束の間の静寂が響く。口喧嘩の合間に。
「だから明日にしなって言ってるじゃん」
「しつこいぞ」
 いい加減呆れたような真人の声にいらだった夏樹の声が、重なる。
「だって……」
「春真の前だ。いい加減にしろよ」
 ちらり、夏樹の視線の先にはまだ幼い春真が。
 彼の言葉に真人の視線が春真に流れ、なんとも言いがたい感情を含んだその目に春真が首をすくめる。
 真人は黙ったまま手近の紙になにやらさらり、書き付けて。
「いつだったっけね」
 こんな風に言ったのは。
 そうその紙を畳の上、滑らせては静かに部屋に閉じこもった。
「契りきな桜がすみの春の頃、現ならざる世までも共に……か」
 紙の上には歌ひとつ。
 苦笑いをしつつ夏樹は春真の頭に手を置いて
「行ってくる」
 と、出かけて行った。

「伯父貴、行っちゃったよ」
 襖越し春真は声をかけてみたけれどしばらくは声もない。
「しらない」
 拗ねたような声が返ってきたのはだいぶ経ってからだった。
 真人が怒っているのはこういうわけだった。
 夏樹が発熱を押して出かける、という。
 それも
「露貴のもと」
 へ。
 嫉妬しているわけではない。彼の約束や思いを疑ったわけでもない。それは言葉のあや、というものであって。
 ただ、怒っていただけだった。
 季節の変わり目、花寒に露貴が酷い熱を出しているという。
「顔が見たい」
 そう言う露貴に自身も熱のある夏樹が出かける、などと言うから怒るのだ。
「まったく……」
 先ほどまで彼が横になっていた布団に真人はもぐりこみ枕を叩いては、八つ当たり。
 ふと。
 嫉妬もあるのかもしれない、そう思う。
 昔、露貴は彼を想っていた。昔の事だ、そうやって露貴は笑う、けれども真人はそれが嘘だとわかっている。
 今でも彼にとって大切なのはただ一人夏樹だけ。
 理解しているからこそ、悔しい、そんな気がして。
「僕と……」
 僕と露貴さん、どっちをとるの。
 そんな馬鹿な問いだけは口にしはしなかったけれど胸のうちに浮かんでくるものは止めようがない。
 優しい人だから。
 病気に心細くなっている大事な叔父のささやかな願いくらいは叶えたい、だから出かけた。
 充分それはわかっていても。
「心配じゃん」
 そう、悔しいのでもまして嫉妬でもない。
 ただ彼の体が心配なだけで。
 もともと丈夫な質ではない彼だから。いまだとて季節の変わり目で体調を崩しがちな所にもって頼み込まれた原稿を急いで書き上げて発熱している。
「無茶する」
 思っても言わなかった。
 彼には彼の仕事の倫理があって自分には自分の倫理がある。こればかりはいくら二人の関係でも干渉するべき事ではない事。
 それが真人の考えだったから。
 だからせめて、日々の体調には気をつけていた。
 できることといえば食事や環境、その程度ではあってもなにもできないよりずっといい。
真人がそうして気遣っているからこそ発熱程度ですんでいると彼も笑って感謝していたのに。
「意味ないじゃん」
 ぺしり、またひとつ枕を叩いた。



 ふぅと大儀そうなため息をついて夏樹が帰ってきたのはもう日も暮れて、名ばかりの春どころか冬がかえったかのような風が吹く頃。
「ただいま」
 声をかけても困ったような春真の顔があるばかり。
「こもりっぱなしか」
「うん」
「まったく」
「でも……伯父さんが悪いと思う」
 ためらいがちに言う春真をなにか興味深いものでも見たような目で夏樹が見る。
 なにかしら好奇心めいたものがよぎってふわり、蒼めいた。
「あんなに心配してるのにさ、出かけるのはやっぱり悪いの伯父さんでしょ」
「そうかな」
 あえて反論。からかわれてるとはむろん春真は気づかない。
「そうかなって……悪いと思わないの」
 大人の顔でからかったはずが子供の純粋にしてやられ。
「……謝ってこよう」
 素直に退散させられては苦笑い。
 襖の向こうに消えた伯父の背中に
「まったく」
 そうこの日、誰もがもらした呟きを春真までもがもらした事は無論、二人とも知らないことだった。

「ただいま」
 布団にはたぶんきっと声を聞きつけてから慌ててもぐったのだろう。
 掛け布団の裾から素足がこぼれている。
 子供みたいな拗ね方が可愛らしくて無理やり布団を剥ぎ取れば、艶に恨んだそんな顔。
「あ……」
「どうした」
「夏樹……熱」
 寒風吹きすさぶ中を帰ってきたにしても頬が赤い。
 そっと額に手を当てては
「熱いじゃん」
 泣きそうな顔して言う。
「昼間より酷い」
「だからっ」
「俺のことはお前が心配してくれる。俺にはお前がいる。……露貴はひとりだった」
「……ん」
「すまなかった」
「心配、して言ってるんだからね」
 悪かった、再びの謝罪とともにそっと腕に抱いたら目がまわり。
「夏樹っ」
 慌てる真人に大丈夫、と言いかけたつもりもうまく声にはならずそのまま布団に横たえられる。
 ほんのりと真人の体温が移ったその温もりが心地よい。
「無理に……帰ってこないで向こうにいればよかったのに」
「誰の手も……」
 煩わせない。お前だけに看病されたい。
 後の言葉は乾いた喉から出てこないけれど真人はかすかに照れたような笑みを浮かべて掛け布団の上をひとつ、叩いた。
「わかってる」
 穏やかな声に。
 安心して目を閉じる。
 ささやかな喧嘩、当たり前の日常。その当たり前を当たり前のままなによりも貴重な物だと理解し、分かち合ってくれる人のいる、幸福。
 額の上にのせられた冷たい手の快い感触に任せたまま眠りにも体をゆだね。
「おやすみ」
 遠くで響いた真人の声を追うようにそっと彼の膝に頬を、寄せた。

モドル