石山寺に着いたのはちょうど昼を少し過ぎたくらいの事だった。朝に弱い私としては少々眠い。
 道順に示されたとおりに進むと。
「硅灰石、か」
 パンフレットの類には石灰石がどうの熱変化がどうのと書いてあるが、そんなことを語るよりもまず、視界いっぱいに広がるこの奇景よ。
 現代の我々の目から見れば黒っぽい石の珍しい景色。
 確かに、そうではある。
 けれどなんとも言いがたいこの感覚、そう、何か貴いものが降り立って夜毎に踊るのではないかというような、錯覚。
 古から霊石と崇められたのもまたむべなるかな。
 道は蓮如堂の前を抜け本堂へ。
 巨大な岩の上に立つ本道はむしろ、岩の上におわします本尊を覆い守るような形に、見えた。
「篠原さん」
 弾む声で琥珀が促す。
 今回石山寺に立ち寄ったのは仏さまを拝観する目的でなかったとはいえ、足早に通り過ぎるのはいくら何でもと苦笑がもれる。
 もれはするのだけれど、あれほど楽しみにしている琥珀にも逆らえず
「落ち着きのないやつだ」
 そう笑いながら足を進めた。
 源氏の間、である。
「紫式部がここで源氏物語を練ったんだねぇ」
 小部屋を見渡し琥珀が呟く。
「そう伝えられてるだけだよ」
「うん、それでもいいんだ。ほら、あの花頭窓から昇る月を見て彼女は須磨の巻を書いたんだって、伝えられてるよ」
 ほぅっと小さなため息。
 あの窓から昇る月はさぞ美しいだろう。明かりといってもたいして明かりのなかった平安の、夜。
 ぼうっとかすんだ夜空にただ一点、煌々と輝く、月。
 紫式部はそれに配流の月を見たのだろうか。
「源氏物語ね、色々言われるでしょう。篠原さん」
 ちりり、澄んだ音がする。
 人のことは言えないが相変わらずの着物党である琥珀の帯に挟まった根付が鳴ったのだった。
 琥珀、という石がある。それに虎を浮き彫りした物で、またその虎と言うのがなかなか品のある虎だった。
 琥珀はそれに小さな銀の鈴を一緒につけているのだ。
 猫じゃあるまいし鈴つけて歩く事もなかろうと思っているのだが、どうやら想い人からの贈り物らしい。よく身に付けている。
「色々言われるけどさ、あれだけ多種多様の和歌を彼女は一人で読みわけたんだよ。僕はそれだけでもすごいなぁと思うんだよ」
「やっぱり難しいものかな」
「難しいよ」
 琥珀は即答し、それで言葉を止めた。
 それ以上の返答はない様に思え私もまたじっと部屋を見る。
 紫式部がまだそこに息づいている、そんな気がした。
 外に出るとすぐそこに石がある。
 石山寺に石があっても何も珍しい事ではないけれど、この石はちょっと珍しい。
 目隠ししたまま歩いていって触れる事が出来れば願いが叶う、というのだ。
 めくら石、という。
「あっ……篠原さん、やる?」
 どうもいくつになっても子供のようなやつだと笑ってしまう。二十歳そこそこで私のところに来た時とそう変わらない。いいのか、悪いのか。
「いい、やれば」
 私の答えを待つまでもなく、しっかりと目をつむって歩き出す。
 ぎゅっと閉じた目で真剣に前に足を踏み出す姿など、とてもいい年した男とは思えない。
 本人は不本意だろうが二十代で充分通ってしまう容貌にも一因がありそうだ。
 そんな事をつらつら考えていたら
「篠原さんっ」
 呼ばれた。
 誇らしげな顔をして石に手をついたままで。
 琥珀が笑う。
「なにをお願いした?」
「……ずっと一緒にいられるように、ね」
 少し俯き加減で言った琥珀はそうしてそのまま笑みを浮かべる。
 姿の見えない想い人。
 琥珀がそれこそずっと想い続けているその人とはなんと幸せな事か。

 ここまで来て三井寺に寄らない手はない。
 正しくは園城寺、という。三井、というのは天智、天武、持統の三帝の産湯に使われたという井戸かららしい。一説に御井、とも言う。
 仁王像が睨みをきかす大門をくぐり金堂の手前、鐘がある。
 宇治の平等院、高雄神護寺と並ぶ日本三名鐘のひとつだそうだ。
 いかんせんどちらも聴いた事がないので、よく判らない。
 が、これには笑ってしまった。
「篠原さん、一撞き三百円だってさ」
 そう言う琥珀も笑いがこらえきれないらしい。
 口元が震えている。
「観光客目当てか、あぁ勝手に鳴らすなということかも知れんな」
「でも、お寺にこれはないよねぇ」
「まったくだ」
 そう顔を見合わせまた、笑った。

昭和四十三年二月二十八日 篠原忍 記す



モドル