彼が庭を眺めている。
 いつもの定位置で、障子に寄りかかって。
 
 そんな夏樹を見ているのが好きだった

 開け放した窓から入ってくる五月の風が夏樹の髪を乱しては通り抜ける。
 彼はほんの少し顔をしかめては髪をかきあげ。
 庭を見るのが好きなわけじゃ、ない。
 きっと外の空気を感じるのが好きなのだ、彼は。
 柔らかな風に包まれながら彼はなにを思うのだろう。
 時折かすかに表情が動き、口元がなにか、呟く。
 小説の構想でも練っているのかもしれない。

 そんな夏樹を眺めているのが好きだった。

 こうして。
 黙って彼を見つめるたびに僕は思う。
「夏樹にあえて、よかった」
 と、そう。
 初めて会ったのもちょうどこんな時期だった。
 あの頃の僕は自暴自棄で投げやりで、どうしようもない屑だった。
 夏樹に会わないままだったならばきっと。
 僕はあのままだめになっていた。
 生きることの意味も。
 歌を詠んでいいことも。
 ……いとしく思うことも。
 全部教えてくれたのは夏樹だった。
 いや、思い出させてくれたのは夏樹だった。
「夏樹が……好きだよ」
 いったい今日、何度目になるのだろう。
 そんな風に唇の中、呟いてみる。
 誰かを
「好きだ」
 と言えることはなんて幸せなことなんだろう。
 そんな想いをかみ締めながら。

 僕は
「幸せになんてなっちゃいけない」
 そうずっと思い込んでいた、あの頃は。
 夏樹に会って、彼と想いあって。
 それでもなかなか消えなかった、その不安。
 夏樹はたった一言でそれを遠くに蹴飛ばしたのだった。
「幸せになるのは義務だ」
 と。



「俺もお前もたくさんの中の生き残りだ」
 夏樹が言う。
「数えたくもないくらいの人が死んで」
 知った人も、知らない人も。
 誰も彼もが
「命」
 ということを考える余裕すらなかったあの、戦争。
 流された血の量はいかばかりだったか。
 味方の血。
 敵の、血。
 だくだくと流れて行った人の、血。
 その一人一人にいったいどんな人生があったのだろうか。
 考えるたびに恐怖していた僕に夏樹は
「だからこそ幸せになるのは義務なんだ」
 そう、言ったのだった。
「死んだ人間はもうどうすることもできない」
 だから。
 生き残った人間は精一杯生きて、生きて、生き抜いて。
「幸せになるのが礼儀ってもんだ」
 それが自分にできる
「償いだ」
 教え子を失ったかつての教師はそう、笑った。
 だから
「そうだね」
 と。
 同僚を犬死させてきた昔の軍人も、笑う。



 この人に会えてよかった。
 心のそこから、そう。



 真人が
「自分を見ている」
 その視線をずっと夏樹は感じている。
 別に庭を眺めるのが好きなわけじゃなかった。
 外の風を感じるのが嫌いなわけではなかったけれど、一日中そうやって髪をなぶらせているのがこのみなわけでも、なかった。
 ただ。
 真人が自分を見ているから。
 だから彼は外を見ているよりないのだ。
「そんなに見るなよ……」
 時折唇がそんな形に、動く。
 いつまでたっても。
 どんなにともにすごす時間を重ねても。
 真人は変わらずに自分をそうやって見つめ続ける。
 昔みたいに
「どこかへ行ってしまうのじゃないか」
 と、不安がる事はなくなったけれどそれでも気づけば彼はじっと自分を見つめている。
 そんな真人に
「……照れる」
 と唇の中でだけ、呟く。
 あの。
 琥珀色の目に浮かぶ絶対の信頼。
 時折独り言のように聞こえてくる
「好きだよ」
 の、声。
 たぶん。
 真人は独り言を言っているのだと夏樹にも想像はついている。
 声に出している自覚すらあるまい。
 けれど聞こえるその声に。
 どぎまぎとする自分が、いる。
「いつまでたっても変わらないのはお互いさまだな……」
 そんな苦笑が夏樹の口元に浮かんだ。

 誰かをいとしく思ったことなどなかった。
 ただ体を重ねる事はあっても誰かを想うことなどなかった。
 それとても
「快楽」
 というよりむしろ
「生理的な欲求」
 でしかなかった、あの頃。

 真人に、会った。

 それが
「自分の生き方を変えた」
 夏樹はそう思っている。
「自暴自棄で投げやり」
 だったと真人は自分の事を笑うけれどたぶんそれ以上に夏樹は投げやりだったのだ。
「生きている」
 とさえ、もしかしたら思っていなかったかもしれない。
 そんな自分が彼に、会った。
 恐ろしいほどの
「純粋と不安の固まり」
 だった、真人。
 彼に、理解されたいと思った。
 初めて、他者の理解を必要とした。
 いとしいということがいったいどんな事なのか教えてくれたのは、真人だった。

 会えて、よかった。



 いい加減に外にも飽きたか夏樹が振り向く。
 差し込む光にちらり、蒼く目が揺らいだ。
「お茶でも淹れようか」
 まぶしげに彼を見ながら真人は立ち上がる。



 ふたりとも。
 何故だろう。
 黙って夏樹が外を見ているとき。
 それを真人がまた、黙ったまま見つめているとき。
 同じことを考えているなんて。
 気づく事はないのだ。

 ただ。

 振り返って見交わした瞬間が言いようもなく。
 幸せで。



「熱いよ」
 何年も、茶を出すたびに言い続けている言葉とともに真人がうめた茶を差し出し。
 差し出した茶は脇に置かれ。
 不意に。
「あ」



 畳に伸びるふたりの。
 ひとつになった影はそれから長いこと、離れなかった。




モドル