なぜか子供の頃の夢をみた。
 めったにない、と言うよりもほとんどないと言ったほうがいいくらい私にとっては、めずらしい。

 夢の中には父がいた。
 私は十歳ほどだろうか。それにしてはずいぶん若い父だった気がする。
 私は父に連れられて銀座の通りを歩いていた。
 今よりもずっと雑多で、それでいて洗練されて。あれは時代の活気というものだろうか。
 父はすぅっと資生堂パーラーに入っていく。
 私もなにか
「変だなぁ」
 と思いつつ後に従う。
 あぁそうか、そこで気づく。
 父がこういった所にひとりでふらりとくる事などなかったはずだ。
 いや……一度だけあった。
 この夢のように私を連れて
「内緒ですよ」
 と悪戯をするように笑った。
 
 テーブルにつくと父は
「カリーライスをふたつ」
 物慣れた調子でにこやかに、言う。
 ここでも子供の私は
「妙な」
 と思っている。
 けれど夢を見ている私にはもうわかっている。
 父は家庭から逃れてひとり、こういったところを歩くのが好きだった。
 随分と後になって知ったことだ。
 恭しく運ばれてきたカレーに子供の私は心を躍らせている。
 当時としてはめずらしかっただろう。
 ご飯が別によそわれて綺麗に盛り付けられている。薬味は生姜に酢漬けに福神漬け、それとラッキョウ。
 この薬味が評判だった。
 無論、私は知らない。後になって大人が話しているのを聞いたのだ。
 カレーはとても美味かった。
 今ちょっと調べてみたら当時風呂屋が五銭だった。そしてこのカリーライスは五十銭だった。
 なのに大評判のこのカレーは飛ぶように売れた、という。
 父は夢中でスプーンを口に運ぶ私を嬉しそうに、みていた。

「カレーが食べたいな」
 そんな夢を見たものだから朝起き抜けに口にしたのはそんな言葉だった。
 我ながらなんと単純というか朝からなんなんだというか。
 自分の声が聞こえたとたん、笑ってしまった。
「カレーっ?」
 頓狂な琥珀の声が落ちてくる。
 朝に弱い私と違って琥珀の朝は、早い。
 すっかり目の醒めている彼は呆れた顔で私をみていた。
「夢をね」
 父の事を説明するのが面倒でただそれだけをこたえれば
「夢に見るほど食べたかったなんて」
 そう、笑った。
「じゃあ今夜はカレーにしようか」
 問い掛ける口調のまま彼は独り言をいって楽しげに外に出て行く。
 さっそく買い物に行ったのか。
 家事向きのまめな男である。
 私はまだ眠りの抜けない頭を抱えて茶を淹れようと立ち上がり。
 ふわり。
 居間から甘い香りが。
「あぁ……」
 猫舌の私に琥珀は茶を淹れていった。
 苦い。
 朝一番に飲みたい茶はこういう苦くて濃い茶だ。
 さすがに居候歴も長い。
 私の好みをちゃんとわきまえた琥珀に
「感謝……」
 思わず呟く。
 淡い春の風が吹いている。
 梅が散り桜草はそろそろだろうか。
 去年植え替えをしていたから水仙はだめかもしれない。
「時季が遅くなっちゃって」
 忙しく働いていた琥珀は哀しそうにそう言った。
 庭にあるのは日本水仙だ。
 私も琥珀も西洋水仙の華やかさを、決して嫌うものではなかったけれどやはり
「水仙」
 といったらあの清楚な姿に強く……猛々しいほど強く香るあの香り。
 それでいてひっそりと咲く花の清らかさが好きだった。
 ざわり、葉が揺らめく。
吹き抜けていく、風。
緑の波が揺れている。
「……咲くかな」
 自分で思っていたよりもずっと、私はあの花を待ち焦がれている。
 男を花に例えるのもどうかと思うが父は水仙のような人だった。
 その所為かもしれない。



「篠原さん、ご飯」
 昼食の後ついウトウトと眠ってしまって琥珀に起こされた。
 春とはいえまだ朝夕は寒い。
 障子に寄りかかった体はつめたく、冷えていた。
「まったく。春眠にも程があるよ」
 琥珀が笑う。
 なるほど、その通りではある。
 感心していたら
「猫よりよく寝る」
 そうまた笑う。
 貶されているのか呆れられているのか、どちらにしてもいいことではあるまい。
 昼間ちらりと
「居候……」
 と思ったのが伝わってしまったか。
 どうにも考えすぎだった。
「はい、お待ちどうさま」
 食卓に出てきたのは。
 カレー。
 それも……。
 夢の事など知らないはずなのにあの昔、父と食べたようにソースとご飯が別れた、カレー。
 懐かしさに思わず。
 ふわり。口元に笑みが浮かんだ。
「これも大事でしょう?」
 笑いながら琥珀が出したのは薬味のラッキョウ。
 ころころと琥珀が、笑う。

昭和四十四年二月二十七日   篠原忍記す



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