「篠原さん、梅が咲いてる」
 ぼうっと庭を眺めていた琥珀が不意に、そう言った。
「あぁ……」
 眺めた先に。
 白い梅の花がひっそりと咲き初めている。
 我知らずため息が、出ていた。
「今年も咲いたね」
 琥珀が笑った。

 琥珀がそう言ったのも無理はない。
 もうこの梅は随分な古木なのだ。
 私が若い頃、ここに越してきた時からこの梅はあった。
 庭の中央にあるにもかかわらずただ静かに咲く、花。
 少しだけ開けた窓からほのかなその匂いだけが漂って、何度心を慰められた事か。
 その花も随分数が少なくなってきた。
「もう年だからねぇ」
 琥珀は笑いながらそう言うけれど、なんだか私としてはもう少し頑張って欲しい気がしなくもない。
 まぁ人に言うほどのものではないがそれなりに色々あった人生の中、この梅の香を楽しむたびに
「あぁこれでまた一年生き延びた」
そう思ったものでもあるのだから……。

もともと私は明るい性格とは程遠いとわかっているが、戦争世代、と言うのは皆、多かれ少なかれそんなものではないだろうか。
どこから見てもいい年して天真爛漫、ぼうっとしたいわゆる「いいヒト」である琥珀にしても似たようなものだと思う。
なんと言うべきか。
そう、どこか影があるのだ。
人には言いたくない、言ってはいけないことをしてきた、そんな影が。
我々はあの戦争、というもので大変な事をやったのだ。
今では諸外国から「侵略」と騒がれているけれどたぶん実際に前線に出た人間はもちろん、後方にいたものだとてそんな事は微塵も考えてはいなかったのではないだろうか。
まだ発展を遅らせている国に我々が新しいものを持ち込んで運営し、発展させてやろう、それこそがアジアの盟主としての使命だ。
私たちはそう、教えられてきていた。
だからこそ。
我々はその侵略戦争という汚名を自ら認めてはならない、そう思う。
悪い事は確かに悪かった。
けれど。
外国の言うとおりに唯々諾々と「はい左様です」そう言っている必要はどこにもない。
大切なのは二度とそういう過ちを繰り返さない。
そこにこそ、あるのだ。

私自身、戦争には行っていない。
当時私は教師をしていた。子供たちに自分でさえ疑問を感じる事を教えている、その苦悩。
いまの教師はそれを感じられるだけの良心を持っているのだろうか。
疑問に思わなくもない。
あの頃子供たちに持たせていた、あのとんでもない教科書。
美しくない……古典としてふさわしくないという意味で、だ……改悪を施された教科書!
私は今でもあの教科書を夢に見る。
人それぞれであったろうけれど戦争が終り、墨を塗った時には正直すっとしたものだった。
あぁこれでまともになるのだ、そう思って。

そんな日々に慰めになったのはただ、庭の木々が咲かせる花だった。
人の営みなどなんのかかわりもない、そんな風に咲く、花。
別けても梅はその香りの強さが閉ざした居間にまで入り込んでは私を慰めてくれた。
だから。
できる事ならばこの梅の枯れる所は見たくない、そう思う。
いや。
この庭にあるすべての枯れる所なぞ見たくは、ない。
そう言えば琥珀はきっと
「手入れなんか自分でしないくせに」
 そうやって笑うのだろうけれど。

「梅もいいけど水仙もいいね」
 物思いに耽っていた私に琥珀が突然言った。
「爪木崎に行こう」
 そうしてそういう事になってしまったのだった。

 思えばあれは琥珀なりの気遣いだったのかもしれない、そんな事を思ったりもする。
 だがどうしてもなんだかいいように連れ出されたなァとため息も漏れたりするのだ。
 不意に。
 風の向きだろうか。
 甘く、濃厚な香りが。
 駆け抜ける海風に、乗っては漂った。
「あぁ……」
 言葉の多い琥珀もただ、その風を楽しみ、駆け抜けてきた風をたどっては水仙の群れへ、と。
「篠原さぁん」
 まるでため息のような、言葉。
 呼び声に傍らに立てば。
 一面の、水仙。
 時期が遅い所為だろうか、花の数はさほど多くはない。
 むしろ終り、と言ってもいい。
 けれどこの数にしてこの香り。
 なんとすごいものなのだろう。
 ただ言葉もなく、立ちすくみ風を受け体中に香りを浴びる。

 爪木崎の水仙は自生していたものだ、という。
 海に面した斜面一面にざわざわといっそ怖いほどの、緑。
 水仙の、葉だ。
 それが強い海風にすくわれては、鳴る。
 ざざざざざっ。
 まるで波音のように。
 そして葉がなびくたび、名残の花の香りが、立つ。
 人というものはなんて小さなものなのだろう。
 この水仙がこれほどの群落になる間、きっと人間はいつも戦いをしてきていたのだ。
 あぁ、人間はなんて救いのない、生き物なのだろうか。
 けれど、自然は。
 こんなどうしようもない「人間」という種を生き延びさせてくれている。
 ため息。
 悲しみでもなく、悦びでもない。まして人としての絶望でもない。
 それはあの頃梅の香りに慰められた、ただなんと言うのだろう、安堵のようなものかもしれない。
「……」
 琥珀がなにか呟いた。
「え」
「やはらかき梅の香に惹かれて水仙の
  香りたどればはしきやし君」
 琥珀が笑う。
 なぜか妙に
「これでいいのだ」
 そんな気がしてはついつられて、笑った。

昭和四十四年二月一日     篠原忍記す



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