0085年ももう終わりに近づき、年の瀬が近い。
 地上では、宗教というものが薄れた今でも、クリスマスというイベントは存在していた。
 家族と過ごす日、恋人と過ごす日、それは人それぞれだったが、大切な人と、年の瀬を惜しむ、そんなイベントの一つくらい、人間にはなくてはならないものだった。
 彼女は、今年は家族と過ごすのだと、それから、職場のパーティーもあるのだと、忙しそうに月へ帰ってしまっていた。
 一番の友人は、その最愛の人と共に過ごすのだとかで、コウを置いてめかし込んで出かけてしまった。
 クリスマス休暇だと言っても、どうも遠く離れた欧州地区に住む家族の元へ帰ろうという気にもならず、コウは一人侘びしく、寂れた街の寂れたバーでグラスを傾けていた。

 たまにはこんな風に静かに一人で飲むのも、大人になった気がして悪くはない。
 マスターに、ウイスキーの水割りを頼みながら、片隅でちらちらと流れているテレビへと目を向ける。
 何処かのツリーが写っていた。
 幸せそうな、目映い光。
 居たたまれない。星に似た光が、余計にコウを苛立たせた。
「……マスター、チャンネル、変えていい?」
 普段は軍人だの労働者だのが集うこのバーに、今日の客は今のところコウ一人だった。
 マスターは軽く肩を竦め、親指で軽くリモコンの場所を示す。
 しかし、どのチャンネルを見ても、苛立ちは増すばかりだった。
 馬鹿馬鹿しい。
 幸せそうな光景だとか、美しいものだとか。
 この時期に限らなくても、そんなもの、何時だって人には必要だろうに。
 苛立ちが極まって、テレビを消してしまう。
 そこで漸く、微かな音で店内にクリスマスソングが流れていることに気が付いた。陽気なものではなく、しっとしとしたジャズバラード調で。
 今のコウには、似合いの気分だった。
「ここ、スポットあったっけ?」
「ありますよ」
 掌大のモバイルツールを出し、立ち上げる。
 付属のデジカメで簡単に酒の満ちたグラスを撮り、小さなキーを叩いていく。
『彼女は帰省。親友はデート。寂しい僕は一人酒。凄いだろ。大人になったみたいだ。漸く。結構雪が積もってる。何もかも……宙まで埋め尽くされてしまえばいいのに! MerryChristmas!』
 写真と一緒に送りつける。送り先は、自分がこんな時にしか使わないアドレス。
 そこから、十数カ所の転送を経由して本来の宛先へ届く筈だった。
 見ているのかどうかも分からない。毎日の様に送り続けても、返信など半年前に一度あったきりだ。
 それでも、この糸を切るわけにはいかない。何時か、時が来たときに手繰り寄せる為に。
「彼女へカードでも?」
「そんなものかな。大切な人へね。どうしても会えないから」
 ツールの画面を落とし、大切そうに片付ける。
 と、

 ちりん

 慎ましやかなベル音が、静かな店内に澄んだ音を響かせた。
 ドアに背を向けて……カウンターに座っていたコウの背に、寒風が吹き込む。思わず首を竦めた。
「おや…………いらっしゃいませ」
「バーボンをストレートで…………ああ、いや、まず……ホットワインだな」
 外は寒いのだろう。入ってきた男は、コウと少し離れた椅子に座った。
 ちらりと見ると、肩にまだ溶けない雪が積もっていた。
「お客さん、コートを」
「ああ、頼む」
 コートを預けた男は、目にも鮮やかな真紅のスーツを着ていた。
 こういっては何だが、馬鹿馬鹿しい程派手だ。サンタクロースでも気取るつもりだろうか。しかし、こんな場末のバーに一人で、こんな夜にやってくるくらいだから、女に振られでもしたのだろう。
 派手なだけに、笑える。しかし、独りで、ここで過ごしているのは自分も同じ事だった。

「いい店だ」
「ありがとうございます」
 オレンジとシナモンの香りが、温められた赤ワインの中にふわりと立つ。
 赤銅色の金属のカップに注いで出されたそれを、男はどうやら息を吹いて冷ましている様だった。
 それなら、サングリアでも頼めばいいのにと思ったが、そんなものは人それぞれである。
 大体、バーボンを頼もうとした男が口にするものでもない様に思えた。

「お客さん、見ない顔ですね」
「ああ……この辺りは初めてかな。だが、一度来てみたかった」
「何もない所ですよ」
「そうか? あんな、大きなものが在るじゃないか」
「大きな……? ああ! 確かに大きな事故でしたがねぇ……こんな雪の中、」
「そうだな。だが、こんな時期でもないと休暇などないのだよ。残念なことに」
「お客さん程の人なら、女の人も放っておかないでしょう」
「生憎、今は特定の相手がいない。こんな日を、適当な相手で済ませては、私が良くても誤解するだろう?」
「………………お代わりは如何です」
「次はバーボンを貰おう」

 マスターも暇だったのだろう。コウは黙々とグラスを傾けているだけだ。普段より饒舌な様だった。
 こんな日にコロニーの残骸を見に来たという男に不愉快な気持ちになって、コウは男にはっきりと顔を向ける。
 スーツだと思ったのは気の所為で、見慣れない形の、制服の様なものを着ていた。
 制服…………。
 連邦ではない。ティターンズでもない。
 だが、男からは何処か「軍人」の匂いがした。型の決まった様な格好をしている、その服が、軍服に見えた。
 横顔は、この世のものとは思えない程に美しい。
 男は、コウの視線に気付いたのだろう。コウに顔を向け、柔らかな微笑を浮かべた。
 訳も分からぬまま、コウは頬を染める。
 聖夜に天使、その幻想は今宵には相応しいものなのかも知れない。
「君も、一人か?」
「…………ええ」
「お互い寂しいものだな」
「……そう……ですね」
 どう返していいものか分からない。男の口調や雰囲気は、コウの知る誰とも違っていた。
 歳は、少し上だろう。柔らかそうな白金髪に、整い過ぎた顔立ち。薄暗い為に、目の色までは分からない。
 眉間の辺りに傷があったが、それさえ含めてもまだ美しい顔だった。
 僅かカップを傾けるだけの仕草でも、圧倒的な存在感と高貴さを持っている気がした。それは、欧州地区で未だ根強く残る「社交界」というものへ参加する資格を持っている家に生まれたコウだからこそ、分かるものなのかも知れなかったが。

「あんなものを見に来たんですか?」
「あんなもの……? ああ、聞いていたのか。そうだ。見ておきたかったのでね。あまり、地球へ来る機会はなかったものだから」
「コロニーの方ですか?」
「ああ。……幼い頃には、地球で暮らした事もある。少しの間だったがね」
 なるほど、コロニーと地球と、そのどちらも知っている人間には、大地に突き刺さったコロニーだなどというものは大層感慨深いものなのだろう。
 その落ちた理由の、本当のことを知らなかったとしても。
「公社の事故だなどと、良く言ったものだ」
「え?」
 呟きは本当に小さく、またカップの中で声が籠もって、マスターには聞こえていない様だった。
 コウにも、正しく聞き取れた自信はなかった。
 聞き間違いなら……自分なら、そんな聞き間違いもあり得る。
 コロニーが落ちた本当の理由を、自分は知っているから。
 目を丸く見開いていたコウに、男はもう一度、匂い立つ様な微笑みを浮かべた。

 知っているのだ、この男は。
 連邦でもない。ティターンズでもない。
 では、この男は、何処に属するのか。
 コウの全身に緊張が走る。
「貴方は……何処の人ですか?」
「コロニーからの旅行者さ。あのコロニーを眺めに来た。クリスマスの休暇を利用してね。年が明けるまで、この辺りにいるだろう。何分、あれは感慨深いものだから」
 空になったカップをマスターへと押す。入れ代わりに、琥珀色の液体の入ったグラスが差し出された。
 白い指先に、琥珀の対比が美しい。
「制服で、旅行ですか?」
「……そう見えるか? まあ、そうだな。……この方が、便利なこともある。不便なことも、同じ程にあるが」
「軍服みたいですね」
「君だって着ている。それは、軍用のフライトジャケットだろう?」
 男は、間に空けていた席を詰め、コウの隣に移ってきた。
 間近で見ると、尚のこと、その美しさは異質だった。
 コウは息を呑む。
 自分の彼女も、まあ、それは群を抜いた美女だと思っていたが、これは、余りに異質だ。
 女性的とも言える程に、精緻な目鼻立ちをしている。だが、その柔和な面立ちとは裏腹な印象を受けた。
 身体はしっかりと精悍な男のもので、腕周りなどを見ればコウより多少体格がいいくらいにも見える。不釣り合いだとは思わないが、不審な程だ。
 ミルク色の肌と柔らかく巻いた白金髪が優しげに見せている要因だと分かったが、目の奥に潜む光はやけに鋭い。
 並の人間ではない。それだけは、よく分かった。
 軍服の様だと言った、それを否定しなかったことも不審だった。それが、赤いということも。何処の世界にこんな色合いの軍服があるというのだ。
 …………あるにはあったか。その昔、コロニー国家の軍服には。
 もう、何年か前に滅びた、その国には。
「…………どちらのコロニーの出身ですか?」
「私達は、まだそれ程親しくはないと思うのだけどね」
 微笑みは、壁なのだと気付く。
 しかし、この男はどうにも、何もかもが胡散臭く思えて気持ちが悪い。
 これ程に美しく、それがまた、人工的なものでさえなさそうなのにも関わらず、何処か厭だった。

「……貴方は、シオンの丘を知ってますか?」
 カマを掛けた事にさえならない。しかし、それでもコウなりに、聞き方を考えたつもりだった。
 男の微笑みが深くなった、そう、見えた。
「旧世紀の、とある宗教にとって大切な場所、だったか? こんな日に話すことは有意義だろうか。……まあ、今は、そんな時代でもないが。それが……どうかしたのか?」
「いいえ…………聞いてみたい気がしたたけです。すみません」
 氷が溶けてもう随分薄まってしまった水割りを飲み干す。
「何にします」
「……いや、もう…………帰ろうかな。雪がそう酷くなければいいけど」
 男の側にいるのが落ち着かず、逃げる様に席を立って窓に寄った。
 暖房は効いているのに、窓ガラスを通して冷気が忍び込んでいる。
 窓枠に、深く雪が積もっていた。外の闇は、闇の筈なのに白い。ホワイトクリスマスという言葉はあるが、それは別に、吹雪いていなくてもいい様な気がする。
「……凄いな……」

「……ああ、全くだ。私も帰れそうにない」
「っ、ひ……」
 不意に男の声が、息が耳に掛かり、コウは飛び跳ねんばかりに驚いた。
 背に男の温もりを感じる。
「な、っんで、こんなっ! 近付き過ぎです!」
 振り向こうとすると手が回され、頤を捉えられて顔の向きを固定される。
 更に、男の声が耳の奥へと注ぎ込まれた。
「……私はね、君に会いに来たのだ。コウ・ウラキ少尉」
「っっ!」
 マスターに男の声は全く聞こえていないだろう。コウの耳元、コウだけに聞こえる程小さく、だがはっきりと。
 コウは混乱し、その挙げ句に硬直してしまう。
 男は離れ、コウの肩に親しげに手を置いた。
「後でこの町の宿泊施設へ案内してくれ。モーテルで構わない」
 カウンターへ戻っていく。

 会いに来た。
 コロニーの落ちた地へ、こんな日に。
 落ちたその日でなかった事が救いだとでも言うのか。

 痛い程の耳鳴りがする様だ。

 男の背を見る。
 背丈も、肩幅も、自分とそう変わりはしない。
 だが、その背は、その肩は、自分よりずっと、重いものに堪えている様に見えた。

「お客さん、困りますよ、ウラキ少尉はウブなんですから」
 軍人のたまり場だ。マスターはコウの顔も名前も、その同僚達からどう扱われているのかも、知っていた。
 笑いながら男を茶化す。
「ああ……彼があんまり可愛かったのでね」
 自分の容姿と行為が周りからどう見られるのか熟知した上での行動なのだろう。男は軽く肩を竦め、微笑んでみせる。
「彼に手を出すと、無事にこの町から出られないかも知れませんよ」
「ほぅ。興味深い話だ」
「人気者ですからね、少尉は」
「確かに、なかなか愛らしい容姿をしている。だが、それだけではないのだろう?」
 容姿だけでそう言われる筈もないだろう。アイドルには、カリスマが要る。コウに、その手のものは感じられない。
「……マスター、何余計なことを」
 漸く戻ってきたコウは、頬を膨らませてマスターを睨むが、マスターに悪びれた様子はない。
「基地で一番のパイロットなんですよ。ねぇ、少尉」
「マスター、ウイスキーのお湯割り。……あのねぇ、そんなことないよ。人気者……って、ねぇ。僕、そこまでバカにされてるのか?」
「それは、私に奢らせて貰おう。いいじゃないか。人に好かれるのは、悪い事ではない」
「ありがとうございます。……悪くなくても、何か厭です。揶揄われてばっかりで」
「それは、君が可愛いからだろう。顔立ちとかだけではなくてね。揶揄い甲斐があるのが悪い。君、歳は?」
「……二十二です」
「ほぅ……では…………」
 グラスを弄ぶ指が止まる。
 男はコウの方を見ず、深く微笑んだ。視線が遠い。

「……では?」
「いや、知り合いと同じ歳だと思ってね」
「へぇ……」
 湯割りの入ったグラスが出される。
 コウは掌で温もりを楽しみながら、僅かに口を付けた。
 男の様子はただの知り合いに対するものではない様に見える。
「二十二歳の男の子というものは、これ程素直な生き物だったかな」
「もう子供じゃないです。貴方にだって、そんな時もあったでしょうに」
「忘れてしまったな。私が素直な子供だった頃の事など」
 自分のグラスを干し、カウンターの奥の棚へと目を遣る。
「飲むばかりでは身体に悪いな。店で一番良い赤ワインを開けてくれ。それと、何かつまみを二人分。ああ……三人分だ。君にも。こんな夜には、私達の他に客などないだろう」
 マスターを示す。
 マスターは嬉しそうに顔をほころばせた。
 セラーから高級そうなワインを出し、デキャンタへ移して目覚めを待った。
「では、ご相伴に与りますか」
「ああ。酒もな。ウラキ少尉の飲み代も、君の分も、勿論自分の分も、全て私が持とう」
「いいんですか? あの、僕も、そこまでお金がないわけじゃないですけど」
「奢ると言っているのだから、奢られる方が気にするものではないよ。尤も、店内にあと数人客がいれば言い出さなかったろうがね。それに……マスターはそれ程不躾ではなさそうだし、君もね。水割りや湯割りばかり頼む所を見ると、飲む量はたかが知れている」
 そうだろう? と軽く首を傾けて微笑む。全ての仕草が、やけに様になっていた。
「貴方は、どういう人なんです?」
「答えてあげるよ。後でね。私は、君に会いに来たのだから」
 口説き文句にも聞こえる調子で微笑みを付けて言われ、コウは素直に赤面する。これ程までに甘やかなものには、さすがに馴染みがない。
 そんなコウの様子に、男はくすくすと囁く様な笑い声を上げた。

「君の同僚が君を揶揄う気持ちは、よく分かるな」
「っ! もう!! いい加減にして下さい!」
 耳まで赤いのが分かる。アルコールが入っている為に、いつもより更に感情の起伏が激しくなっていた。
 ぶん、と腕を振り逃れようとするが、男の方が一枚上手だった。
 簡単に躱されて、コウはバランスを崩した。背もたれがなく、随分足の高い小さな丸椅子だったのが、余計に災いしている。
「っわぁっ!」
「……だから、可愛いというのだろう?」
 男の腕が難なくコウを捕らえ、抱き止めていた。
「あ、っ……ありがとうございます」
「いや……気をつけろ。さすがに、床は固い」
 男はもうこれ以上笑いを抑えきれないのだろう。口元に軽く手を当てて、一頻り笑う。
 気分は良くないが、笑われても仕方がない。コウは憮然とするより少し萎れて、座り直しながら上目遣いに男を見た。
 マスターも笑っている。
 居たたまれなくなって、コウはグラスを煽る。
 つまみとして並べられた野菜スティックやチーズの盛り合わせにも手を伸ばした。
「ウラキ少尉は、もう少し食事らしい方が良いのではないか?」
「え、いいんですか?」
「何でも頼むといい。マスター、お勧めは何か?」
「今日は、いい日ですからね。出しましょう。今から焼くので少し時間が掛かりますがね。仕込みだけはしてありますから」
 身を屈め、何やら大きな固まりを取り出す。
 男は、楽しげに目を細めた。
「ほほぅ……ローストターキーか?」
「時間、掛かるんですか?」
 コウは少し悲しそうな顔で指を銜え、カウンターの中のマスターの手元を覗き込む。

「……腹が減っている様だな」
「クリスマスプディングもありますよ」
「ホント!? 嬉しいな、プディングかぁ……懐かしいな」
 表情が明け透けで分かりやすい。もう子供という歳でもなかろうが、大人二人は顔を見合わせて笑う。
「東洋系に見えるが、君は欧州の出か。旧イングランド地区かな?」
「家は旧オランダ地区なんですけど……両親は共に日本人です。だけど、祖母は昔から旧イングランド地区に住んでいて、クリスマス休暇はいつもそこだったんです。あの頃は……クリスマスプディングなんて、あんまり好きじゃなかったけど……」
「中々複雑そうだな……」
「そうかなぁ……? 父方は、曾祖父の代から政府で働いていて地球も宇宙もいろいろ転勤をして……主に地球上だったらしいですけど。祖父は、祖母がイングランドかぶれだったのでイングランド地区に家を買ったらしいです。父も同じ様な仕事で、だけど、少し長く居着く事になったので、家はオランダ地区にしたって聞きました」
「お父様は、政府のお仕事を?」
「はい。本当は、跡を継いで欲しかったみたいですけど……僕は興味も持てなくて。本当にやりたい事なら、って、納得してくれましたから」
 オーブンに七面鳥を放り込んでから、マスターはクリスマスプディングを切り分けてくれる。
「うわぁ」
 たっぷりとブランデーを掛け、火が灯る。表面が軽く燃え、香ばしい匂いが立った。
 コウは直ぐさまナイフとフォークを手に取った。
 バターとブランデーで出来たソースを掛け、皿が出される。
「美味しい! あれー……こんなに美味しかったかな……。うちで食べてたクリームより、このソース、美味しいですね」
「それは、君、マスターの腕前だろうよ」
「ええ。そうですね! マスター凄い! マスターも欧州の出身だったんですね」
「母が、ですがね」
「お母様、お料理上手だったんだ。いいなぁ。……僕の母は、あんまり料理とか上手じゃなくて。お菓子は美味しかったんですけどね」
 にこにこと楽しそうなコウのグラスにワインを注いでやりながら、男はじっとその様子を見詰めていた。
 美味しそうにプディングを頬張る姿からは、小さな基地とはいえ、一番のパイロットなどには見えない。むしろ、軍人にさえ見えない。

「君は、士官学校を出ているのか?」
 この年で少尉なのだから、まあ、そう言う事だろう。戦時下ではないから、特進などもそうある事ではない。
「え? あ、はい。ナイメーヘンで学びました」
「ナイメーヘン。……優秀なのだな。愛らしい顔をして」
「あのぅ……さっきから、貴方に可愛いって言われるの、何だか落ち着かないんですけど」
「私は隠し事が苦手でね。思った事を口にしてしまう。気に障ったのなら済まない」
 微笑みかけられて、コウは再び顔を赤くする。
 綺麗なものは、好きだ。
「しかし、君の様な子がよくナイメーヘンへ入れたな」
「入学した後で知ったんですよね。ナイメーヘンが、連邦の中でも、難しい学校なんだって。あの頃は、一年戦争の余韻が薄れ始めていて……だから、戦いたいとか何かを守らなくちゃとか、そういうのではなくて、軍に入って、その頃テレビで見たガンダムとかジムとか、そういう最新鋭のMSを触りたくて、その時に住んでいた家から一番近い所を受験したんです。それで、受かってしまって……それで……今……ここで、こんな事になってます」
 子供の顔が一瞬形を潜め、軍人の表情が浮かぶ。
 男は興味深げに目を細めた。
 士官学校出身のプライドではない、何か別の想いがそこにあった。
 この片田舎でエースを張る事への、苛立ちだとか、そういったもの……それも少し、違う様に見えた。

「吹雪はまだ止まない様だな」
「止んでも、オーブンの中のものを食べて下さらなくちゃ困りますよ」
 控えめにワインを貰いつつ、マスターが茶々を入れる。
「勿論食べます! っあ……なに?」
 カツン、と、フォークを更に突き刺すと、固いものが触れる。
 コウはナイフで器用にそれを掘り出した。
「やった! 凝ってますね、マスター」
「おめでとうございます、少尉。きっと良い事がありますよ」
 小さな銀色の輪が出てくる。
「貰っていいんですか?」
「それは、勿論。当たった人のものですから」
 綺麗な細工物の指輪だった。試しに合わせてみるが、コウの手では小指の先に何とか填るくらいで他は無理だ。
「貴方にも無理ですよね。ニナにあげようかな」
「恋人かな?」
「ええ。今は月にいるんです」
 濡れ布巾を貸して貰って綺麗に拭う。
「ああ……いや…………出来れば、友達にあげたいな。住所が分からないのが残念。あの人なら、僕より大分手が小さかったから入りそうなのに」
 聖夜に相応しい蝋燭の光に掲げて見る。
「幸せを分けて上げたいだけの友人がいるというのは、とても大切な事だ」
「ええ。本当に、そう思います」

 肉の焼ける良い香りが漂い始める。脂や肉汁を掛けて照りを出す為に、マスターがオーブンを開けた為だろう。
 小鼻をひくつかせながらも、コウは言葉を続ける。
「きっと……その人も、今日を一人で過ごしてるんだと思うんです。物理的に一人じゃなくても、きっと独りで……だから何時か、一緒にクリスマスを祝いたいな」
「そうか……その君の優しさは、何時か通じる事だろう。マスター、私にも、少しばかりプディングを貰えるか。クリスマスだからな」
「はい、直ぐに」
 オーブンを閉じ、男へもコウと同じようにして皿を出す。男の物言いから察したのだろう。量はコウに出したものの半分程だった。
「甘いものも悪くはないだろう。こんな日くらいは」
「苦手じゃないんでしょう? ホットワインとか飲んでたし」
「嫌いではないけれどね。苦手かな。甘いものだとか、優しいものだとか」
 コウは首を傾げる。
 甘いもの、優しいもの、コウには、必要なものにしか思えない。
 小さく切った一片をフォークに刺し、コウの口元へ運ぶ。疑問も持たず、コウはぱくりと銜えた。
 続いて、自分も一口。直ぐにワインを口にする。
「……美味いが、甘いな。やはり」
「そりゃあ、プディングだし。甘くない方が厭かな」
「それはそうだ」
 少しスパイスをを強めに効かせてあるのは、ここが酒場だからだろう。
「私もね……過ごしたい人が、いないわけではなかったのだがね…………私のその人物も、今ひとつ行方が分からないのだよ、困った事に。いや、私が君を捜した様に、その気になれば分かるのだろうが……踏ん切りが付かない事もある」
 独り言の様だ。
 コウはグラスに口を付けながら、黙って聞いていた。
「恋人ですか?」
「……そうだな。どうだろう。喪ってしまった、最愛のものの、代わりだからな」
「……代わり……って、それじゃあ、その人に失礼じゃないですか?」
 ワインは、コウの好みより随分と重かった。軽く眉を顰め、テーブルに置く。
 その様子に苦笑しながら、男はコウの頭に手を置く。
 子供にする様だったが、コウは余り気にしなかった。大体、頭を撫でてくる人間は少なくない。
「そうでもないだろう。私自身、彼らにとっては最愛のものの代わりだから」
「悲しくないですか? そういうのって」
「どうだろう…………だが、誰かの代わりであったとしても、求めるものがあったり、誰かに求められたりするというのは、悪い気分ではない。私にも、存在価値があると言う事だからな」
「人には、もっと他に……人に依らないで自分が立っている為の、存在意義っていうものがあると思います」
「君は見つけているのか? そんな、存在意義とやらを」

 その瞬間のコウの顔を見て、男は片眉をひょいと上げた。
 子供染みた言動が多く見られるので失念していた。
 コウは、確かにもう大人と言える歳の、男だった。
「……失言だったか?」
「いいえ…………」
 プディングより、ワインだ。
 そう思ったのだろうが、顔を顰めながらグラスに口を当てるコウに、男はマスターへ視線を投げた。
 マスターは心得たと言わんばかりに、別の瓶を出す。
 よく冷えたその口を切り、コルクを抜く。
 ぽん、と小気味よい音が立ち、口から泡が零れる。それを軽く拭って、細長いグラスに注ぐ。
「どうぞ、少尉」
「え、でも……まだ、ワインを飲み切れてないです」
「苦手なものを無理をして飲む事はない。残りは私が貰うから」
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
 男の方へワイングラスを遣り、素直にシャンパングラスを受け取る。
 口にして漸く僅かに眉を解いた。
「今、探しているんです。存在意義とか、価値とか、そういうものを。いや……ずっと探してるのかな」
 何処か、視線が遠い。
「生きているだけの、理由とか。そう言うのって……分かるものなんでしょうか。そう言うのをちゃんと考える様になってから、二年くらい経つんですけど……やっぱり、僕にはまだよく分からない」
「そんなもの、私にも分からないな。貴方には分かるか? マスター」
 振られて暫し考え、マスターは穏やかに微笑んだ。
 マスターの歳は、男より更に二十は上に見える。それなりの答えを要求されているのは、分かった。
「…………私の存在理由、ですか? それは勿論、こんな日でもお客様に美味しいお酒と食事を提供する事ですよ。この町にはここしか酒場はありませんからね。年齢も階級もそれから性別や家庭だとかも関係のないこんな場所の一つでもないと、パンクするでしょう? これは、私でなくても出来る仕事ですが、例えばこのプディングにしても、ワインの品揃えにしても、私の好みで用意しているわけです。その程度のオリジナリティでも、それを気に入ってくれる方がいれば、それで十分な存在理由になる」
 軽く肩を竦める。
「まあ、人の存在理由なんてその程度のものなんでしょう。そんなささやかなものでも、嬉しい、楽しいと思えれば……高々百年もない様な人生、深く考えすぎてもね、どうしようもないでしょうよ」
「……そう、思える様になるんでしょうか」
「私の歩んできたこれまでを踏まえたら、私はそう思う、と言う事です。それこそ人それぞれでしょう。……参ったな。年寄りだと思われたくはないんだが、こんな話題だとどうも説教臭くなってしまいますね」
 軽く頭を掻き、マスターは身を屈めてオーブンを開けた。
 香ばしい匂いが立つ。もう随分と焼けてきている様だった。
 再び肉汁を掬って皮目に掛ける。
「私もね、一度だけ、宇宙へ行った事があるんですよ。懸賞に当たって、観光コロニーへね。その時に地球を見て……人って言うのもは、そんなものなんじゃないかと」
 程よく焼けるにはまだもう少し掛かるらしい。再びオーブンを閉める。
 コウは、店内の薄暗い明かりを弾いてキラキラとするグラスを見詰めていた。
 外は星など見えない。グラスの泡に反射する光が、星屑の様だった。
「僕も、宇宙へ行ったけど……地球を見て、何かを考える時間なんて……何もなかったから……」
「それは勿体ない。…………私はね、星屑と同じだと、そう思ったんですよ、私は。星一つ一つがなければ、宇宙も夜空も作れないが、宇宙にとって星一つなんて、あってもなくても同じなんだと。地球は、それでも大きな星だと思いましたがね。こんな星だって、宇宙には数多ある」
「星屑…………ああ…………」

 グラスを握り割ってしまいそうな気分になって、コウは慌てて手を離した。
「嫌いだな、星の屑なんて…………」
 輝いて、散っていくものなどと。
 全てを攫って行ってしまう、あんなものなど。
 人の心も、命も、何もかも。
「マスターがせっかく話してくれたのだ。そんな顔をするものではないよ」
「あ…………ごめんなさい……」
 男の手が、優しく肩を抱いていた。
「……少し雪が治まってきた様だよ。大変いい話も聞かせて頂いたし、これで、そろそろターキーが焼けてくれればいいのだが」
 男は更に、コウの頭を抱き寄せる様にして手を回し、さらさらとした黒髪を撫でる。
 コウはぐずる様に男に顔を擦り寄せる。ニナやキースに甘える時と同じ様に。
 夜も更け始めていた。酒が入っている為に睡魔もある様だった。
「マスター、ターキーが焼けたら一切れだけここで頂いて、残りはテイクアウトしても構わないだろうか」
「ええ、構いませんよ。もう今日は他にお客もないでしょう。ここで食べきらないなら、どのみち持って帰るしかありませんからね。……もう、それ程はお待たせしないでしょう。皮がパリッとなればね」
「ああ。…………このままでは、こちらの少尉殿が眠ってしまいそうだからな」
「飲み過ぎでしょう。そんなに飲める口でもないのに……止めなかった私も悪いんですが」
「貴方の仕事は、勧める事だろうからな」
「こんな日でもなければ、止めてますよ」
 マスターから見れば、コウは息子程の歳にもなる。何処か眼差しが優しかった。コウの特質のお陰もあるのだろう。裏表も、屈託もない性格は、人から好かれる事の方が多い。

「少尉に手を出したら、貴方も怒るかな、マスター」
「怒りますよ、勿論」
 そろそろ溜まってきている使用済みのグラスを手際よく洗いあけながらさらりと答える。男は肩を竦めた。
「無理強いをするのは趣味に合わないから安心したまえ。彼はもう疾うに、誰かに心を攫われてしまっている様だから」
 コウは既に随分と船を漕ぎ始めていて男の言う事など聞いていない。決して小柄ではないコウを支え直して、男は指先で軽く頬を擽る。
「……んー…………はい、何でしょう……」
 律儀に返事をする様に、思わず笑みが零れる。
「とんだ少尉殿もいたものだ」
「程々にして下さいよ」
「分かっているよ。私も、他に心に決めた人がいる。私の心も、彼女に連れ去られてしまっているからな」
「ご結婚を?」
「していない。彼女も、星屑の何処か一つになっているのだろう」
 男はコウの残したワインを飲み干し、またデキャンタから注ぐ。デキャンタは、空になった。
「もう一本開けますか?」
「いや……シャンパンを貰おう」
 コウはもう飲めないだろう。シャンパングラスの残りにも手を出して干し、空のグラスを差し出す。
 肌理細かく美しい泡を浮かべて注がれたそれに、暫し魅入る。

「何もかも……地球産の方が美しく、美味だな。コロニーは所詮代用品に過ぎないというわけか」
「そういうわけでもないでしょう。宇宙は可能性の無限に広がる場所だと言いますからね。…………さあ、焼き上がりましたよ。お持ち帰りになるなら……ここでは足だけ切り分けましょうか」
 コロニー出身だと言った男を気遣う言葉を掛けながら、オーブンを開ける。益々、香ばしくなった香りと湯気がカウンター内から立ち昇った。
「そうだな。そうして貰おうか。……ウラキ少尉、待ちかねのものが出来たぞ。少尉!」
 強く揺さぶられ、コウは寝惚けたまま飛び起きる。
「う……うぇ? はい、お腹空きました!…………って、あ……あれ?? 僕、寝ちゃってました?」
「少しだけな。もう雪も治まってきたし、焼きたてのターキーを少し頂いたら、宿へ案内して欲しいのだが」
「はい!」
 取り出したばかりのターキーからは、まだ脂の爆ぜる音がしていた。
 両足が切り分けられ、たっぷりとグレービーソースを掛けて男とコウの前に出される。
 コウが少しだけ悲しそうな顔になったのを、男は見逃さなかった。
「残りは包んで貰うから、明日にでも温め直して友人とでも食べるといい」
「えっ、いいんですか!?」
 分かり易過ぎる。
 苦笑を噛み殺しながら、男をナイフとフォークを手に取った。

「う〜〜、寒いっ」
「効きが悪いな、全く!」
 部屋の片隅にある形ばかりは電源の入っているヒーターを乱暴に蹴る。
 ゴゥン、と音を立て、漸く動き始めた様だった。

「……モーテルでいいと言ったのは、確かに私だがな」
「この街にホテルなんてないです。インならなくはないけど……こことあんまり変わらないです。もう夜中だし、人の目がないだけ、こっちの方が気が楽かなって思ったんですけど」
 外気に当たって、コウの酔いも一気に覚めている。
 大きな手土産を貰って何となく陽気な気分のまま、コウは男の取ったモーテルの一室へ転がり込んでいた。
 コートをその辺りへ放り、ターキーの包みはテーブルへ置いてコウはベッドへ腰を掛けると上体を倒してしまう。酔いは覚めたが、何処か気怠い。
 男もコートを椅子の背に掛けて、冷えた手をコウの頬に当てる。
 首を竦ませる様が子供染みていた。
「仕方がないか。…………君、眠るのはまだ少し早いぞ」
「転がってちゃ駄目ですか?」
「人間が二人以上いれば、ベッドの上でする事など一つしかない。それで君が構わないなら、私も構いはしないが」
「……っえ……? えっと…………あ、あのですね。僕、男ですよ」
 通常よりたっぷり二テンポは遅くコウは赤面する。
 男はにやりと笑った。
「まあ、そうだろうな。大体分かる」
「大体って何ですか。……あの、もう、帰りますね」
 慌てて飛び起き、立ち上がる。
「まあ待て。私は君に会いに来たと言っただろう」
 踵を返したコウの手首が取られ、引き留められる。
 そこで、コウはその事を思い出した。
「そうだ! だから、どうして僕の名前を知ってるんですか? 貴方は、誰なんですか?」
「まだその日に来る覚悟がつかなかったので十一月十三日を避けようとしたら、こんな日になってしまった。どのみち……感傷の過ぎる事だ」

 その話を切り出した時だけ、コウの顔はひどく変わる。
 冬の最中に夏の日照りの様な熱を感じて、男は目を細めた。
 その表情は思い出せないが誰かに似ている様で、コウは落ち着かない気分になる。
「記録は、抹消されているんじゃないんですか?」
「抹消と言ってもな……コードが分かれば、それなりの事は見られるものだ」
「だから、貴方は一体!?」
「エゥーゴの名を聞いた事は?」
 答えもないまま問い返され、コウは小さく首を傾げた。耳慣れない……しかし、全く聞き覚えがない音でもない。
「……反ティターンズの組織、ですか? 連邦内からの有志が作ったとか……聞いた事はあるけど」
 馴染みはない。それよりはまだしも、嫌っているにせよ旧アルビオンクルーの一部がいるティターンズの方が多少近しい感がある。
「私はまあ……そんな組織の人間だ」
「……そんな組織の人が、僕に何の用ですか? あの、ティターンズになら、知り合いもいるけど」
「そのお知り合いの様にはティターンズへ入らなかった……いや、入れなかった君の立場から、話を聞きたいと思った。だから来た」
「何の……話ですか」
 分かっている。
 燃え立つ様な目で、コウは男を睨んだ。
 男が何を聞きたがっているのか、バーにいる時からの事を反芻すれば厭でも分かる。

 男は、そんなコウの熱を羨む様に目を細めながら口を開いた。
「星の屑の真実を知りたいのだよ。君の、真実を」
 これ以上追い打ちを掛けないで欲しい。
 止められない。
 叫ぶ。
「そんな事、僕だって知らない!」
 男は、事もあろうに掴んでいたコウの手を引き寄せた。身体を反転させ、ベッドの直ぐ側へに設えてあった椅子へコウを座らせる様にして自分はその上へと覆い被さる。
「君は、その目で見たのだろう?」
 その間にも笑っている、その何処までも人を喰った態度に、ふつり、と何かが切れる音を聞いた気がした。

「………………ああ! 見ましたよ、見ましたとも! だけど、僕は何も知らない! 何も分からない! 結局、何が敵で、何が敵じゃなかったのかだとか、何でアレン中尉やカークス少尉が死んで、バニング大尉も死んで、シナプス艦長まで死ななきゃいけなかったのかだとか……っ!! ケリィさんも死んだ。他のジオンの人達だってたくさん死んだんだろう。連邦だって。味方に殺された人達だっている。ソーラ・システムとかで、何人も巻き込んで!! あのガトーだって! ガトーだって、僕じゃない誰かに殺された!! ……それだけじゃなくて、ジオンが本当には何がしたかったのか、連邦の上層部は何を考えていたのか!! 何年考えたって! 少し分かるようになったことは、それは勿論あるけど、やっぱり分からないし、分かりたくもない!」
 一気に言い切ると、さすがに少し息苦しい。自分の息遣いが脳髄に響く様で、酷く不快だった。
 耳が痛い。
 息遣い。暖房の音。……男は身動ぎもせず、人形の様に、奇妙な体勢のままコウを見下ろしていた。
 見詰めてさえいない。ただ、見ている。
 痛い。これ以上自分に乱されるのが厭になって、コウは漸く長く深く息を吐いた。

「……君の見解は、よく分かった」
「…………手を……」
 掴まれたままの手首が痛い。
 しかし、離せとまで言う事が出来なかった。男の視線に飲まれている。
 負けている、圧倒的に。
 並の人間ではない事は、コウにでも分かる。並ではない、処ではない。
 コウがこれまで会ったどの人間とも、何処か違う。
 ガトーに怒鳴りつけられた時の様な、微かな萎縮と多大な反発を感じる。
 そう思って、コウは頭を振った。
 意地だけは、負けるつもりもない。
 喘ぐばかりだった口を開け、すっと息を吸う。
「離して下さい! もういいでしょうっ!」
 膝で男を蹴り上げようとすると、ギリギリの所で躱された。
 体格も腕力もほぼ互角。その弾みで、確かに手が離される。
「そう熱り立たないで欲しいものだな。君を嬲りに来たわけではない」
 一息では詰められない程の間合いを取り、しかし扉へも窓へも、コウの障害になる様に立って男は腕を組んでいる。
 隙がなさ過ぎる。
 コウとて職業軍人である。当然ながら各種訓練は受けているし、日々の鍛錬もしている。
 だが、男はそれを遙かに凌ぐ。
 精々五、六歳の年の差だろうと見積もれるが、それは大きいのだろう。この年の五歳、それは、戦前派か戦後派か、そういった経験を積む機会に恵まれたかどうかという違いだ。
 密度が濃かったとは言え、ひと月の経験と、一年の経験とでは、圧倒的に異なる。
 ベルトのバックルにそれとなく触れる。銃は、持っていた。いざとなったら撃ち殺して逃げる。
 男はしかし、そのコウの行動と決意の滲む目を見ても、微笑みを崩さず制止行動も取らなかった。
 余裕なのだ。コウは強く奥歯を噛み締めた。

「敵だと言うつもりはないよ。君が私に何を言った所で、私もいろいろとあるものでね。公表できるわけでもない。銃を抜くのは、勘弁して貰いたいな」
「貴方がわざわざ怒らせているんでしょう」
「そんなつもりもないのだがな。気に障る物言いをしているなら、申し訳ない。これが私だと理解してくれると助かる」
「……何だか偉そうな人ですね、貴方」
「そうかな……」
 本当に素らしい。
 コウは、少しだけ怒りを収めた。
「本当に…………貴方は、何をしに来た人なんですか?」
 椅子に深く背を預ける。少しでも余裕がある様に見せかけたくて、大きな動作で足を組んだ。
 男は僅かに間を詰める。
「君を誘いに来た。連邦の片隅でただ燻らせているには、君は余りに惜しい人材だと思うのでな」
「……燻っている様に見えますか」
「ああ、十分にな。だから、さっき程度の簡単な挑発にも乗ってしまう。感情は出来るだけ抑えるべきである事は、軍人なら理解している事だろう? それが出来ないのは鬱屈している証拠だ」
「僕は……元々そう言うの、苦手で」
「見れば分かる。素直なのは悪くはないが……君にとって私が敵か味方か、まだはっきりと判別できてもいないだろうに」
 雰囲気に飲まれて、思い至っていなかった。
 いや、今の自分にとって何が敵で何が敵ではないのかなど、意味がないとも思っている。
 男が自分にとってどういうものか、関係がない様な気がした。
 抹消された記録。それについて語ってはならない。任務についての守秘義務がある事くらい当然理解はしていたが、もう遅い。既に叫んでしまっている。
 コウは、小さく溜息を吐いた。
「……ガトーにも、怒られた事があります。敵だって分かってるのに、あんまり教官みたいな口で怒鳴るから、つい、はいって返事しちゃって」
「……ガトーにも? ああ……いや、ソロモンの悪夢と話をした事があるのか」
 男の言い改め方に、コウは疑問を持たない。
「殆どないです。たった一ヶ月戦っただけの相手だ。だけど……資料見たんですよね。初めてガトーと戦った時、ガトーは強奪したガンダム試作二号機に乗っていた。だから、通信できたんです。通信というか……怒鳴りあいみたいなものだったけど。ひよっことか未熟とか一人前じゃないとか散々言うし! あの時の僕は本当に、実戦なんて始めてで、それは勿論、相手として全然役者不足だったのは……今なら分かるけど」
 思い出しただけで怒りが湧いてくる。
「直接生身で会ったのは、たった三回だけだけど、何か、難しい言い回しばっかりする相手だって。小馬鹿にされてるみたいで、声聞く度に怒るしかなくて…………ああ! そうだ、今みたいに! だけど、それでも、ガトーは僕を忘れないって言った。忘れないって言ったくせに、忘れるより酷い! 僕を置いて死んだんだから!」
 人を怒らせる口調、と言うものはあるのだろう。
 見た目も、声も、全く似ているとは言い難いし、漢語の様な堅苦しい言葉ばかりだったガトーに比べてこの男の物言いは回りくどいが取り敢えずは柔らかい。
 だが、偉そうだという一点に置いては、よく似ている気がした。
「何なのかな……貴方、何処か……ほんの少しだけ似てる気がする」
「ほう…………面白い見解だ。光栄なものだな。戦史に名を残す歴戦の勇士と似ているなどと」
 男は、本当に面白そうに口角を上げた。

「貴方は、僕の敵ですか?」
 そうは見えない。だが、自分で判別は出来そうになかった。男は、謎だらけで、隙がなく、自分を苛立たせる存在である事は確かだ。
「…………本当に素直な子だな。今まで私の周りにはいなかったタイプだ」
 呆れながらも微笑んだままだ。コウはそれが分かって軽く口を尖らせた。
「分からないから聞いてるだけです」
「今のところは違うと思うよ。敵ではない。私の敵は……そうだな、もう少し大きなものだ。個人などではない。今はね」
「連邦の敵なら、僕の敵です。僕は、連邦の士官だから」
「いっぱしの事言う。エゥーゴはその連邦から出た機関だ。だから、連邦の敵ではない、そう思うが」
「ティターンズも、連邦内の機関です」
「今連邦は二分されているという事だ。いや、君の様な存在を考えれば三分か。だが、エゥーゴも随分力を付けてきているし、ティターンズはあの通りだから……君達も、いずれどちらかに与さねば生きていけないだろう」
「…………エゥーゴと、ティターンズが、大きく諍いを起こす、と言う事ですか」
 何も知らないのだ。
 男は肩を竦める。無知は、罪悪に等しい。
「もう起きている。ティターンズを野放しには出来ん」
「何が……その、僕は、どちらの事も、よく知らないんですが」
「ティターンズは、第二のザビ家になろうとしている。あの愚かな歴史を繰り返してはならない。君は、七月の末にサイド1の30バンチで反地球連邦の集会が行われたのを知っているか?」
「いいえ」
「ティターンズがそれに対して何をしたと思う」
「分かりません」
 コウは、本当に何も知らなかった。
 男は氷青色の瞳の色を何処か薄くしながら、コウを睨む様に見詰めた。微笑みが消えている。
 美貌が冷気を孕んで見え、暖房が効いてきている筈なのに、コウの背筋に冷たいものが落ちた。

「…………毒ガスだよ。分かるか? 閉塞したコロニーで、毒ガスだ」
 コロニーに縁のないコウに実感はない。だが、丁寧に繰り返されれば、その重要性は分かる。
 理解するに連れ、顔が青褪め強張る。
「……まさか……そんなもの…………それ、とんでもない事になるんじゃないんですか?」
「ああ、なったさ。コロニー一つ」
 軽く握った手を上へ向け、ぱっと開いてみせる。
「一年戦争の時に、ジオンも同じ事をしたがな」
「そんな兵器……でも、そんなの、禁止されている筈じゃあ」
「禁止されていても、存在する兵器というものはある。試作二号機に搭載された核というのは、どうだった」
「……ああ…………」
 一瞬にして多くの艦隊を消し去った、あの強い光を思い出す。コウは目を伏せた。
「そうですね…………存在してはいけないという法までは、ない」
「連邦というのは、そういう組織だ。……使わなければ、どうと言う事はない。使用は禁じられたが、作製や所持までは禁じていない。あれは、言うなればザル法だ。抑止力としての所持は、妥当な手段かも知れない。しかし、そんな組織を現状で牛耳っているのが平気で毒ガスを使う様な輩だから、我々が立たねばならんのだ」
「……分からない話ではありません。だけど……」
 だからといって、自分が動かねばならないだけの理由にはならない。正当な理由があれば、汚い作戦というものだってある事を、理解できない程の子供でもいられない。
 コロニーで毒ガス。その事の大きさを、コウにはやはり、何処か実感のないものとしてしか受け止められなかった。理解は出来ている。しかし。
 困惑した様子のコウに、男はゆっくりと頷いてみせた。
「ああ、君は……生粋のアースノイドか。コロニーへは行った事もない様だな」
「……一度だけ、研修で行きましたけど……後は月のフォンブラウンに一度、デラーズ紛争の最中に。それだけです。分かるものなんですね」
「理解は出来ても、実感はない様だからな。呼吸をするだけでも税金がかかる、そんな事を考えた事などないだろう?」
 顔が強張っている。確かに、空気に税金がかかるという感覚は、コウには余所事だ。
 素直に頭を下げる。コウは、自分が無知である事を知っていた。
「ごめんなさい…………知っている事です、勿論。だけど多分、ちゃんと分かっていないと思います。分かっているつもりではあるんですけど」
 アースノイドの傲りなど欠片もない素直な様に、男は再び唇に微笑みを戻す。
「本当に素直で真っ直ぐな子だ。構わないよ。これから理解してくれればいい。それに……直ぐに結論を出してくれとは言わない。だが、選ばねばならん時が来るという事を、知っておいてくれ」

 男は組んでいた腕を解き、座っているコウの側に寄ってその肱置きに軽く尻を乗せた。
 コウは男を見上げ、小さく首を傾げる。
 この男は、本当に、一体何をしに来たというのか。
「どうして、わざわざ僕にそんな話をしに来たんですか? ティターンズでもエゥーゴでもない人間一人一人を説得して回っているというわけではないんでしょう?」
「……戦後、ガンダムに乗って実戦したのは、今のところ君一人だろう? ガンダムに乗り、ソロモンの悪夢と戦って、生き残った。その経歴を放っておくのは、余りに惜しい」
 言い分は、分からないではない。だが、とてもそれだけで、せっかくのクリスマス休暇を潰すというのも合点のいく話ではなかった。
「僕の友達の方が、よっぽどお役に立てそうだけど…………」
 赤茶色い癖毛の、柔和で幼げな顔が脳裏に浮かび、コウは思わず目を伏せた。
 役には立つだろう。だが、駄目だ。それは分かっている。
 アムロは戦いに出る人間ではない。
「友人?」
「もの凄いパイロットです。僕なんて、足元にも及ばない。……だけど…………本当は、戦う人なんかじゃないから」
「デラーズ紛争に関わった人物か?」
「いいえ。だけど、凄い人です。話してると楽しかったし」
「君がそうまで褒めるのか。会ってみたいものだが」
「僕も、去年一度会っただけなんです。容易く会える人でもない。だけど、その時仲良くなって……また会いたい人。大切な人です。その……さっきバーで貰った指輪を上げたい人ですよ」
「女か?」
 コウはやっと顔の緊張を解いて微笑む。
「可愛かったですけどね、見た目は。でも、残念だけど男の人です」
「ふむ……益々会ってみたいものだ」
 顎を軽く撫でる仕草が様になっている。
 コウは妙な表情になった。
「…………貴方は、その…………男の人に興味のある人ですか?」
「…………そう見えるかな?」
「…………だって、何だかさっきから変な事ばっかり言うし」
 男はあんまりと言えばあんまりな言い草に思わず吹き出す。
 側にあるコウの頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと撫でた。
「女の方がいいかな。どちらかと言えばね。男の身体は硬くてつまらない。君くらい純粋で可愛らしい性格なら、まあ少しちょっかいを出してみたくはなるが」
「……いらないです」
 手を振り払う。
 男は益々笑った。コウは頬を膨らませる。

「もう…………あの、いい加減に、貴方の名前くらい、教えてくれてもいいんじゃないですか? 貴方の言葉を信じるのも、疑うのも、ついて行くも行かないもそれからの事でしょう?」
 上手く乗せられているのが分かる。男を見上げ、きつく睨んだ。
「そうだな……夜も更けてきた」
 男はコウの頬に手を添え、じっと顔を覗き込む。
 目が合うと、その奥底までを浚われる気がした。コウの背を、戦慄が走る。
 それだというのに、目を反らす事も出来ない。顔を固定されているわけでもない。手は添えられているだけだ。
 威圧感、とでも言えばいいのだろうか。
「私は、クワトロ・バジーナ。エゥーゴの階級で、大尉だ。連邦の人間が殆どだから、階級もそのまま引き継いでいると思って貰って構わない」
「……大尉?」
 嘘だろうと思う。もっと上の階級……いや、それ以上の気もする。でなければ、ここまで気圧されるものでもないだろう。
「将官とかではなくて、大尉……?」
「私は君と四つしか違わない。将まで昇るには、それなりの血筋と活躍の場がいるな。一年戦争の時には、私はまだ士官学校を出たばかりの若造だった。大尉でも、それなりに実績はあるものだと思うよ」
 胡散臭い。だが、どうもそれ以上は深く追求できそうにない気配があった。
「何だか……もっと偉い人かと……あ、いいえ。自分は少尉だから、貴方は上官になりますけど。……バジーナ大尉……答えは今すぐじゃなくていい、とそう言いましたよね」
「ああ。こう話していて、君は私達と共に動いてくれる人材だと確信している。今共に来てくれなくとも、もっと具体的な作戦行動に移る事になった暁に、もう一度誘いに来よう」
 凝りもせず、もう一度コウの頭を撫でる。クワトロの髪は柔らかそうな巻き毛、コウのさらさらとした直毛の手触りが気に入った様だった。
 コウはぷるぷると頭を振るが、もう振り払いはしなかった。

「たったこれだけのことの為に、わざわざ来たんですか?」
「そうだな…………ああ、いや、暫く宇宙にいて、中々地球に来られなかったのでね。デラーズ紛争に興味があったのは確かだ。だから、来たかった。どちらかと言えば、勧誘はそのついでだな」
「どうしてそんなに……あの件が気になるんです? たまたま資料を見てしまったから?」
「そう言うことにしておいてくれ。資料は、連邦のものだけではないのだ。物事には、二つの面が存在している。両面から見なければ、その本質など分からないだろう?」
「……ジオンの資料も、見たんですか?」
「たまたま機会があってね。ジオンの資料を見、それから、連邦へ探りを入れた。そして、君を知った。中々興味深い資料だったよ」
 かっとコウの目に炎気が走る。
「…………だが、何も変わらなかったな。あんな大きなものが、地上へ落ちてきても。何も。変えるには、もっと大きな変化が必要なのだろう。まったく……愚かなことだ」
「何も…………いいえ、変わった!」
 炎の様な熱に瞳が揺らいでいる。漆黒の瞳を、クワトロは美しいと思った。
 髪から手を離し、両手でコウの頬を挟む。コウは顔を背けることも目を反らすことも出来なかった。
「君の一生はそうなのだろう。だが、彼らが変えたかったものは、何も変わらなかった。いや……益々、望みから遠離った。愚かなことだよ。だが、何もしていない人間に、彼らを嗤う権利などない。君だって、現状をよしとはしないだろう? なら、動かなければならない。それは、義務だよ」
「敵の意思を継げって?」
「意味を理解し、承服できるならな。……合致するものでなくとも、それでも自分の形で動くべきだ。鬱屈しているくらいなら、多少無謀でも自分に出来るだけのことをするのは、人としての義務だ」
「…………それで…………貴方は、エゥーゴに参加しているんですか」
「ああ、そうだ。地球は疲弊している。人類は、そろそろ地球を休ませてやらねばならんと言うのに……アースノイドを至上だと思っているティターンズなどという勢力が、益々のさばって地球を食い尽くそうとしているのだ。彼らは、宇宙の可能性を欠片も考えていない」
 部屋の薄暗い明かりの中でも、クワトロの瞳の色は美しかった。澱みなどない。
 純粋に地球のことを思っているのがよく分かって、コウはじっと、その美しい顔と瞳を見詰める。
 魅入られる、そう思った。
 ガトーと対峙した時の様に。
 目を反らせないのは、ただ美しいからなのか、気圧されているのか、もう既に魅入られているのか、分からない。
 しかし、考えなくてはいけない、そう思う。
 美しく純粋なものが、全て正しいとは限らない。
 ガトーも、それは美しくて、純粋だった。会話などと呼べる様な言葉は交わさなかったが、迷いなく、澱みなく、純粋だった。……多分。

 考えながら、ゆっくり口を開く。
「僕にも、宇宙のことは実感がない。だから、デラーズ・フリートが何をしたかったのかは分からないし、貴方の言い分も、良く理解できない。だけど……考えなくてはいけないことだというのは、分かっているつもりです。森は消え、砂漠はどんどん広がっていくし……。このままでは、そのうちに地球には住めなくなるって、それは、分かります。だから、人が生き続けるには、宇宙に上がらなくちゃいけないって事も。だけど……今すぐに貴方の趣旨に賛同することは出来ないし、ついていくことも出来ない。もしかしたら、よくよく考えた後でティターンズに与するかも知れない。それでもよければ、僕に、時間を下さい」
 言葉を飾ることはおろか、オブラートに包むこともあまり知らない。
 率直な物言いに、クワトロは深く頷く。
 コウの頬を軽く撫でる様にしながら手を離し、ベッドのサイドテーブルに置かれたメモ用紙に何かを走り書く。
「結論が出た時に、いつでも連絡をしてくれて構わないよ。なに、君の近しい所にだってエゥーゴは潜んでいる。私への繋ぎは直ぐにつくだろう」
「はい」
 差し出された紙を受け取る。アドレスと、電話番号が記されていた。
 ジャケットの内ポケットへそれを仕舞う。

「年を越すまでは私もこの街にいるつもりだ。それまでに覚悟がつくようなら、ここへ来て欲しいものだが」
「…………それは、無理かな。そんな簡単に答えが出せるなら、僕はもうちょっと早く楽になれてる」
「ああ…………ああ、そうだろうね。気にしないよ。再び君に会えることを祈っている」
「個人的には、貴方を厭だとか、嫌いだとかは思いません。それより、敵対したくないなって思います。何か、強そうだし」
「強そう、か……?」
 中々人を見る目はあるらしい。それがたとえ、動物の本能に近しいものであったとしても。
「パイロットでしょう、貴方。砲艦手って風には見えない。どっちかっていうと、参謀とか作戦士官とか、そんな気もするけど……もの凄く戦場の匂いがする。……匂いっていう言い方でいいのかな……でも、そんな感じ。当たってます?」
 上目遣いで見上げられ、クワトロは肩を竦めた。鈍過ぎる部分と、妙に鋭い所、確かにどうにも子供らしい。二十二にもなって。
「こんな時ばかり勘はいい様だな、君は。確かに私はパイロットだ。MSに乗っている。入隊以来、ずっとな。それでも未だに生きているから、それ程弱くもないのだろうよ」
「強い人と戦うのは……あんなのは、僕の一生の中でガトー一人でいい。負けっ放しは、やっぱり悔しいから」
「……君は、綺麗な目をしている。私にも、君を引き受けられるだけの覚悟はないな。私には、もうライバルというものがいるからね」
 もう一度コウの頬に触れ、指先で目元を辿る。漆黒の、曇りのない瞳が何処か愛おしく、何処か腹立たしかった。こんな目をかつて知っていた気がする。人を疑うことすら真面に知らない、純粋培養の。
「その人も強いですか?」
 育ちがよいのはよく分かる。自身のことは横へ置いて、クワトロは微かに表情を曇らせた。コウは気がつかない。
「ああ。強いな。私は勝ったことがない。負け続けて、大切なものまで失ってしまった」
「それでも、戦うんですね」
「私は、生きていく場所を他に知らないのだよ、残念なことに。戦う相手がいるというのは、私にとって気が楽でいい」
「戦う理由、戦う相手……それも、考えます。貴方についていったら、きっと、ガトー程のものでなくても巡り会えるのかも知れないけど。今の僕には、あれ以上のものは、考えられないから」
「二年程では思い切れもしないのだろう。それは、よく分かる。…………時が来れば、私も動く。表立つことにもなるかも知れない。その時には、是非に共に立って欲しい。そう願っているよ」
「はい!」
 コウはにっこりと笑う。
 たった一晩話しただけで、もう殆ど懐いてさえいる様だった。

「それで、どうするね? もう随分遅い時間だ。泊まっていくかい? 生憎、ベッドは一つしかないが」
 超の上にもう一つ足しても足りない程鈍感なコウにさえも分かる程の色香を滲ませて囁く。
 コウは気の毒になる程身を竦ませた。
「そっ、そんな。宿舎は直ぐそこだから」
「そうか。それは残念だ」
 クワトロは僅かに身を屈めた。変わらず、コウの頬には触れたまま。

「………………っえ……?」

 綺麗な顔が近付いて、どうしようもなく鼓動が跳ねた。綺麗なものは、無条件で好きだった。
 そうしているうちに、額と唇に、軽く息と、温かいものが触れた気がした。

「黄色系は、肌の肌理が細かくていいな」
 吐息の混じった様な艶めいた声が耳を擽る。更に身を縮めた。
「……っ〜〜〜〜!!」
 手の甲を口に当て、コウは首筋まで真っ赤に染まる。
 漸く自分が何をされたのかを理解するに至る。
「っ、な、っ……な、何で、こんな……っ……」
「君が少しばかり、私の思い人に似ているからかな」
「だから、っ……僕は、男だって」
「オリエンタルで、意志が強くて……さらさらの黒髪の所がね。ああ……いや…………そっちではないのかな。優れたパイロットで、好戦的で、見た目が愛らしくて純粋な所か。…………それとも、その何処までも鈍くて、お坊ちゃん育ちの純粋培養な所か……または戦いに意味を見出そうとする融通の効かなさと男らしさか」
 コウは驚愕を対処しきれずに殆ど涙目だった。
 キスだなどと、ニナ以外と結局未だにしたこともなかったし、考えたこともなかった。いや、勿論両親は除くとしても。
「………………それ…………全部同じ人……?」
「いや。四人……だな。人と人との共通事など、探そうと思えば幾らでも見つけることは出来る。そのどの部分をどう受け取るのかは、個人の勝手だ。そんな錯覚の積み重ねで、人の関係は作られていくものだよ。君が私とアナベル・ガトーを何処か似ていると思ったのと同じようにね。私は、過去私の出会った誰かに似ている気がする君に対して好意を持った。それだけのことだ。触れるだけの口付けなど、ただの好意の表れであってそれ以上でもそれ以下でもない。余り重大に考えないで欲しいな。私が気恥ずかしくなる」
 額にもう一度軽く口付けて頬を撫でると、クワトロは立ち上がってコウのコートを取った。
「また会える日を」
 差し出されたそれを受け取って羽織りながら、そそくさと立ち上がる。
 居たたまれない気分で一杯だ。
「お、お邪魔しました!」
「いや、君に感謝するよ。大変に有意義な日を過ごすことが出来た。ターキーは、忘れず持って帰りたまえ。私には、そんなものを共に食べる人間もいない」
「一緒に食べますか? 明日も」
 たった今何をされて、どんな反応を見せたのか……忘れていないだろうに直結させられない天然ぶりが、気の毒でさえある。
 笑いを噛み殺しきれずに声が震えた。
「い、いや、ウラキ少尉。君達の年頃なら、そんなもの二、三人で片付くだろう。私は構わないから、友人と楽しみたまえ」
 羽織っただけでは冷え込むだろう。ファスナーとボタンを丁寧に首まで留めてやり、まだほんのりと温かい包みを渡してやる。
「ありがとうございます。あのバーではお酒以外あんまり口にしないから、料理があんなに美味しいって知らなかった。友達にも教えてやります」
「それがいい。マスターも喜ぶだろう。酒ばかりでは、せっかくの腕も持ち腐れになってしまう」
「はいっ」

 それからコウは、扉の所まで見送りに出たクワトロを振り返り振り返り宿舎へと帰っていった。
 姿が見えなくなるまで、振り返っては大きく手を振る。そして、叫ぶ。
「またーーー!!」
 遠離るに連れ、何を言っているのかも聞き取れなくなっていく。夜中に近所迷惑だろうと思ったが、吹雪は治まったものの降り続く雪が、その声をしんとした空気に包み込んでいく。
 寒さに耐えながら、クワトロもコウが見えなくなるまで取り敢えず、見送り続けた。

「…………分かっているのか、ガトー。君は本当に罪作りだ。あんな幼気な子を連れて行ってしまったのだからな……」
 クワトロの呟きもまた、雪に掻き消されていく。
 朝日が昇れば一面の銀世界だろう。
 それを想像して、クワトロは、暁の空を見上げたくなった。

 宵闇と朝日の混じる薄紫の空の色を、一面の銀世界の中で。
 冬の朝の、刺す様に透明な空気の中で。
 その時間にまではまだ少しある。
 冷気に首を竦めながら、クワトロは室内へと戻った。


作  蒼下 綸

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