夏は苦手だ。
 取材も兼ねた旅行は趣味でもあるのだけれど、さすがにこう暑くては外に出る気にもなれない。
 そんな中、琥珀がしのぶ風鈴を買ってきた。
 いかにも夏らしくていい。
 ねっとりと絡みつくような暑さが少し、和らいだ気がした。
「篠原さん、もうひとつお土産」

 今日、彼は浅草まで出かけていた。
 なにやら新しい雑誌が出来るそうでその編集の人と打ち合わせがあったようだ。
「篠原さんの用も済ませてきてあげるよ」
 いいかげん長い付き合いで夏にはめっきり弱いのを知っている琥珀はそう言い、
「ついでだよ」
 と笑った。
 私はといえば好意にありがたく甘えておいて、縁側に蚊取り線香焚きながら一日寝そべっていたというわけだ。
 じりじりと焼きつける陽射しに蒸し焼きにされそうな気がしつつ、縁側の日陰へ、日陰へと移動する。
 普段は呆れ顔の琥珀が横着なと笑う事だ。
 がこちらはそうは言っていられないほど暑いのは駄目なのだから仕方ない。
 使いを頼んでおきながら言えた身分ではないが、今日は小言を聞かずに気を抜けるというものだった。
 けれど傍らには私と同じように夏の苦手なのがいる。
「猫」
 とだけ呼んだ。
 彼女はちらりと私を見上げ、それからもうすこし涼しい所へと移っていく。
 もちろん私も彼女の後について移動した。
 猫という生き物はどうも、夏は涼しいところ冬は暖かいところというものを知っているらしい。
 彼女は特に頭が良いらしく、そんな訳はないのだろうと思いつつもなにやらこちらの言う事がわかっていそうな気がするのだ。

 以前、もう半年も前のことになる。
 まだうちに遊びにくるようになったばかりの猫はなぜか私にばかりなつき、琥珀にはその美しい毛並みをただの一度も触らせなかった。
 実際美しい猫なのだ。
 真っ白の毛皮には一点のしみもなく、洋猫の血を引くものか毛は長い。
 けれど顔立ちは紛れもない日本猫である。
 射竦めるような金の眼は機嫌のいいとき、蜂蜜のとろりとした色になる。
 どこにか飼い主はいるらしいのだけれど、遊びにくるままにしている。
 だから猫、とだけ呼ぶ。
 そんな美しい彼女が私にだけなついたというのはなかなかまんざらでもなく、原稿を書きながら左手で喉をくすぐってやったりしていたものだ。
 そんな日のことだ。
 琥珀が自分の仕事の合間に
「休憩、したら?」
 そう言っては茶を入れてくれるのがいつもの事だった。
 その日は偶々琥珀が入ってくる方に彼女はゆったりと寝そべっていた。
 彼女はまるで人間の女のように琥珀が入ってくるのを見咎め、虫の居所でも悪かったのかふいに。
「痛っ」
 熱い茶を持ったままの彼に猫は飛びかかったのだ。
「琥珀」
 まだ彼の腕にぶる下がっている猫を叩き落とせば左手が赤くなっている。
 茶がかかって火傷をしたのだ。
 とにかく昔からこういう突然の事には弱い子で濡れた袖を払う事も出来ずに呆然としている。
 熱く濡れたままの着物をいつまでも放っておけば火傷が酷くなるとか、水に当てようとかはとっさに思いつかないのだ。
 代わりに私がだからやる事になる。
 とりあえず襟元を寛げて左手を引き抜き片肌脱がして火傷を確かめた。
 そう酷くはなかった。けれど後がひりひりと痛そうな火傷だ。
 まだきょとんとしたままの琥珀を台所に引っ張っては流れ水に手をつけさせた。
「そこにいろ」
 雑巾片手に居間に引き返せば今度は、猫がきょとんとしていた。
 可愛がってやったのになんて事をしてくれたのか、所詮畜生の浅ましさ。
 自分でも意外なほどに私は猫を強く打っていた。
 猫は声も上げずただ額を摺り寄せ金の目で見上げてくる。
 もう一度打とうとした時ふいに後ろから手を引かれた。
「篠原さん、大丈夫だよ」
 濡れた着物もすっかり改めて琥珀が笑っている。
 左手が、赤い。
 痛々しいそれを見ていれば
「猫より畳でしょうに、もう」
 と、ぶつぶつ言いながら畳を拭き始めた。
 猫が寄る。
 襟首つかんで引きずり戻そうとした私を琥珀はとどめた。
 猫は私を振り向きさも心外だと言う目で見上げては琥珀の手をうかがうようにちろりとなめ、縁側から降りて行ってしまった。
 それから猫はしばらくこなかった。
 本人もそろそろほとぼりが冷めたと思ったのかある日庭に現れた彼女は一羽の雀を前にかしこまっていた。
 詫び、と言うことか。
「琥珀」
 自分の部屋からひょいと顔を出した彼もこれには笑い
「猫」
 そうためしに呼んだ。
 にゃあん。
 猫が答える。と一目に琥珀の元へと走りより、しきりに額を押し付けた。
「いいよ、もう大丈夫だから。怒ってない」
 笑いながら琥珀はぽんぽんと彼女の頭を叩いた。
 ようやく安心したかのように猫が私を見たのはそれからだった。

 そんな事を思い出してふっと笑った。
 猫は今日もここにいる。
「お土産、いらないの?」
 思い出し笑いをする私に琥珀は怪訝そうに言う。
 すまないとまた笑ってしまった私に訝しげな目を向けつつも背中に隠していた土産を見せる。
「鬼灯か」
 驚く私に満足そうに琥珀は笑った。
「今日は鬼灯市にもいってね……」



モドル