綺麗にしてしまった。
 人の心なんてそっちのけで。
 綺麗になってしまった。
 俺の心はここに取り残されたままなのに。
 もう、足掻くことすら出来ない。
 あんたは俺に、それすら許してくれない。
 追いかけることも出来ない。
 だから、追いつくことも出来ない。
 あんたは俺に何も許してくれない。
 あんたは俺を、許してくれない。


 目を開けると、そこは酷く静かな場所だった。
 聞こえるのは、息を吹き返した自分の呼吸音と、僅かな機体の駆動音だけだ。

 思考はうまく動かなかった。

 いない。
 ……いない!
 何故だ。

 光がこの空間に広がるまで、確かに捕らえられていた筈なのに。
 決着はつく筈だった。無論、自分の負けで。
 殺されるのも当然だと思っていた。そうして、はっきり白黒が付くのなら、それだけで満足だった。
 なのに。

「ガトー……とどめを刺さずに行ったのか……」
 呆然と呟く。実感が湧かない。
 無意識に各メーターへ視線を走らせる。
 オーキスの損壊状況は壊滅的だった。ステイメン本体に大した損傷がないのは、ソーラ・システム側にガトーがいたから。

 周囲にノイエ・ジールの破片は見当たらない。モニターを回転させても、影も形も見えなかった。
 ならば、彼はまだ生きている筈だ。
 少なくとも、この空域で死んではいない。
 オーキスを分離させ、漂っていたビームライフルを拾う。
 そして、もう一度周囲を見回した。

 いない。
 いない。
 何処に──────。

 声の限りに叫ぶ。
 叫んでどうなるものでもなかったが、そうでもしなければ、身体の内にどろどろと蟠る熱いモノに全て浸食され尽くしてしまいそうだった。

 完全に勝ち逃げだ。
 その上、もう再戦の可能性さえ見えなかった。
 自分と決着をつける為、彼は待ってくれていたのに。
 何故もう一度待っていてくれなかったのか。
 何故。……何故──────。

 拳をコンソールパネルに打ち付ける。
 歯止めの利かない強い衝動が突き上げていた。

 声の限りに叫び、それでもどうしようもなくて、何もない……本当に、何もなくなってしまった空間へとビームライフルを撃つ。
 乱射したかったが、弾は2発しか残っていなかった。
 足りない。

 足りない!!

 再びパネルに拳を叩き付ける。熱い涙がぼたぼたと止め処なく零れ落ち、バイザーの中に溢れた。

 限りなく近く、果てしなく遠く。
 触れる事はなく、けれども強く心を鷲掴みにして。
 ちりちりと爪で引っかかれたような痛みと、大きな何かに圧されるような、相反する感覚すら覚える。
 重く、鈍く、乾いた痛み……。
 ガトーが最期に残したもの。
 もう、突き返すことも出来ない。

 嵐はくっきりとした爪痕を胸に刻み、過ぎ去って痛みと静寂だけを置いていった。

 本物の嵐ならば、過ぎた後には爽やかな晴れ間も覗くだろうに、そんなものは何処にもなく、ただ、熱く滾った身体だけが無為に放り出される。

「ガトー!!!!」
 広がる宇宙には、その気配すら感じられない。戦いそのものすら、なかったかのようだ。
 出逢った瞬間から自分の遙か先を歩いていた男の背は、もう、視界に入ることすらなかった。

「ガトー…………」

 光は連邦の兵器だった。
 多くの味方まで巻き込んで照射されたそれは、戦いに水を差し、ガトーの姿を掻き消してしまった。

 酷い男だ。一度待っていてくれたなら、もう一度待ってくれたってよかった筈だ。そうしたら、自分は殺されたってよかった。ガトーの腹に銃弾を撃ち込んだのだから、ガトーだとて同じ様にしてくれたらよかったのだ。
 生きたかったわけではない。ただ、決着が欲しかっただけだ。

 息が詰まる。ヘルメットを脱ぎ捨てて床へ叩き付ける。
 苦しい。何故、こんなにも……!
 敵が逃げていったのだから喜ぶべきだ。もうガトーだとてあんな機体では戦えはせまい。そして地球からの艦隊も届いている。もう、敵に勝ち目はないのだ。

 敵……。

 ガトーは敵だったのだろうか。

 コウはふるりと身体を震わせた。
 分からない。
 ガトーは敵だったのか?
 いや、敵対陣営の仕官同として戦った。敵として対峙した。男としても戦い、敗北した。
 だが、ガトーは……本当に敵だったのだろうか。
 確かに、戦って勝ちたい相手だった。勝てないなら、いっそ自分が死んでもよかった。正々堂々真正面から戦って決着がつくものなら、それでよかったのだ。

 ……それは、敵と言えるのだろうか。

 コロニーは止めなければならなかった。だが止められなかった。それを落とそうとした男は、確かに地球を守るべき立場であるコウの敵だ。それは分かっている。
 だが、今のコウにはそんなことより、同じ連邦軍に戦いに水を差されたことの方が数倍悔しい。
 コロニーは結局落ちた。ガトー一人止められなかった所為で。
 上層部の思惑に従っていれば、コロニーは落ちなかったのだろうか。
 否。ガトーがいたのだ。ことはどのみち完遂されたことだろう。
 ガトーがいたのだ。
 ガトーが………………ガトーが!

「っ!」
 急に機体が揺さぶられた。咄嗟に、振り向きざま拳を繰り出す。
『うわぁっ! 危ないだろ、コウ!』
「……っ……キース……?」
『キース? じゃないぜ、全く! 無事か? 怪我は?』
 耳慣れた親友の声に、コウの周りの景色が急にはっきりとしてくる。
 強く頭を振った。
「ない。……大丈夫」
『よかった! アルビオンもすぐそこまで来てる。…………よくやったな』
「…………何を」
 何一つ叶わなかった。
『俺達は、俺達なりにできることをやった。それでこうなちゃったのは……悔しいけど、仕方のないことだろ』
「そうだな……」
 仕方がない……そうなのだろうとは思う。コウ一人では、どうすることも出来ないことだったのだ。だが、それでも悔しい。
『戻ろうぜ。な』
「…………もう少し、ここにいたいんだ」
『コウ……でも』
「……アルビオンが来るまで、せめて……」
『………………分かった。……デラーズ・フリートはこの宙域から離脱した。後方にいたアクシズの艦隊に向かってるらしいが……戦闘はまだ続いてるらしい。だけどもう、敵には戦力が残ってないってさ。こっちの被害も大きかったけど……コロニーが堕ちた以外は、俺達の勝ちだ』
「そう……」
 勝ちだというのか。自分はこんなにも負けたというのに。
 微かな返事をすることさえ億劫になって、一方的に通信を切る。
 コンソールパネルに突っ伏し額を押し付けた。

 深く長い息を吐く。
 滾った血は最早吐き出す当てもなく内に留まり、その熱く、どろどろとしたものに身を侵されていく様だ。
 何も分からないまま、時間と周りだけが過ぎ去った。
 取り残されているから、こんなにも苦しいのだろう。自分一人が底なしの沼に足を踏み入れてしまったかのようだ。ずぶずぶと身体が沈み、藻掻いても逃れられない。
 そんな感覚に囚われて、思わず腕で宙を薙いだ。
 藻など絡んでいない。泥の沼にいるわけでもない。むしろ重力などない筈なのだ。
 だがしかし、腕は重かった。

 誰か引き上げてくれ!

 そう叫びそうになったが、口から零れたのは紛れもない嗚咽だった。

 誰か、ではない。
 自分を引き上げられるのは、ただ一人だ。しかしそれは、生きていても、死んでしまっていても、もう二度と、コウの前に現れてはくれないだろう。
 コウを置いて、行ってしまったのだから。

『コウ、来たぜ。アルビオンだ』
 キースの声が聞こえても顔を上げられない。
 モニタ画面が動く。キースに動かされているのだと知っても、コウは動けなかった。

 そうして、コウは、待つ女もいないアルビオンへと帰投した。
 心は、燻らせたままに。


作  蒼下 綸

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