突然、奥入瀬に行きたくなった。
 ちょうど今ごろは紅葉が美しいだろう、そう思ったら矢も盾もたまらなくなった。
 あわただしく日常の仕事を済ませ、青森へと旅立つ。
 琥珀も共に。

 ひょう……。風が吹き抜けていく。
 木々がざわめく。
 かちり、木の実が石に当たって弾けた。
 奥入瀬の秋はかくも騒々しい。
 散りゆく色とりどりの葉。流れ水の音。冬を運ぶ風。
「篠原さん、胡桃だ」
 琥珀がなにを見つけたのか、はしゃぎ声を上げた。
 見ればその手にはまだかすかに果肉を残した胡桃の実。
「あぁ……」
 見上げれば奥入瀬の入り口には随分と胡桃が自生していた。
「これ、乾かしたら食べられるのかな?」
 めずらしいものを見つけたのがうれしくってたまらない風な琥珀が笑い声を上げる。
 川の中、岩が苔むしている。
 その鮮やかな緑。苔を彩る紅葉の葉。
 楓やななかまどの赤、ぶなの黄色。
 紅葉の木々に、秋の空に声が吸い上げられていく。
 水音。
 都会にいると忘れてしまった安らぎの音がここにある。
 流れ、岩にあたり、飛び散り、川に帰り、そしてまた流れゆく。
 流れの中にはまたも彩りも鮮やかな紅葉の葉。
 さやさや、さらさら。
 目を閉じれば木々たちの囁きさえもが聞き取れそうだ。
「そう言えば『十和田湖』ってなんで十和田湖っていうか、知ってるか」
 火山の溶岩が陥没してはできたのだ、という典型的カルデラ湖である十和田湖。
 観光客がいくらさざめいていようともしぃんとした水の色は変わらない。
 まるで他者の干渉を阻むかのように。
 その湖から流れ出た水がこの水。
 かくもあらん、と言うべきか。
「え……十和田湖は十和田湖でしょう」
 案の定きょとんとした琥珀に私は満足の笑みを浮かべる。
 こういう素直な感想を持ってくれるから彼と旅に出るのは楽しいのだ。
「一説に、アイヌの言葉でトーは湖を、ワラタは岩を表すから十和田湖、と名づけられたそうだ」
 四方を崖に囲まれた岩の湖にふさわしい名ではないか、そう思う。
「ふぅん、アイヌの言葉かぁ……。なんだか不思議な気がするよね?」
「確かに。でも大和民族が北海道に本格的に入植したのはそんなに前のことではないからな。昔は当然このあたりとは交流があったのだろうね」
「うん、そう言えば羊!」
 北海道と言えば羊、というくらいかの地の家畜は有名になっている。
 実際は羊よりもはるかに乳牛の数のほうが多いだろうに。
「羊も日本に入ってきたの事体が明治になってからだって、聞いた事あるよ」
 僕が子供の頃に羊なんて見たことなかったからなぁ、琥珀は笑う。
「でもそんなことを言ったらこんな風に年中旅行して歩くなんてことはもっと考えられなかったけどね」
 口元に浮かんだのはわずかな苦笑だろうか。
 あちらこちらと旅するうちに『とにかくあの二人は捕まらない』と友人知人、果ては編集者にまで悪態をつかれる始末だ。
 今回の旅も急な事だったから、さぞかし編集者諸君が頭を抱えているだろうと思ったら、少しばかりの申し訳なさが浮かび上がる。
「あ……」
 歓声と驚き、わずかばかりの寂しさ。
 そんな琥珀の声の先をたどればいかにも美しい楓の赤い葉が流れていく。
 そして留まる。
「風のしがらみだよ、篠原さん」
 風が紅葉を散り落としていく。
 けれどそれは決して強い風ではない。むしろ木の葉の方が水面を慕って落ちていくように。
 いとしい水面に出会った紅葉はまるで離れがたいとばかりにそこに留まり、それがまたべつの木の葉を、呼ぶ。
 そうして色鮮やかにしがらみが出来上がる。
 風がつくった、しがらみ。
 水の流れをとどめる、しがらみ。
 かくも美しいしがらみにならとどめ置かれる水もまた本望であろう、と。
「山川に風のかけたるしがらみは
  流れもあへぬ紅葉なりけり……か」
 らしくもなく、和歌が私の口をついてでる。
 こんなにもふさわしい場面に出くわした、その驚きだったのかもしれない。
「ん……古今集だね。滋賀の山を越える時に詠んだってあったと思うけど……でもきっと今ここで見ている紅葉の方がずっと綺麗だ」
 ふぅわり、笑う。
 まるでその言葉を待っていたかのように、紅葉のしがらみは壊れてしまった。
 錦の紅葉がまとまって流れていく。
 私たちが目で追うにも早や、それらは別れ惑い離れ離れになっていく。
 まるで加賀友禅の柄の様に。
「あ……っ」
 琥珀の不意に声に驚けば、彼の髪に宿るは。
 くれないの紅葉。
 一陣の風が吹き散らしたその木の葉を、琥珀は大事そうに掌の中、包み込んでいた。

昭和四十三年十一月一日    篠原忍記す



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