「かみーゆさん、こっち!」
「まて、ジュドー! だめだってば!!」
側の木を足がかりに塀をよじ登る。ジュドーは、そう言う所だけはやたら発達のいい子供だった。
「そとにでちゃだめだ! せんせいがしんぱいするだろ」
「かみーゆさんといっしょだったらいいもん! ねえ、はやく!!」
壁に阻まれて姿が見えない。
カミーユは不安になって、同じ様にして塀を登った。カミーユの方が少し身体が大きいし、武道を習っている分運動神経も余計にいい。
無事に塀の向こうへ降り立つ。
そこは、公園だった。
迎えの立て込む時間で園内は何処か騒々しく、消えた二人の園児に気がつくものは、まだいなかった。
「うわぁー……」
ジュドーは意気揚々とカミーユの手を引き、一本の木の下まで連れて行く。
大きな桜の木だった。
ジュドーでも足が掛かる辺りから節立ち登れる様になっている。保育園内にも桜はあったが、綺麗に剪定されていて園児には登る事など出来ない。ここは、特別な場所だった。
「さくらのなかにいけるんだよ!」
「おとながいないのにだめだ。おちたらどうするんだよ」
「おちないよ。だいじょーぶだもん!」
ジュドーは繋いでいた手を解き、桜の周りをぐるりと回って登れそうな足場を捜す。
カミーユはジュドーを追いかけて、ぐっとその手を掴んだ。
「だめだって!」
「なんで? かみーゆさんも、いっしょにのぼろ?」
にっこり笑われて、カミーユも揺らぐ。
見上げれば、目眩がする程の花が降りかかってくる様だ。上へ上がれば、ジュドーの言う通り、本当に桜に包まれる。
「だいじょーぶだよ! ねっ!」
「でも、」
「じゃあ、かみーゆさんは、そこでみててね!」
得意げにそう宣言し、ジュドーは難なく足をかけて木によじ登り始める。
「ジュドー、あぶないって」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
楽観的すぎるジュドーを追いかけて自分も登ろうかと思うが、もしもの事を考えるとそうも出来ない。はらはらと見上げる。
「ジュドー!」
「なーにー?」
「おりてこい!」
木を回る様にしながら登っている為にジュドーの姿が度々見えなくなる。カミーユは狼狽えて木の周りを回り、姿を探す。
「ジュドー!」
「はーい! かみーゆさんもくればいいのに」
木の後ろへジュドーが隠れて、カミーユは唐突に不安になった。桜の木が、ジュドーを飲み込んでしまいそうだ。
「ジュドー! ジュドー!!」
「ここだよー!」
ひょい、と顔が覗く。もう随分上の方に登っている様に見えた。
「はやくおりてこい! ばかっ!」
「えー、もうちょっとー!」
枝の先の方が、当然ながら花の付きがいい。
降り零れる桜の花は、カミーユの様に美しい。ジュドーは一枝をカミーユに贈りたかった。
カミーユの性別は何となく分かっているものの、女の子達よりずっと綺麗で可愛い。ジュドーの目には誰より花が似合う様に見える。
乗っかった太い枝の先の方へ移動すると、枝が撓う。
「うわっ」
「ばか! やめろって!!」
カミーユは殆ど泣きそうになりながら叫ぶ。落ちたら大変な事だ。
「だいじょうぶだよー!」
手を伸ばす。たくさんの花が付いた、先の方の枝へ……。
「だめーーーーーーーっっ!!」
「うわぁぁぁっっ」
どこからか響いた声に、ジュドーは驚いて落ちかける。
ぎりぎりのところでバランスを保ち、何とか辛うじて枝にしがみつき事なきを得る。
カミーユも弾かれた様に声のした方を向く。
黒髪の、自分より少しばかり年長に見える男の子が、ジュドーを見上げていた。
睨むと言うより、悲しそうな顔をしている。手には、何か白い紐の様なものを持っていた。
顔を、何処かで見たことがあるような気がする。
「おっちゃだめだよ!」
ジュドーの真下まで駆け寄って声を上げる。
「なんで?」
ジュドーは体勢を立て直してぷうっと頬を膨らませた。綺麗な花をただカミーユにあげたいだけだ。止められる理由が分からない。
「きが、かわいそうだよ! おったら、いたいんだって!」
男の子は必死の顔で怒鳴る。
その勢いに気圧されて、ジュドーはもう一度伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「きがいたいの?」
「そうだよ! ガトーがいってたもん! きみだって、けがしたらいたいでしょ? それといっしょだから!」
ジュドーは下にいる男の子と、カミーユと、桜の花を代わる代わる見た。
ジュドーにも、この子供には見覚えがある。
「がとーって、がとーせんせい?」
「そうだよ! おったら、 けがしたところから、バイキンがはいって、びょうきになっちゃうんだって!」
「ほんと!?」
「ガトーがウソいうわけない!」
ジュドーもカミーユもガトーの顔は知っている。見るからに怖いが、先生が嘘を言うとは思えない。
見覚えがある気がしたのは、同じ保育園だからだろう。みんなで園庭に出ていれば、他の組の子供と会う事もいくらだってある。
ガトーはカミーユより一つ年上の位の担任だ。なら、この男の子はカミーユより一つ上なのだろう。確かに、身体が少し大きい。
「えっと……おにいさん、だれ?」
名前が分からないと呼びかけようがない。
「コウ! コウ・ウラキだよ! きみたちもロンド・ベルほいくえんだよね? かおみたことある」
コウは悠長に、にっこり笑ってカミーユに手を差し出した。
人見知りは激しいが、コウも懐っこくされては拒めもしない。恐る恐る手を取ると、ぎゅっと握り替えされぶんぶんと上下に振られる。
「あいつはジュドー。ぼくは、カミーユ」
カミーユが名乗った事で気が済んだのか手を離し、勢いよくジュドーへと手を振る。
「そっか。ジュドーくん!! おりておいでよ! みんなでみたほうがきれいだよ」
「ジュドー、ぼくはさくらなんかいらない! だから、おりてこい!」
カミーユはカミーユで木の上のジュドーを睨んだ。
ジュドーは身体を竦ませた。カミーユが怒っているのがよく分かる。
「さくらなんか……いらないから……」
桜がすぐに散ってしまう花だという事をカミーユは知っていた。そんな儚いものなどいらない。
ジュドーは何かというとカミーユに贈り物をしたがるが、カミーユは何一つ欲しいと思うものはなかった。ただ、差し出されるジュドーの手一つで構わないのだ。
「ごめんなさい、かみーゆさん。いま、いくね」
泣き出しそうなカミーユの顔が厭で、ジュドーは大人しく降りる事にする。
が。
ジュドーの顔が強張る。
気付けば随分上がってきてしまっていた。
桜の事とカミーユでいっぱいだった時には怖い者知らずだったのが、いざ降りようとすると枝がやけに撓う。
身動きが取れなくなって、ジュドーは恐る恐る下を見た。
「うわっ」
高い。
高い所が特別怖いわけではないが、落ちたら痛そうな事は分かる。下にいるのはお兄さん二人、とは言え、大人ではない。自分と大きく違いそうにも思えない。
「どうした、ジュドー?」
固まってしまったジュドーを不審気に見上げ、カミーユは首を傾げる。
「ジュドー?」
「…………こわいよぅ」
「え?」
「おりられないよ……」
「ジュドー!?」
カミーユは慌てて木に足をかけた。しかし、コウに引き留められる。
「カミーユまであがったらあぶないよ! ガトーよんでくるからまってて!!」
コウは手にしていた何かをポケットに突っ込み、走り出す。
カミーユ達がここに来たのと殆ど同じルートで、園へ戻っていった。公園側からだと足場が少なく、カミーユには登れそうになかった。
しかし、じっとしているのは性に合わない。
結局、意を決して木に登る。
「ジュドー! いってやるから、じっとしてろ!」
「かみーゆさぁん」
大きな緑色の目からぽろぽろと涙が溢れ出る。ずるずると鼻まで啜り始めたのを見て、カミーユは急いで登った。
ジュドーに登れたものがカミーユに出来ない筈もない。
同じ位置まで上がり、幹からの丁度分かれ目の所へ太い枝を跨いで座って、ジュドーへと手を伸ばす。
「ジュドー、だいじょうぶだから、こっちに!」
「かみーゆさん!」
必死で手を伸ばす。しかし、届かない。
枝が撓り、ジュドーは慌てて手を引っ込め枝にしがみついた。
「かみーゆさぁん……」
「なくな!」
枝に足先を引っ掛けながら、出来る限り身を乗り出してジュドーへ手を伸ばす。
自分の方が年上なのだから、ジュドーを助けなくてはいけない。自分が泣くならともかく、ジュドーの泣き顔は大嫌いだ。
「ジュドー!」
伸ばした指先がぷるぷると震えている。
カミーユが泣き出しそうに顔を歪めているのを見て、ジュドーももう一度、一生懸命手を伸ばした。
だがあと僅かが届かない。
「くそっ……」
指が宙を掻く。
「ジュドーっ」
「ん、っ……もーちょっと……」
身動ぐと、みしりと厭な音がする。
ジュドーは身を竦ませた。かなり、拙い。
「うっ、ひっく……」
「なくなってば!」
そろそろと枝の先へ向けて動く。
みしみしと枝が悲鳴を上げている。
「ジュドー、ほら!」
手を伸ばす。
漸く、二人の手が繋がる。カミーユは強くジュドーの手を引っ張った。
「っあ」
「えっ!?」
ぐらり、と身体が傾ぐ。
ジュドーを引っ張った事でカミーユは大きくバランスを崩した。
枝に引っかけた足で留まろうとするが、ジュドーと手を繋いでいては子供の力でどうする事も出来ない。
それでも必死でジュドーを引き寄せる。
護らなければいけない。せめて、ジュドーの事だけは。
「あ、っうぁぁぁあああ!!」
落ちる。
覚悟を決めて強く目を瞑った。
「カミーユ! ジュドー!!」
すぐに近付くと思った地面に触れる前に、何かにぶつかる。
地面よりは少しだけ柔らかく、痛みがない。
恐る恐る目を開ける。赤茶色の髪が、視界に入った。
「…………え?」
「カミーユ! ジュドー!」
「…………アムロ……せんせい……?」
「二人とも怪我は!?」
いつになく険しく睨まれて、二人は身を竦めた。
しかし、すぐに緊張からの解放と安堵に襲われる。
「うっ……うえええええええぇぇぇぇええええん」
「うわぁぁぁぁああああああ」
揃って、大声を上げて泣き出してしまう。
アムロが来なかったらどうなっていただろう。
「どうして黙って園を抜けたりしたんだ! こんな危ない事までして!!」
アムロがこんなに怒ったところなど見た事がない。
思わず萎縮してしまう程の迫力があった。二人は泣き止む事も出来ない。
「……レイ先生……そろそろ、構わないだろうか……」
泣き続ける二人を睨んだままのアムロの下から、低い声が遠慮がちに掛かる。
「すみません、ガトー先生」
ジュドーの下にカミーユ、その二人を受け止めたアムロ。そしてその更に下にガトーと折り重なっている。
アムロは二人を抱き上げたまま身体を浮かせ、ガトーの上から離れた。
さすがに子供二人の落下を受け止める衝撃は並ではない。一足早く辿り着いたアムロが二人を受け、受け止めきれずに倒れかけたアムロを少し遅れたガトーが抱き止めたがそのまま下に尻をついたのだった。
ガトーよりは、アムロの方が身軽な分幾分素早い。
「無事か」
「怪我はない? 何処も痛くない?」
泣きながら頷く二人にほっと息を吐く。
「本当に……まったく…………」
アムロも余程泣き出しそうだ。
ガトーは困って桜を見上げた。
その足へ、何かが全力でぶつかってくる。
「だいじょうぶだった!?」
「コウ! いきなり人に飛びついてはならんと何度言えば分かるのだ、お前は」
とは言えコウのお手柄でもある。
大慌てで園へ戻ってきたコウが一生懸命に伝えなければ、アムロもガトーも間に合わなかった。
「よかったー!」
「良くないぞ、コウ! お前も、何故勝手に園を抜けた!」
「う……ごめんなさい……。だって、さくらのきに、ごめんなさいしたかったんだもん」
ごそごそとポケットから件の白いものを取り出す。
それは、一巻きの包帯だった。
「おけがしたのかわいそうだから、ごめんなさいして、おっちゃったところに、ほうたいしなくちゃって!」
「何故私に一言言わなかった」
「……ごめんなさぁい」
ガトーもコウを抱き上げる。
「……何処だ?」
「なぁに?」
「お前が折った所は、何処だ」
「えと、あそこー!」
少し上の方の枝を指差す。
ガトーはコウを肩の上へと担ぎ上げた。
「よく謝るんだぞ」
「うん! さくらさん、ごめんなさい!! いたかったよね」
手を伸ばす。まだ生々しい折れ痕のある枝に触れた。
ガトーに手伝わせながら、不器用な手付きで包帯を巻く。そんなものが効果を持つわけがないが、ガトーも口は挟まない。
後で殺菌剤と養生テープで保護し直せばいい事だ。
「さくらが生きている事は、分かったな」
「うん! もうやらない!!」
「よし。では、園に戻るぞ。そろそろお前も迎えが来るだろう」
「はぁい!」
「……どうして、こんな危ない事をしたんだ?」
少し落ち着いて、アムロは二人と目線を合わせながら尋ねる。
ジュドーを追いかけただけのカミーユには答える言葉がない。ただ萎縮して俯いてしまう。
「おはながきれいだったの!」
カミーユより先に泣き止んで、ジュドーは桜を見上げた。
「このお花は、保育園にも咲いてるでしょう?」
「だって、おはなのところまでいけるんだよ」
「そうだね。だけど……一人じゃ駄目だろう?」
「かみーゆさんといっしょだもん!」
「先生に言ってくれたら、危なくなかったんだよ」
アムロの顔が怖い。ジュドーは少し首を竦めた。
その表情は余りに憎めず、アムロもあまり怒れなくなる。
二人を抱えたまま、まだ蔓だけの藤棚の下にあるベンチに座った。片膝ずつに二人を乗せる。
「危ない事はしないって、先生とお約束出来るかな? 木登りは、大人の人がいる時じゃないとしちゃ駄目だよ」
二人の頭を抱き、顔を擦り寄せる。
子供特有の暖かさに安堵する。生きていてくれて良かった。
「ごめんなさい、せんせい……おやくそく、できます」
カミーユも自らアムロへと頭を押しつける。
ジュドーを守れたしアムロも来てくれた。カミーユはそれだけで満足だ。
「ジュドーも、いいね」
「はぁい! ごめんなさい!! かみーゆさん、ごめんね」
自分の所為でカミーユまで危なかったという事と、自分だけではなくカミーユまで叱られる事になってしまったのを反省する。
「…………いい。おまえがだいじょうぶだったから……」
ジュドーに手を伸ばして、繋ぐ。
「ぼくは、なんにもいらない。これだけでいいんだから。おはなも、きれいないしも、なんにもいらないから」
ただジュドーの手を握る。
守れて良かった。ジュドーと手を繋げて本当に良かった。
カミーユの態度と言葉を聞いて、アムロも状況を悟る。
「ジュドーは、カミーユにこのお花をプレゼントしたかったの?」
「うんっ! きれーだもん! あのね、にゅーえんしきのときにね、かみーゆさんとこのおはながいっしょになっててね」
「そっかぁ……そうだね。それは、綺麗だっただろうね」
男の子とは言え、カミーユの美貌に花はよく似合う。何処か儚げな風情も、桜に似合うのかも知れない。
「下から見るので十分に綺麗だよ。ジュドー達が登っちゃったら、桜さんも重いでしょう?」
「はぁい……」
少し口を尖らせるが、何とか納得した様だった。
「ジュドーはもうお迎えが来るでしょう? 保育園に戻って、お迎えが来るまでお部屋で一緒に桜を見ようね」
「はーい!」
ジュドーはカミーユと繋がっていない方の手を勢いよく振り上げた。
カミーユはただジュドーの手を強く握り続ける。
アムロは目を細めてその様子を眺めていたが、そのうちに二人を抱き上げて公園を後にした。
柔らかな風に、花弁が幾重にも舞っていた。
終
作 蒼下 綸