昭和二十五年。
 あれは雨の晩だった。
 五月の雨のくせ、妙に肌を刺す冷たさを持った、そんな雨の夜だった。
 煙るような薄明かりの中、帰るべき家も満足な金もない僕は、疾うの昔に滴るばかりに濡れた体を黒い板塀にどさり、ともたらせかける。
「見越しの松でもあれば完璧」
 そんな皮肉を言いながら。
 妙なほどに疲れきった体が重い。濡れた前髪が額に張りついて雨粒を滴らせた。
 その家はまるでそこだけが明治の昔に返ったかのような、少なくとも戦争の爪跡の窺えない上等な、そう、例えて言うなら囲われ者のすむような、家。
 冷たい雨が塀の中の梅の木に静かに降り注いでいる。
 僕はといえば投げやりで自暴自棄で、そのくせなぜか死にたくだけはなかった。
 あれほど願っていたのにも。
「未練な……」
 呟けば、それだけ惨めさは増し、この世のすべてに見放されたような気さえ、する。
 神はいなかった、そう知ったのはいつの日だったか。
 足音に気づき僕は、顔を上げかけそして、背けた。
 知らず内に身に付けた盗むような目をきっと僕はしていたことだろう。それを恥ずかしいと思うことさえ忘れていた。
 ちらりと見えたその先に、きっとこの家を訪ね来ただろう洋装の青年紳士がいぶかしげに僕を見ていた。僕よりも十ばかり、年上だろうか。
 見られることに耐えられなくて僕は、そっと身を硬くした。その身に降りかかってきた言葉。何を言われているのか、わからなかった。よもや話しかけられるなど、思ってもいなかったから。
「死にたいのか」
 確かに彼はそう言った。低く、そしてよく響く声。
 なぜかその言葉にだけは反論したくてきつく彼を見上げ、そしてその行動自体に自分で驚く。恥じることすらも忘れた僕が。
「死にたくないのなら、入るといい」
 不思議と声音にあざけりの色はなく、素直に従った自分に僕は二度、驚いた。
 家の中はしんと静まり、想像していたような人気はない。女がいるのでは、と言う気まずさもあったのに誰もいないとなれば何とはなしに、気が抜ける。
「独り暮らしだ」
 僕の気持ちを察したのか、苦笑混じりに彼が言う。
 それからは黙ったままで、なぜか連れて行かれた先は、風呂場。
 温まれ、ということか。
 気遣いに感謝しつつ、僕もまた黙ったままそれを受け、充分に温まったころには清潔な着替えさえ用意してくれていた。
 よく着慣らされた飛白の着物。久しぶりに袖を通す着物はそれだけで僕の心をふ、と温めていく。
 着物を着なくなってから、どれくらい経つのだろう。
 僕は思うでも思わぬでもなく思い出していた。子供のころはよく着ていた。そう、あの学校に入ってから。洋服で、制服でいるのが誇らしくていつも僕は……。
 そこで僕は強く首を振った。まるでそうすればそんな過去が消えてなくなるとでも言うように。
 考えを止めることにだけは成功し僕はほっと息をつく。
 少なくとも今思い出して楽しい過去じゃない。
 人気のするほうへと歩いていけば、それが普段着なのかやはり着物に改めた彼が静かに本に目を落としていた。
 そう、静かに、としか言いようのない姿で。
 そのりん、とした美しさは武者人形の様とも。紛れもない男の線の強さと同時に人形のはかなさを、彼は持っていた。隠れた獣のようだ、そうも僕は思う。何も気づかないふりをして、その実力をためた野の獣。
 はかなく、そして美しい、野生の虎の様な。
 この時間の邪魔をするのが怖くて僕は黙って頭を下げる。それほど繊細で、針の先でつついただけで壊れてしまいそうな時間だった。
 やはり黙ったまま彼が勧めてくれた茶はいつになく美味かった。
 それから僕は正直何を話したのかよく覚えていない。けれど彼は物書きだ、といい水野夏樹と名乗った。
「本名だ」
 記憶を探る僕に向けて彼は、そうわずかに笑った。その、溶けて消えてしまいそうなかすかな笑みとも言えない表情に、僕は不思議と胸を突かれていた。
 僕もまたためらいがちに名乗り、彼は僕を真人、と名で呼ぶ。加賀、とは呼ばずに。
 自分もまた姓で呼ばれるのを好まないから、と言って。
 そのことだけが僕の頭の中に妙に残っているのだ。
 あの雨の晩以来、ずっと居着いてしまっている僕の頭の中に。
 そうして僕の家政婦と書生の毎日は始まったのだった。

 僕は自分でも情けなくなるほど小柄で、悔しいことに華奢と言われて反論できる体でもなかったけれど、もともと鍛えた体はいくら自堕落な日々を送っていたとは言ってもまだ充分すぎるほど丈夫で。
 家事をし、原稿を整理し、使いに出る。
 単調な繰り返しもそれが彼の役に立っていると思えば心地よい。
 こんな自分が人の役に立てている。
 そんなことを考えて思わず僕は笑みを浮かべた。そうして僕は驚いたのだ。まだ笑えた自分に。ごく自然に笑うことのできた自分に。
 それがなんだか嬉しくて、いつもなら読書に当てる自分の時間を、何に使おうと思い巡らせ視線を巡らせれば開け放った襖の向こう、彼と目が合う。
 いつでも彼の用ができるようにと開けたままのその向こうは彼の居間を兼ねた書斎。要は仕事部屋で。
「ご機嫌だな」
 猫舌の彼のため、ぬるくうめたお茶を差し出せばそう言って彼は笑う。
 そう言う彼にしても珍しいほど陽気だった。
「ええ。なんだか」
 答えれば彼はわずかに肯いて、そのままゆるりと庭に目を移した。
 今を盛りの白い野ばらの花が初夏の光を受けて輝くようだ。
「あの雨の晩、お前は野良猫みたいだったよ。誰も信じない、何も信じない――そのくせ生きようとする意志だけははっきりと見て取れた」
 だいぶ落ち着いたな、そう視線は庭に向けたまま彼は言う。
「なぜでしょうね。居心地がいいんです、とても」
「そうか……」
 表情は見えず、声音は変わらなかった。
 けれどそのとき僕は彼が微笑んでいたのをはっきり知ったのだ。
 人付き合いを好まない彼がなぜこんな気まぐれを起こしたのかわからないまま、それでも僕は嬉しかったのだ。
 実際僕は尋常ではないほどの好意を彼から受けていた。
 食べるものの心配はこのご時世にまったくなく、使っていないからと言っては一部屋僕に明渡してくれ、着る物にいたってはすべて彼が僕くらいの時分に着ていた物だと言いつつも手入れのよい着物を行李にひとつ、そのまま自由にさせてくれた。
「よいものですね」
 そう言えばわずかに肩をすくめる。どこか遠くを見るような顔は、思い出したくない昔を懐かしむようでもあり、どこか照れているようでもあった。
「気に入りばかりだから、戦時中は知人に預けていてね」
 それからふと正気づいたよう僕を見ては、着物の疎開だ、と冗談めかした。
 時折交わすそんな会話がどんなに僕の心を慰めただろうか。
 静かにペンを持ち直した彼の邪魔にならないよう、そっと自分の部屋に下がって僕はふっと思いつく。
「久しぶりだな……」
 もうずいぶん昔のような気がする。
 僕は歌詠みになりたかった。
 あの戦争さえなければ今でもまだ詠んでいたかもしれない。不意にそんなことを思っては気分のよさに、今また詠んでみる気になったのだ。
 思いのほかするりと読めたそれはなぜか……。
 無自覚なだけにいっそう露骨でさえあるような。
「まいったな」
 かすかに呟いてみれば苦笑が浮かび、いつのまにか見惚れている自分に気づいては目をそらす。
 彼の居間の開け放した障子から吹いてくる風に頬をなぶらせ、僕は目を閉じる。
 そうして僕はこの恋を自覚した。
 夏の初めの緑の風の、それは午後のことだった。
 我ながら不思議にも思う。
 こんなにもあっさりと同性への恋心を認めたことは。
 解るのはただひとつ。
 こうしているのが幸せだということ。
 僕は幸福になんてなって、いいのだろうか。
 ふと気づけば早や日は落ちて、僕は慌てて立ち上がる。
 晩のお菜はあの人の好みだな、そんなことを考えながら。

 眠る前の一時をいつもは原稿用紙に向かうくせ、今夜はその気になれないのか、ごろり、居間でひじ枕。
 開け放した障子の風に妙にそんな姿がよく似合う。
「なぁ……お前、軍人だったろ」
 唐突に、忘れたはずの忘れたい過去を指摘され、僕はびくりと身をすくませる。
 自分でもはっきりそうとわかるほど顔色が変わっていた。
「正確には、そうですが。戦場に出たことはありません。その前に……終戦で……」
「許せよ。他意はない」
 じっと僕を見たその瞳に嘘はなく、なぜか僕と同じ貶められた色さえ僕は感じたのだった。
「父のたっての願いで、陸軍幼年学校に行かされたんです。戦争が終わったときは十六でした」
 今でも僕は思い出す。
 校庭に整列させられて、僕らはあの玉音放送を聞いたのだ。しん、と静まり返ってしわぶき一つしない。けれどみな、殺気立っていた。
 あの景色を僕は一生忘れることなどできやしない。忘れたくても忘れてはいけない、そうも思う。
「言葉、時々言いなおすだろ。それでふと、思った」
 すまない、再び彼は言い、それでもまだ気がすまないのか一度きつく唇を引き結び、じっと僕に視線を向ける。
「俺も戦争は行っていない」
 そして彼はゆっくりとそんなことを言った。
「え……」
「教師。国語の」
 ただそれだけを短く言い、彼はほろ苦く、笑う。
「子供にあんな無茶教えておいて、負けるや否やあれはみんな間違いでしたなんて……な。今でも時々夢、見るんだよ。あのときの生徒の不信の顔を俺はたぶん一生忘れられないだろうよ」
 心に受けたその傷が、まるで本当に痛みでもするように眉をひそめては体を起こす。
 僕が思っていたのと同じことをこの人は考えている。それは僕にとって奇跡にも等しい。
 僕は言葉をなくし、ただ彼を見ているよりほかになく。
「……どうした」
 口にして、言葉にすればそれは彼への甘えに他ならなくなってしまう。
 僕は。
「言っちまえ。楽になる」
 わざとぶっきらぼうに言われた言葉のその甘さ。
 にやりと笑って見せた彼に僕は不覚にも泣きそうだった。
「あの日を境に僕らはまるで何もかも僕らが悪いみたいに、見られたんです。……徴兵された人たちは前線から帰ってくる人も、訓練から帰る人もみんな……生きててよかった、そう迎えられたのにね。職業軍人と呼ばれた人たちはみんな、お前らのせいで家族が死んだ、一度はそう言われた事があるはずですよ。……やりきれない。僕たちにしたって、親兄弟を、友を亡くした。わけても友は犬死させてきたんだ。民間人より情報は入ってきます。わざわざ負けるとわかっている戦いに、死ぬとわかっている戦いに友を送り出すのが……どんな気持ちか、わかるものか……そう言う事すら、僕らには許されなかった」
 厳しい先輩が見せた最後の笑顔の、気のいい友と交わした握手のぬくもりの、それさえ消えないままに死んでいった彼らを、悼むことさえ許されなかった。
 僕は何よりそれが、つらかった。だから、忘れない。これは僕ら生き残った人間が、終生抱えていくべき傷だと。
「……教師は戦場に行かない。白い眼でも見られたし、肩身も狭かった」
 今まで溜めてきた思いを一息に吐き出した僕は彼の言葉をただ、聞いているだけ。
 そんな風に思ったことはなかったから。
「一人じゃ言えない事を大衆の名を借りて言う。日本人の悪い癖だが……みんな多かれ少なかれ、痛い目にあった。それが戦争だ、俺はそう思う」
 この傷が少しでも早く癒えるといい、俺もお前も、皆が。
 そう言って彼はかすかに笑ったのだった。
「はい……」
 あれほど抱えていた苦しみも、こうして彼に向かって吐き出してしまえばなんというほどのことでもなく、つられて僕も少し、笑った。
「お前は……」
 それこそはじめてみる会心の、笑み。
 そうして僕の髪をふわりと梳いて席を立つ。
 驚く僕に微笑を残し、彼は夜の庭に下りていった。




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