桜が咲いている。 満開まで後もう一日、そういった風情の桜。けれどきっと明日になれば見ごろを逃してしまった気がするに違いない。 足元は少し盛りを過ぎた水仙の群落。 白に鮮やかなオレンジの口紅、羞らうかの桜色、輝かんばかりの黄色。 それらが深く濃い緑の葉の中で咲き誇っている。 そして見上げるのは琥珀。 水野琥珀という歌人をご存知と思う。 まだ名を挙げる以前から私のところに寄宿していて、今もそのまま居付いてしまっている。 琥珀に言わせれば 「篠原さんは僕が居なかったら埃だらけの部屋で洗濯物に埋もれて飢え死にする」 んだそうで、私はそんなことはないんだがと苦笑しつつ、ありがたく家事を任せている。 その彼がここ二三日どうもそわそわしていると思っていたらなんということはない、桜が見たかったらしい。 「ハルの学校の桜はもう満開だって」 そう少し困ったように言ってきたのは昨日のことだった。 そう言えば甥が来て満開の桜の話を琥珀としていたなと思い出す。 そう言う訳で今琥珀は桜を見上げている。 ここ向ヶ丘遊園は自宅からさほど遠くない、桜の名所だ。 桜の名所と言うだけなら我が家のすぐ目の前が野毛山公園なのだが、いつも手間をかけているから少し遠くに連れ出してみたのだ。 何千本とある桜の木が丘の頂上に咲き乱れ、振り返れば園内のいたるところに白い花が見渡せる。 ほんの何日か、一週間とない絶景。 空を仰ぐならこれも透きとおるばかりの青空。 青、白、黄色、桜色、緑。 まったく自然には敵わない。 「一年中見れたら、こんなに焦がれないのにね」 琥珀が呟いた。そして 「一年中見ていても焦がれる人ならいるけど」 と笑う。 彼の詠む歌はなぜかすべてが恋歌だ。 月を見てはその人を恋い、風に吹かれては慕う。 それが誰なのか話題になったこともあったけれどそんなことはどうでもいいことなのかもしれない。 琥珀の歌は美しく、切ない。 たぶんそれでいいのだと思う。 そして今もきっと桜に寄せては心のうちで歌を詠んでいるのだろう。 吐く息吸う息のひとつづつが歌になる男だった。 不意に一陣に風が吹きすぎ、気の早い花びらが風に舞っては散っていく。 「なんだか切ないね」 舞い落ちる花を名残惜しげに琥珀は見やり、乱暴な風が落とした花房をそっと拾った。 「水仙に桜吹雪と言うのも綺麗だよ」 言えば肯きながらも不満らしい。 先の戦争で散っていった戦友を思わせて哀しいのかもしれない。 「また見れるさ。来年になったら」 「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず……」 「『白頭を悲しむ翁』にはまだ早いだろうが」 そう笑えば琥珀もまた少し笑う。 「確かにまだ早い」 と。 光を強めた西陽が桜に蔭を作り、水仙の花を照らす。 風が冷たくなってきた。 帰ろうか、と促す私の横で琥珀が微かにまた来年、そう囁いた気がした。 昭和四十三年四月二日 篠原忍 記す |