音。色。光。匂い。
 山下町の方から聞こえて来るのは、独立記念の花火の音だろうか。
 毎年夏になると聞こえてくる花火の音。
 真人はいまだに慣れないでいる。
 わだかまりがある所為に違いない。
「見に行くか?」
 行かないのを知っていて夏樹はいつもそう尋ねる。
「ううん」
 そう訊いた彼にしても行く気がないのはありありと見えた。
 障子に寄りかかるいつもの定位置で夏樹は団扇を使っている。
 白地に藍の着慣れた浴衣。糊掛けするのを好まない彼らしい柔らかいそれから湯上りの少し上気した肌がのぞいてる。
「花火、好きじゃないんだ」
「ん?」
「……果敢なすぎて、さ」
 本当はそれだけじゃない。
でもたぶんそれが一番、近い。
「桜、か」
 ぽつり、夏樹は言う。
 その言葉に驚いた。
「桜も好きじゃないだろう、お前」
「……」
 真人は答えを返せなかった。
 なにもこんな良い夏の夜にそんな話をわざわざする事もない。
 本当は逃げたかっただけだ、たぶん。自嘲気味に思った。
「どうして、そう思うの?」
「なぜというほどの事でもないさ。花火、桜。夏の夜におまけにあの花火は独立記念の花火だ。
嫌悪感を持つのがお前らしい、それだけだ」
「いつまでも、女々しいね」
 不意にあの夏の悲しみが体中を駆け抜けていく。
 死んで行った友。
原爆。
すべてが終わった夏の暑い日。
 今なお抱えるその傷の深さに真人はどうしても靖国神社に参ることができない。
 自分は生き残ってしまった、その傷に。
 日本は負けたのだから、そうは思ってはいても独立記念を祝う気にはなれない。
ましてあの原爆を落とした国のでは。
「時間は流れていくよ」
 夏樹は言う。
「でも、生きている限り僕はたぶん忘れられない」
「それならそれでいい。……俺も忘れられやしない」
「今でも僕はアメリカが憎いよ。日本が戦争を仕掛けられるほど力を持っていなかった事も、たくさんの戦略上の間違いをしている事も、知ってなお、僕はアメリカが嫌いだ」
 夏樹は心の中で目を見張る。
 真人がこれほどまでに強い物言いをする事はまずないことだから。
 それほどにあの多感な時期にこの感情豊かな恋人が受けた傷は深いのだ、改めて夏樹は自覚する。
「……原爆がね、許せないんだよ。僕は」
「ああ」
「戦争なんてものは戦闘員だけが絶海の孤島にでも集まってやりゃいいんだよ。
非戦闘員を巻き込んで原爆症なんてありませんていう顔しているあの国が、僕は本当に嫌いなんだ」
「よく……よく、わかるよ。真人」
 ずきり、真人の言葉はまた、夏樹の傷をもえぐる。
「ごめん」
 夏樹は教師だった。あの頃。
 だからたぶん、生徒たちの中には犠牲になった子もいたはずだ。
 真人の考えを察したか、夏樹は遠くを見ながらまるで独り言のように
「広島にな、疎開して……親戚がそっちに、な。原爆で……。三日経って亡くなったそうだ」
 と。
 痛い。
 心に負った傷の深さが物理的な痛みを持って胸をえぐっていく。
「僕はそこに居たかったんだ。助けられるなら、助けたかった」
「……もう止めよう、真人」
 振り向いた彼の久しぶりに見る痛ましい表情に真人は息を飲み、自分以上にもしかしたら夏樹は夏が嫌いなのかもしれないと思う。
 だから、もう止めよう。
 自分の痛みに彼を巻き込まないために。
 いとしい人を思い煩わせるのは本意ではないから。
「……うん」
「俺はなぁ、思うんだよ。精一杯生きて、それから死なないと。生きたくても生きられなかった……彼らに失礼だってな」
「そうだね、本当に……そうだね」
「わだかまりは持っていたっていい。でも前につなげような」
「うん」
「……なんか偉そうでヤだな、今の言い方」
 暗い淀みを吹き飛ばすように夏樹は、笑った。
「ねえ夏樹。手始めにさ、花火、見に行こう」
「今からか?」
「野毛山の展望台からさ、きっと見えるよ」
 そうだな、彼は肯きゆらり、立ち上がる。
 その背中に真人はそっと頬を寄せ、それからきつく抱いた。
 言葉だけでは伝わらない想いの代わりに。
「一緒に、生きていこうな」
 背中で小さく肯いた気が、した。




モドル