前はなんてことを言ったのだ、内なる声がカイルを責め。
「Tut mir leid.」
 呟いた謝罪の言葉が母語であったとことにしばしカイルは愕然とする。
 それほどまでに自分は疲労していたのか、と。
 長い間日本語で話していた。そのことにいまはもう不自然や苦労は感じない。なまじの日本人よりはよほど美しい日本語を話す、という自信もある。夏樹が教えてくれた言葉だから。
「ごめん、夏樹」
 わざわざ独り言をいい直しまでしたのはおそらく――ここでドイツ語を使った、というその自責。
 カイルはかつて夏樹に言われた事をいまなお忠実に守っているのだ。
「日本にいる限りは日本語で話せ」
 その言葉を。
「疲れてる、とかついうっかりとか、言い訳にはならないよな……」
 苦笑いが洩れてそれで少しカイルは浮上する。
 ため息ついてバッグの中から包みをひとつ。
 美しい包装紙の薄い箱。
「夏樹……」
 もらってくれるだろうか。
 忙しい合間を縫って買っておいたチョコレート。
 二月十四日。聖バレンタインデー。
 深呼吸をひとつして、カイルはリビングへ足を向けた。



 薄明かりだけにして夜景を眺めるのが夏樹の、好み。
 ビーズの詰まった柔らかいクッションに半ば体を埋めるように預けて、黙ったまま何時間でも彼は外を眺めている。
 そうして昼間の出来事を彼は体から洗い落としていく。
 今夜もそうしているはずだった。
 きっと普段よりは少し、多めの酒とともに。
「か……」
 リビングに足を踏み入れたとたん、飛んできた硬いもの。
 思い切り肩にあたった。
「え……」
 なにかと思う間もなく
「洗濯もん、畳んどいたからな」
 若干の嫌味をこめて夏樹が言う。
「……ごめん」
 傍に歩み寄ってカイルが言えば
「なんにもやらない俺も悪い、とは少しは思ってはいる」
 複雑な表現で彼は謝ってみせ。
 そして口元だけで微笑った。
「八つ当たりだった……本当に……」
「それ以上謝ったら怒る」
 そう言って夏樹はまた窓に外に顔を向けた。
 きらきらしいみなとみらいの明かりが一面に広がっている。
 ごそり、なぜか居心地悪そうにする、彼。
 カイルの手の中には先ほど投げつけられた、箱が。
「夏樹、これ」
「うるさい」
「そうじゃなくて、これ」
 カイルはそっぽを向いた彼の手に、自分が持ってきたほうの箱を押し付けながら少し、笑う。
「なんだよッ、とっとと開けりゃ……」
 言いつつ手元を見た夏樹の言葉が止まる。
「俺からも」
 カイルはそう、箱を押し付けた。
 幽かな明かりの中でも夏樹の赤面したのがわかる。
 黙ったまま彼は包装紙を丁寧にはがし、楽しむようにゆっくりと箱を開けた。
 艶めいたチョコレートの粒。生チョコレートの好きではない彼のために選んだもの。
 夏樹の指先がそっと粒に触れ
「Danke.」
 笑って言った。
「夏樹……?」
 許してくれた、と思うよりも彼かドイツ語を使ったことのほうに驚いた。
 間違いなくしゃべれるのは知っている。けれどここは日本で、日本語で――。
「……俺と二人のときは、ドイツ語でしゃべっていいよ」
「え」
「……母語でしゃべるの、ストレス解消にも、なるだろ」
 母語で話して少しなりとも疲れが取れるのならば。彼はそう気遣っているのか。
 八つ当たりをした自分に。
 そんな我がままをまで許してくれる、というのか。
「開けないなら、俺が開ける」
 照れ隠しかカイルの手の中の箱を取り上げようとするのをかわしてカイルは自分の手でそれを開けた。
 カイル好みの苦味の強そうなチョコレート。
 彼はいったいどんな気持ちでこれを買ったのか。
 人一倍、羞恥心の強い彼がこれを手にとるにはどれほどの勇気がいたことだろう。
 それを思うだけで胸が熱くなる。
 嬉しくて、とっさにありがとう、も言えなかった。
「八つ当たりくらい、いつでもすりゃいい。俺は……」
 相変わらず外を向いたまま彼は言い、言いかけたまま黙った。
 呼吸をひとつ。ためらうように前髪をかきあげ。
「俺はお前が……」
 再びそこで黙る。
「夏樹」
 なにも言い難いことを言わなくてもいい、充分にわかったから。そんなつもりで肩に触れれば拗ねたような顔をしてカイルの肩口に頬を埋める。
「Ich kann nicht aufhören, dich zu lieben.」
 いとおしくてどうしようもない、嫌いになんてなれるはずがない。
 たったそれだけの日本語が、夏樹の唇からは出てこない。
「夏樹……」
 思わずきつく体を抱いた。
「だから……八つ当たりくらい、いくらでもしたらいい」
 ふい、と抱かれたまま彼は顔を背け。
 その頬を掌でそっと捉えて唇かさね。
「Ich werde dich bis deinen Sterbetag lieben.」
 耳元でささやいてはまた抱きしめる。
 最期の日まであなたの傍に。
 そんな誓い、祈り、囁き。
 夏樹はそんなカイルの背中をそっと、それから次第に強く、抱き返していた。



 日本語では照れて言えない愛の言葉。それを言いたいが為に「ドイツ語で話してもいい」そう言ったのではないか、カイルがそれに気付くのはずいぶん後になってからのことだった。




モドル