一本の電話がかかってきたのは五月の明るい午後だった。
「……わかった、行くよ」
 ため息混じりに受話器を置いた夏樹に真人が不審げな顔をして見せ。
「志津子がな、そろそろ退院するって冬樹から」
「え、そうなの。良かったねぇ」
 それにしてはため息が、と思ったのが顔に出たのだろうか。
 夏樹は
「それで冬樹が不安がっててな」
 そう、続けた。
 志津子、と夏樹は呼ぶ。本当は、志津という。弟の娘でつまり、
「お姉ちゃん、良くなったの」
 春真が口を出した。
 先年以来、患っていたのがここようやく回復に向かい、退院も間近、だと言う。
 春真は姉にかかりきりの両親が双子の男の子まで面倒見切れない、という理由で伯父のところに預けられていたのだった。
「まぁ色々とあるんだろう、ちょっと行ってくる」
 心配するな、と軽く春真の頭を撫でて夏樹は出かけようとし。
「そうだ、これな」
 と、真人に小さな包みを渡した。
「行ってきます」



「行っちゃったね」
 なにやら沈みがちな真人に春真は小さな手で緑茶を淹れて持ってくる。
「ハル……」
「今日、あれでしょ。ほら『記念日』」
「良く覚えてたね」
 少し濃すぎるそれを飲んでひとつ苦笑を。
「あ、濃かったかな」
「ううん、本当に良く覚えてたなって」
「行っちゃって、寂しいでしょ」
 どきり、とする。
 確かに寂しい。
 けれど春真はまだその「記念日」の意味すらも知らないはずなのだ。
 寂しさの質も意味もまだ知らないはず、なのに。
「お姉ちゃん、良かったなと思うけどさ、でも今日すぐに伯父貴が行かなきゃならないわけじゃないじゃん」
「そういうことを言うもんじゃないよ」
「だって『記念日』は今日だよ、一年に一度だもん」
 頬を膨らませては伯父の非道を怒る春真を見ていたら、なんだか可笑しくなってしまった。
 少々ばかりむっとしてないわけではないのだ、真人も。
 ただ、そこに大人の理性、という厄介なものが邪魔をしている。
「怒るのは大人気ない」
 だとか
「病気の娘が帰ってくる冬樹だって不安なのだから」
 だとか、そんな言葉が駆け巡り、怒るに怒れないでいた。
 それをあっさりと春真は怒る。
 なんだか羨ましい……と思わないでもない。
 それで可笑しくなったのかも知れない。
「ねぇ、出かけちゃおうよ」
「え」
「律義に伯父貴が帰ってくるの待ってることないじゃん」
 春真が笑ってそそのかす。
 こんな子供に慰められている、と思うより、「我が子」とも思う春真がこうやって心砕いてくれる事が真人にはなにより嬉しかった。
「そうだね、出かけちゃおう」
 ようやく笑った真人を嬉しそうに春真が見ていた。

 幸いに午後の陽射しははまだ充分に明るく、心地よい風まで吹いている。
「どこに行きたいの」
 答えを予期した真人が笑いを含んだ声で問えば
「デパート」
 そう案の定、春真の声は弾んでいた。
 電車に乗ってふらり、出かけるのはなんだか久しぶりで。
「気持ちいいなぁ」
 思わず言えば春真もまた笑う。
「あ、ほら、早く早く」
「こら、待ちなさい」
 駆け出していった春真を追った先は玩具売り場で。
「うわぁ、すごい」
 春真はもう夢中になって声をあげている。
 テレビアニメのロボット玩具や、外国の人形劇のおもちゃ、あれでもない、これでもないと手に取っては目をキラキラさせて眺めている。
「大人びたこと言ってもやっぱりこんな所は子供だな」
 微笑ましいと共に真人はなんだかそれが嬉しくて。
「欲しいものあったら買ってあげるよ」
 つい、甘やかしてしまう。
 それなのに春真は
「べつにないなー」
 なんてまた子供らしくない事を言う。
 常々「二親」が欲しいからと言ってすぐに買ってはあげないよ、と言っているのが妙な所で功を奏す。
 普段はそんな教育をしているくせに、自分でその言葉を破ってしまった真人は少し、落ち込む。
 いくら自分が沈んでいるからと言って子供を喜ばせて浮上しよう、などとちらりとでも思った自分が情けない。
「それよりさ、あれ食べたいな」
 また、まるで察したかのような春真の声。
「敵わないな」
 この「親子」には。そんな苦笑が洩れる。
「なにか言った」
「なんでもないよ、さぁ行こう」
 その言葉に肯いては滑り込んでくる手。
 自分の手の中にある小さな春真の手。
 不意に寂しくなる。
 志津が帰ってくる、ということは春真もそう遠くない未来に産みの親のところに帰っていくのだろう。
 今こうしているこの暖かい瞬間が、また明日もあるとは限らない――。
 夏樹と自分と春真。
 いくら両親の元にいる方が自然だ、と言っても。
 つないだ手をぎゅっと握り。
「真人さん」
 こめられた力に不審な顔をして春真が見上げ。
「……人が多いからね、迷子になるよ」

 デパートの特別食堂で銀の台に乗ったソフトクリームを食べ終えて、春真はいかにも満足そう。
 ちろりと口の端を舐めてみたりしているのは、まだ冷たい甘味が残ってでもいないか探ってでもいるのか。
「さっきのさ」
「ん」
「ほら、伯父貴がなんか渡してたでしょ、開けて見たの」
「まだだよ」
「あれって『記念日の贈り物』でしょ」
 二人が出会ったその日に、夏樹がなにか小さな物を贈ってくれるようになったのは、いつからだったか。
 こんなことしなくていい、と言っても自分が好きでしている事だ、と少し笑ってはぐらかす。
 口数の少ない彼なりの、想いの表現。
 だから真人もそれが嬉しくて。
 けれど今年は、なんとなく。
「物で済まされてるみたいでちょっと、ね」
 なんて言ってから、相手が春真であったことに、子供であった事に気づいては苦笑い。
「物で済まされるのってなんだか不愉快だもんねぇ」
 それに春真が一端の口をきくものだからつい、口を開けて笑ってしまう。
「そんなに笑うことないじゃん」
 拗ねる春真の頭を撫でて。
 この子がいまここにいる、その事に感謝した。
「あ、お団子屋さんだ」
「みたらし団子、買って帰ろうか」
「伯父貴のお土産なんていらないじゃん」
「そういうことを言うのは感心しないな」
「伯父貴、ひどいのに」
「優しいんだよ、あの人は。それに……」
 夏樹のことをひどく言う春真に思わずむきになって反論しかけ、今日何度目になるのかわからない苦笑を。
 それを見て春真もにやり、笑う。
 自分が反論するのをわかっていて言ったな、と思えば呆れもし、いとおしくもあり。
「ばか」
 形ばかりに額を小突いた。



 すっかり暗くなった家路を辿る。
 星を眺めておしゃべりし、両手にはお土産と春真の温かい、手。
 帰る家には明かりが灯り。
「ただいま」
 すっかり機嫌の良くなった自分を夏樹が伺っているのもまた、可笑しくて。
「どうだったの」
 訊いたときは本当は恐かったのかもしれない。
 春真を返す、と言われるかもしれない、その事が。
「退院してきてもそれで終わりってわけじゃないからな。だから冬樹は不安がってたわけだし。春真はまだうちの息子だな」
 笑ってひとつ、春真の頭を叩く。
 真人の不安をそれとなく察してくれる。優しい……しみじみ思う。
「大丈夫なの、冬樹君」
「まぁ大丈夫だろう。俺もいる、お前もいる。露貴だっている。あいつはひとりじゃない」
 家族なのだから、彼の口からその言葉は出てこない。
 けれどそういう気持ちでいることは充分過ぎるほどに伝わる。
 あれだけの過去がある人が、こういう気持ちを口にしただけでもどれだけ弟とその家族を大切にしているのか、わかる。
「そうだね、みんなで、ひとりじゃないものね」
 なぜだか、涙ぐみそうになった。
 たぶんそれはきっと、その家族の中に自分も入れてくれたから。
「あれ、まだ見てないんだろう」
 早く見てこいよ、落ちつかなげに彼が言う。
「うん……ありがとう」
 照れくさそうに夏樹は片手を振り。
 襖の向こう、自分の机に置いておいた小さな贈り物の包みをあける。
 明かりはわずかに開けたままの居間のものだけ。
「あ……」
 包みの中には根付が。
 落ち着いた朱色の紐のつけられたそれが象るのは半ば開いたままの巻物。
 表紙の色はぽってりとした堆朱の赤。紙は美しい象牙の白。
 よく見ないとわからないほどの小さな文字が、きちんと彫ってあるのに真人は驚く。
「夏樹……」
 言葉にならない、ため息が。
 一篇の漢詩が、そこに刻まれていた。

上邪
我欲与君相知
長命無絶衰
山無陵
江水為竭
冬雷震震
夏雨雪
天地合
即敢与君絶

 短いけれど、あまりにも熱い想い。
 かすかに震える声で読み上げる。
「上や
我君と相知り
長命絶え衰ふること無からんと欲す
山に陵(おか)無く
江水為に竭き
冬雷 震震として
夏に雪 雨(ふ)り
天地合すれば
すなわち敢えて君と絶たん」
 声の震えはそのまま止まらず涙となってあふれ出し。
 いっそ恐ろしいほどの誓い。
 天よ、聞くがいい。お前と出逢って、互いに深く想いあうことを。末永く、命絶えるその日まで途切れる事のない想いを。
 山が崩れ、川が涸れ、冬に雷が響き渡り夏に雪が降る。天地が合わさりこの世の終わり来たりなばそのときはじめて。
 お前への想いを断とう――。

 根付を握り締めたまま暗がりの中で立ち尽す真人の向こう、明るい居間では春真が夏樹の前に正座しては彼の非道をなじっていた。



漢詩:上邪


モドル