「散歩に行こうよ」
 翡翠が誘う。
 まるで昔、琥珀が篠原を誘ったように翡翠が、誘う。
「忙しい」
 とも
「暑いからいやだ」
とも言えず仕方なく、といった顔つきで春真は立ち上がった。
「車で、ね」
 いかにも嫌そうな春真の表情に翡翠が笑う。笑って少し、譲歩する。
「それじゃ散歩じゃないじゃないか」
 言いつつ春真の顔がほころんだ。



 ドアを開け放てばむっとした熱い空気が車の中から溢れ出す。
「あちっ」
 ステアリングは触れられないほど、熱い。
 忙しさにかまけてかまってやらなかったエンジンをたたき起こせば、すねたような音を立てて目覚める。
 夏の猛暑でも暖機をするのは春真の
「癖」
 みたいなものだった。
 大事な車をできる限り丁寧に乗ってやりたい、だから
「機嫌よくなるまで」
 待つ、と言うのだ。
 それでもじりじりと照りつける太陽と湿気に音を上げてふたりがシートに滑り込むのにそう時間はかからなかった。
「これだけ暑いとクーラー効かないよね」
 噴出すクーラーの冷気をパタパタと手で顔のほうに送りながら翡翠が笑う。
 こんな時に連れ出してしまった後悔がわずかによぎったのか笑い顔に苦いものが、混じる。
「気分転換にはいいさ」
 紅葉坂学園はそれなりに名門校ではある。だからこそがちがちの馬鹿みたいな校則などなかったし、ある程度生徒の自治に任せてもきた。
 それで上手くやっていて校長などは
「これが自律というものだ」
 そう豪語している。
 それがどういう訳か今年の春真の担任クラスは
「やんちゃすぎる」
 のだ。もっとも古株の教師に言わせれば
「個性的な学年」
 の一言ですんでしまう程度の事だったのだが。
 それで春真は夏休みだというのに生徒の不始末に呼び出されたり自宅に押しかけられたりと
「正直言って気の休まるヒマがない」
 そう嘆かざるを得ない状態なのだった。
 だから。
 こうやって翡翠が無理にでも誘い出してくれたのが、うれしい。
「ハル?」
 思わずにやけた口元に不審げな問い。
「さんきゅ」
 言って春真はくしゃり、柔らかい翡翠の髪に指を絡めた。
「さて、どこにいきたい?」
「日本大通」
 悪戯みたいに笑う翡翠。
 にやり春真も笑い返した。

 夏休み真っ最中の日本大通はいくら官庁街とは言ってもさすがに混んでいる。
 街中を走る春真のRX7は低回転域の気の抜けたような音を立てていた。
「すごい繁りかただよね」
 街路樹の公孫樹の事だった。
 わさわさと、そんな形容詞が似合うほどに濃緑の葉を繁らせている。
「でも、きれいだね」
「多少、陳腐だけどな」
 突き破ろうとするほどまっすぐに伸びた公孫樹の緑、夏のくっきりと青い空に伸びている。
「陳腐ってのは使い古されるから陳腐なんだよ」
 口を尖らせすねて見せる翡翠の目だけが笑っている。
「僕の……」
「お前の……」
 言葉が重なる。
「なんだよ」
「僕の『好き』と似たようなものじゃない?」
「いけしゃあしゃあとよく言うよ」
 前を向いたまま軽く翡翠の額を小突いた春真は照れていたのかもしれない。
 だから
「ハルが好き」
 わざと言っては、笑った。

「お目当てはここだろ?」
 春真が連れてきたのはジャックの塔。
「よくわかったね」
「わからいでか」
 翡翠が日本大通、と言ったときから春真には想像がついていた。
 篠原の旅行記に日本大通を琥珀と散歩した話がある。その時に彼らが訪れたもうひとつの場所がここ、ジャックの塔。開港記念館だった。
「中、はいるのか?」
「ううん」
 翡翠が首を振る。
 ジャックの中には日本で最初に作られたステンドグラス、なるものがある。
 それに琥珀がいかに心奪われていたか、篠原は旅行記の中で書いている。
 だから翡翠は見ない、と言うのだ。
「夢、見てたいからね」
 そう言って。
「あ」
 暑い太陽に手をかざして塔の意匠に見惚れていた翡翠がふと視線を落として声を上げた。
「子猫?」
「だな」
 ふたりの不審に気づいたか暑さにぐったりとしていた猫が首をもたげる。
 一匹に見えていた子猫は二匹いた。雉とらにぶち、兄弟らしい子猫はオレンジ色のきれいな目をしていた。
 するり、雉とらが立ち上がっては翡翠の足元に寄り頭を擦りつけ。
「うわ、かわいい」
 思わずしゃがみこんで頭を撫でれば、安心と見たのかぶちも寄ってくる。
「飼い主さん、待ってるの?」
そんな事を言いつつ、右から左から体を擦りつけて遊びたがる子猫に翡翠はひらひらと手でじゃらして。
「まるで子猫三匹だな……」
 ぼそり呟いた春真の声も耳に入らず翡翠は、夢中になって子猫に応戦していた。
 手持ち無沙汰になってかちり、ライターを鳴らす。煙草の煙が太陽に、暑苦しい。
「妬いた?」
 笑いを含んだ悪戯声がふわり、下から聞こえてくる。
 両手に子猫をじゃらしたまま翡翠が見上げている。
 うっとりと細められた目。猫みたいに。
「誰が」
 煙草もみ消し、しゃがんだ翡翠の襟首を子猫みたいにつかんでは立ち上がらせて。
「行くぞ」
「妬いたって言いなよ、もうっ」
 すねて先に歩き出した翡翠に耳に小さな声が、届く。
「妬いた」
 声に振り返った翡翠の姿が陽の光に陰影を濃くする。
 柔らかな色をした髪が陽に透けてきらり、光った。
 まるで足元にいた猫の目の、ように。
 夏の休日。
 ふたり顔を見合わせては、笑った。




モドル