随分な「ついで」もあったものだが、奥入瀬に行ったついでに函館まで足を伸ばした。
 しん、とした鮮烈な空気、秋の空気もあと一週間もすればきんと冷えた冬の大気に変わるのだ。
 そんな束の間の危うさが好きだった。

 函館は初めてではない。いや何度も訪れている。
 美味い魚に路面電車。丘があり、海がある。
 そんな景色がどこか、懐かしい所為かもしれない。
 加えて。
 幕軍の墓がある。
 この連載の始めの頃、ちょうど春の頃だったか、そんな話を書いたことがあるからご記憶の向きもあるだろう。
 やはり今度も参ったのだった。

 白い花を携えてきしりきしりと階段を上がっていく。
 急な坂だ。
 両脇には枯れた紫陽花が青の色を残したまま乾いた音を立てている。
 風だ。
 鬱蒼と茂る木立をくぐるように抜け。
 ここに碧血碑があると知らなければけして人が通える道があるとは思いもしないだろう。
 そんな道だ。
 不意に。
 広い所に出る。
 そして今度はきちんと設えられた階段を数段上るとそこに碧血碑はある。
 変わらない。
 当たり前か。
 誰が手向けたものかまだ新しい千羽鶴が一連、捧げられていた。
 冬枯れのしない木が多いのか、辺りは青い。
 その中で千羽鶴の彩りが妙に際立っていた。
「また、来ました」
 知らず心の中で呟いてしまう。
 花をくるんだ白い味気ない紙をはがし取り、手に持てばこの方がずっといい。
 滅び行くものにそうと知りつつ殉じた人たちへの手向けには、こんなそっけなさが似合う気がする。
 ばさり。
 だから花も丁寧にというよりはやはりそっけなく、置いた。
 目を閉じ、手を合わせる。
 いつか、いつか書きたいと思っている。
「書かせてもらえますか。土方さん」
 心の中の問いかけに答える声はない。
 けれど本当にいつか機が満ちたならば、なにをおいても書きたい。
 新撰組、としてよりも北へ北へと追われていった幕軍の戦士たちを書きたい。
 彼らはなにを考え、なにをし、なにを残し、そして死んでいったのか。
「私に書けるだろうか」
「書けるよ、きっと」
 声に驚き目を開ける。
 琥珀が相変わらずの笑顔でそこにいる。
 一瞬、ほんの一瞬。
 彼らの声かと思った。
 そんな自分に苦笑いが漏れるのだけれど、案外それでもいいのかも知れない。
 たぶん、そんなものだ。
 風がざわりと梢を鳴らした。
「降りようか」
 そう、振り返ったとき。
 それがなにかわからなかった。
 光り輝く大きな鏡。
 青く、きらきらと。
「あぁ……海だよ、篠原さん」
 春に来た時は生い茂った葉の影に見えなかった。
 冬は曇った空に隠されていた。
 その青い、海。
「すごい」
 うっとりと琥珀は呟き、駆けるように階段を下っていく。
 階段を下りきれば、海が広がった。
「さっきは前ばかり見ていたから、気づかなかったんだねぇ」
 ほぅ、ため息。
 まったく。まったく見事な景色だった。
 高い場所から見下ろす海としては随一に数えたいほどに。
 眼下には家々の壁が白く輝いている。
北の海とは思えない澄んだ明るい色でありながら深い色をした海。
 それが秋の陽光に照らされて幾千ものギヤマンを砕き敷き詰めたように輝く。
 小さな湾の対岸に煙る、墨色の山陰。
 目を転じこちらの山を見渡せば、見事な黄葉。
 まるで風の色も光の色さえ見えそうな、そんな「今」だ。
「あぁ……」
 言葉が出ない。
 悔しい事にあの場あの時、私は言葉にできなかった。
 まだまだ早い、彼らに未熟を嗤われた、そんな気がする。
 自嘲、かも知れない。
「悔しいねぇ。篠原さん、僕はこれを詠めないよ」
 からから。
 琥珀が笑った。
 からから。
 風が吹き抜けていく。
 なにとはわからないけれど、なんとも妙に気持ちが明るくなる。
「同感だ」
 自然にそんな言葉が口をつく。
 ふと足元を見れば山葡萄が青白く、枯れていた。

昭和四十三年十一月七日    篠原忍記す



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