事は、動き始めた。
 通信兵が下がり一人きりになったのを見届けて、デラーズは立ち上がり、段下に降りて膝をついた。
 胸に手を当て、椅子の後ろの胸像を見上げる。

 雌伏三年。
 かの方が亡くなって、もう三年も経つのか、まだ三年にしかならないのか……。
 生きていたら、この状況をどの様に見ただろう。遠く、果てのない宇宙の片隅に追い遣られた、真に宇宙を憂うもの達が、ギレンの意志を継いで再び立ち上がる。
 この胸にはギレンの声も、視線も、纏う空気も、全てを記憶している。

 皮膚が薄く、透けた静脈が白い肌を青白く見せていた。
 触れられることにも敏感で、初心で無垢だった。
 この手にも忘れることができない。

 この指で髪を梳いた。
 この手で頬に触れた。
 この腕に抱き、
 この唇に許しを得た。

 強く拳を握り締める。

 いつまでもその傍に仕えていたかった。
 それが叶わぬまま、志半ばにしてギレンは亡くなった。
 この一事を成し遂げなければ、合わせる顔もない。

 まだ志を同じくする者達は方々に生き残っている。その者達の為にも、後方にいるアクシズの為にも、道を示さねばならない。ギレンが示したのと同じ、宇宙に住まうもの全ての代弁として。

 一頻り祈りを捧げ、それでもまだ誰も来ないのを知って立ち上がる。 
 椅子を通り越し、その後ろの胸像へ寄った。チーフを取り出し、恭しくその頬や目元を拭う。日々磨き上げられて塵一つ付いてはいないが、どれ程磨いても磨き足りることはない。
 漸く、生き恥を晒すだけの日々から解放される。
 ギレンへ何も報いる事の出来ぬまま死ぬことは出来なかった。恥辱に耐え今日まで生きてきたのは、他でもないギレンの為、そしてギレンが目した公国の為だ。
 これでまたギレンの側に居ることを許されるなら、至上の喜びだった。
 再び御前に額ずき、台座に額を押し当てる。
 ひやりとしていたがそのうちに熱が移り、次第に温もりを帯びてくる。
 ギレンのようだ。触れてこそ分かる、この熱の孕み。

「閣下、地球から通信が入りました! ……閣下?」
「ここだ。何事か」
 不意に開いた扉に、デラーズは我に返った。立ち上がり、兵の姿を認める。余り見られたい姿ではない。導く立場の者が、何かに縋る姿など。
「HLVの発射成功とのことです。ガトー少佐がお戻りになります! しかしながら……キンバライト基地は全面降伏。ビッター中将は戦死なされました」
「……うむ……」
 ギレンに似た銀髪の、精悍な青年の姿を思い描きデラーズは深い笑みを浮かべて頷いた。 
 彼ならば必ずや生きて戻り、ことを完遂してのけると信じていた。
 否。彼の力がなければ、全ては水泡と帰す。頼りすぎている感は否めないが、ただでさえ少ない残存兵のうち、最も優れた人材であることは言うを待たない。
 あの日、ギレンが身罷った日に預かった命は、まだ返していない。まだ死なせるわけにはいかないのだ。

「後は着艦を待つばかりか。……ガトーを迎える用意は整っているな」
「はい、閣下。ガトー少佐がいらっしゃれば、士気も一段と高まります。皆心待ちにしていますからね」
「華美にはならぬようにな。あれは、そういったものを好まない」
「気をつけるように通達します」
 もうじきに帰ってくる事が皆の士気をじわじわと高め、艦内全体が浮き足立っているようにも見えた。デラーズとて同じ事だ。ガトーの戻りは喜ばしく、また待ち遠しい。
 唯一残された、二つ名付きのエースパイロットだ。さもあろう。
 それだけではなく、デラーズから見てガトーは大層美しい男だった。 
 顔立ちは端整ではあるが美しいと表せられることはそうないだろう。ただ、その性質、思考、内面の全てが美しい。
 真っ直ぐで歪みがなく、力強い。青竹のように撓やかで、初々しさを未だ失わずにいるのは希有なことだ。自然衆目を集めることになるが、本人は至って質実剛健で浮ついた話の一つもなかった。
 ガルマが慕い、ドズルに重用され、ついにはギレンにまで見出された男だ。全てが成った暁には、デラーズ自身の後継にも相応しかろう。今現在最も目を掛けていると言っても過言ではない。その清廉で潔癖な性分が何より愛おしい。

「閣下。…………閣下」
 悦に入り掛けていたものを引き戻され、取り繕って掌で顔を一撫でする。
「……何だ」
「シーマ艦隊からも伝達が入っています。予定時刻に若干遅れると」
「……シーマめ……足元を見おって。出来るだけ急ぐように伝えろ」
「畏まりました」
「以上か」
「はい」
 ガトーはシーマを嫌っている。着艦時にかち合わぬ方がいい。
 さもあろう。ガトーとは対極にいる女だ。だが、今は手が欲しい。ガトーを穢さぬためにも、汚れ仕事を引き受ける者は必要なのだ。
 ガトーには表だって大義を述べ、ギレンの意志を清く、正しく伝える人間でいて欲しいという願望があった。美しく磨き上げたジオンという館の表。その鼠が這い、蜘蛛の巣の張る裏口は、他が担えばよい。
「ガトーが戻り次第、予定通りに我が君の意志を地球へ伝える。用意を急がせよ」
「はいっ!」
 通信兵の背がすっと伸びる。軍靴の踵を合わせる音も、常より硬く、強く響く。
 皆、この日の為に堪えてきたのだ。
 デラーズは大きく頷き、急ぎ退室する兵を見送った。

 扉が閉まるのを見届け、もう一度胸像を振り返る。
 それから暫く、やはり、目を逸らすことは出来なかった。


作  蒼下 綸

戻る