リモコンのボタンを押す度、壁のスクリーンに映し出される画像が変わる。
 窓の代わりのそれは、大体が環境イメージで、宇宙、地上から見る空、夕焼け、森、海、とそれぞれにひどく美しい。
 部屋の明かりは付けずに、ただ気に入った景色を求めて次々に変えていく。

 宇宙。
 空。 
 夕焼け。
 海。
 街の夜景。
 月光の海。
 都会の喧噪。
 朝焼け。
 コロニー。

 淹れてきたコーヒーを一口啜り、また画像が変わる。

 湖。
 砂漠。
 熱帯林。
 滝。
 大地。
 森。
 山。
 前世紀の町並み。
 大河。
 遺跡。
 そして、宇宙。

 コーヒーのアロマが心地いい。
 戦艦内では勿論、そう上質なものではないが、淹れたてならそれなりを楽しめる。
 リモコンにある別のスイッチを押すと、室内に音楽が流れ始める。
 ヴァイオリンの澄んだ、美しい音色。

 美しい景色を見て、美しい音を聞いて、いい香りを嗅いで。
 それでも指先は冷たく、コーヒーカップの熱に火傷をしそうだった。
 部屋にいるのが何処か苦痛でこんな所に籠もっている自分に笑えてくる。
 ブリッジやデッキに行けば人がいるのは分かっているが、それもまた少し気分が違う。
 レコアやカミーユの下へ忍んでも良かったが、それもまた、煩わしかった。

 宇宙の映像を眺める。それは、少しずつ動いていた。
 固定画像ではないのは、それが艦外カメラの映像だからだ。もう一つボタンを押すと、それは部屋全体に広がる。壁も、床も、全てが宇宙になり、テーブルセットはその微かな光と闇を弾いて同じ色に染まった。
 深く息を吐く。呼気すらコーヒーの香りに満たされ、心地がいい。
 うとうとと、何となくの睡魔がやってくる。
 自室や自分のベッドはどうも寝付きが悪い。
 シーツの肌寒さが嫌いだった。
 カップを置き、腕を組む。
 スクリーングラスをテーブルに置き、目を閉じた。
 ただ、宇宙の感覚と、音と、香りに意識を任せる。


 談話室にロックがかかっていることが気になり、休息のついでに様子を見に来た。そのつもりだった。
 艦長権限でロックを解除し中に入ると、薄暗い中にも分かる豪奢な金の頭が見えた。
 優しい音楽が流れ、コーヒーのいい香りがする。
 中に入り、つい再びロックを掛けた。

 近寄ってみても反応がない。
 様子を伺うと、眠っている様だった。
 部屋があるというのに、こんな所で。
 毛布か何かでも取ってこようと踵を返しかける、と。
 手が取られた。

「……起きていたんですか。こんな所で寝て貰っては困る」
「………………艦長直々とはな」
 珍しく、声が何処か茫洋としている。寝ていたのは確かなのだろう。眠りが浅いだけで。
「この部屋へは滅多なことでロックなど掛けない。何かあったのかと思うでしょう」
「景色を見たかったのだよ、美しい……」
「窓の外でも見ればいい。こんな、宇宙の画像にするなら」
「初めはそんなつもりなどなかったのだがね」
 手が引き寄せられる。
 ブライトは、仕方なく男の隣に座った。

「何故こんな所で」
「あまり、部屋を好きになれないものでね」
「しかし、よく休んで貰わなくては困る」
「分かっている。だから、その為の措置だ」
「貴方の部屋の壁と天井をスクリーンにすれば、部屋で眠って貰えるということか?」
「……どうかな。それは……貴方次第かも知れない」
 薄い唇を綺麗な形に微笑ませてブライトを見る。まだ、手は取られたままだった。
 薄暗い光に、瞳が濃く見えた。
「クワトロ大尉?」
「この曲を知っているか?」
「このヴァイオリンか? タイスの瞑想曲だな」
「ああ。君は学が深くていい。では、タイスとは?」
「それは……歌劇だという程しか」
「そうか」
「どんなストーリーなのです」
「タイスは娼婦だ。彼女に惚れた修道士が彼女を改心させ様とするが、反対に修道士は彼女を愛し、人の道に堕ちる。だが、その告白をしようとした頃には、既に彼女は信仰に目覚め、さらには死の淵に貧していた。タイスは神の元に召され、修道士は打ち拉がれる」
「…………とんだ話だ」
 他にどういえばいいのか分からない。
 半舷休息中で人気のない談話室に男二人。曲だけを聴いている分には構わないが、そんな話を聞いてしまっても困るだけである。
「私は、タイスにはなれそうもない」
「……何故貴方が自分をその女性に重ねるのです」
 全く意味が分からない。
「君は修道士になってくれるだろうか」
「……………………は?」
 本当に、全く、意味が分からない。

 クワトロは半身を翻すと膝をソファに上げ、ブライトに覆い被さった。
 手は、掴んだままに。
「何なんです、一体」
 眉を寄せてクワトロを見る。
「じっとしていてくれ」
「なっ……っ…………」
 美しい顔が近付く。
 手は指を絡め取られ、ソファへ押しつけられる。
 唇が触れた。
「……っ…………」
 無理に唇をこじ開け、中へ入り込む。
 逃れて言葉を紡ごうと開いたそこへ更に深く舌が絡む。コーヒーの香ばしい香りがした。
 取られていない手で引き離そうとすると、それをどうにかする前に、クワトロの腕が身体へと回された。
 縋る様に。
「く……っ……ふ…………」
 妻とも、こんな荒々しく激しい口接などしたことがない。
 嫌悪感より、困惑が先に立つ。
 ……そう言えば、嫌悪感は薄い。顔の美醜というものは、性別よりも大きな壁だったのだろうか。
 ただ、背に感じる手の感触が、ブライトの抵抗を諦めさせていた。
「ぅん……っ…………」
 息継ぎのタイミングが分からず、苦しくなってくる。
 空いてしまっていた手でクワトロの背を何度か叩く。
 暫くして気が済んだのか、漸く解放された。

「っ……は…………っあ…………」
「誘われてくれないか。私に」
「んな……何を言って……っく……」
 撓やかな指がスラックスのファスナーを下げ、中に入り込んでくる。身を捩ったが、クワトロの方が体格に優れている。上手く行かない。
「大尉! わ、私には、妻がっ!!」
「分かっている。だが、これは浮気などには入らない。そうだろう? 貴方は、目を閉じてくれていたら、それで構わない」
 今度は軽く口付けられる。
「……何をする気です」
 厭な予感がして軽く睨むと、クワトロは綺麗に微笑んだ。
 指を絡めたブライトの手を、自分の胸元まで導き、押しつける。
「私は、神の教えを知る前のタイスだ。貴方は修道士。私に……罪を教えてくれ」
「……共に罪に堕ちるだけだ。これでは」
「共にか。…………いいな、それも」
 瞳が本当に楽しげに笑う。
 ブライトは目眩を覚えた。
「…………私はごめん被る。貴方には、もっと別のものがあるでしょう。私に妻がある様に」
「……それは、まだ無理だな。私の側から去った者。私の側にいてくれない者。そんなものだ……」
 再び、深い口付けを求められる。
 舌を噛んで逃れればいい。そう思っても、何処か不安定なクワトロの心情が移ったのか、突き放せなかった。
 この男は、こんなにも脆かっただろうか。

 手際の良すぎる指が服を脱がせていく。
 首筋に触れる柔らかな髪が心地よかった。
 クワトロは既に自身の服を殆ど床へ落としてしまっている。何がしたいのか、漸く求められている役割を知った。
 ……本当に、意味が理解できない。

「…………貴方は、何を考えている」
「まだ少し寝惚けている。そう取ってくれていい」
「口を出す気はなかったが……それなら、レコア少尉の所へでも行って慰めて貰え」
「馬鹿を言うな。彼女は、女だ」
「貴方は、男でしょう!」
「…………どうかな。確固たる自信は、ないよ」
 クワトロは床へ身体を落とし、目前に来る寛げたスラックスの中からブライトのモノを取り出すと躊躇いもなく口に含む。
「っ、くっ……」
 思わず髪を掴んだ。
 しかし、クワトロはやんわりとそれをいなす。
 くちくちと濡れた音が淫らがましい。
 妻にもされたことのない行為だ。妻とは、本当に、ごく普通の営みしか経験がない。
「……大尉…………っ…………」
 手指と舌と。口全体を使って、丁寧な愛撫が施される。上手い。
 ひどく手慣れた感じがして、余計に不愉快になる。
 嫌悪感はやはり何処か薄いが、クワトロが男の股間に顔を埋めているというのがどうしようもなく苛立たしかった。
 逞しい肩や背はこの薄闇の中で妖しい程皓い。無数の傷跡がその肌にうっすらと残っていた。程度や形から、それが戦場で負ったものではない事に気付く。
 女のものではあり得ない、しかし、男らしいのともまた異なる妙な色香が漂っていた。
 熱が蟠り、昂ぶっていくのが分かる。雄の誘惑には、抗い難かった。
 性格と立場が邪魔をして、大した発散を出来ないでいる所へ、この刺激は強過ぎる。
「止めて下さい、大尉!」
 意を決して、強く髪を引っ張り引き離す。
 顔が上げられ、壮絶な瞳で睨み返された。
 美しい、猛獣の様な、瞳。
 唾液と淫液に濡れた唇を舌先で舐め、挑発する様にブライトを睨む。
 スクリーンの星々が映り込んだ瞳が欲情しているのが分かる。

「…………そんな目をして…………貴方は、どうして」
「……分かるものか。自分にもな…………」
 床へ尻をつき、クワトロは俯く。
「何を考えているんです」
「分からないよ。だから、安定感のあるものを求めたくなるのだろう」
「その……他の人間や、手段ではいけないのか」
「欲しくない。……まあ、艦長も、微妙だが」
「微妙なら、止めろ、こんな事」
 嫌悪というより諭す様に言われ、クワトロは顔を上げた。
 ブライトは困惑を隠せないままクワトロを見下ろしている。
 いい男だ。クワトロは、微笑みを隠せず口角を上げた。
「他にいない」
「女では、駄目なのか。寄港の度にそういう店へくらい、行くだろう?」
「そういう店の女ならばともかく、他に女は要らない。求められるのは、困る」
「逃げているだけじゃないのか、そういうのは」
「……そうだな。それは、確かにあるかも知れない」
「貴方ともあろう人が」
「…………私はね、弱い人間なのだ。困ることを言わないでくれ」
「…………まったく……貴方という人は…………」
 この視線の位置が落ち着かず、ブライトも中途半端な格好のまま床へ降りる。
 仕方なく、クワトロの身体に手を回して抱き寄せた。
「落ち着くまで、ここにいればいい。私は戻る」
「……そのままで?」
 手が伸び、再び股間を弄う。ブライトは思わず身を竦ませた。
 先の熱は続き、萎えは見せていない。
「処理くらい、自分で出来る。手を離してくれ」
「手よりずっと深い。直ぐに済む」

 テーブルとソファに挟まれた空間は狭く、ブライトは逃れられなかった。急所を押さえられてしまっては尚更だ。
 身を屈めたクワトロの唇が立ち上がった茎を包んでいる。
「ぅ……っ……」
 ねっとりと絡みつく舌は、これまで経験のない感覚を齎す。ブライトの雄は、妻以外を知らないし、知りたいともそう思わなかった。
 抗い難い衝動が突き上げてくる。
 それが分かったのだろう。一際強く先端を啜り上げられ、促す様に指が強く幹を擦った。
「く、っふ……ぅ……」
 視界が一瞬白く弾ける。
「はっ…………ぁ…………」
 荒く上がった呼吸を整える。しかし、クワトロは顔を上げない。
「……大尉…………すまない、その……」
 肩が微かに震え、口元を拭いながら顔が上げられる。
 まだ僅かに唇が濡れ、それが白く濁っているのが堪らなく淫らだ。
「大尉…………」
「……本当に、謹厳なのだな。奥方以外には食指も動かないか」
「は……はぁ…………」
「随分と濃い。溜まっていたのだな」
「…………もういいだろう、私を嬲るのは」
 もうこれ以上は勘弁被る。
 クワトロを無理に押し退けて、そそくさとスラックスを整えた。

「修道士。私を改心させてくれ」
「……そして私一人罪に堕ちるのか。勘弁してくれ」
「共に堕ちてくれるなら、それでもいい」
「ぞっとしないな、それは。私にはもう別に相手がいるのだから。彼女を裏切る様な真似はしたくないし、出来ない」
 ポケットからハンカチを出して差し出すと、クワトロは軽く口元を拭った。
「私の修道士。貴方が私に付き合わないなら、艦内で他に相手を求めることになる。……女以外で」
 挑発している。それが分かって、ブライトは眉を顰め大きく溜息を吐いた。
「艦内の風紀を乱す行為は慎んで貰いたい。士気にも関わるし、貴方の指揮にも支障を来すだろう」
 これ以上は付き合っていられない。ブライトは立ち上がろうとした。
 そこを、空かさず後ろから抱き締められる。
 縋る様に。

「……謹厳な修道士。私は、赦しを請えぬ人間だろうか」
「いいえ。改心したいなら、そのタイスという女の様に瞑想でも耽ってみてはどうです。神は貴方に微笑むかも知れない」
「今は……無理だろうな」
「貴方は戦う道を選んでいるのだから仕方のないことだ。同じく人を殺している私だって、貴方に赦しを与えられる立場にはない」
 身体に回されている手に触れる。
 引き離す様にして、その指の背に口付けた。
「…………そういう意味でなら、共に堕ちても構わない」
「ああ…………」
 クワトロは、漸く腕の力を抜いてブライトを解放した。
 その肩へ、脱ぎ散らかされた上着を掛けてやる。クワトロは意外そうな目でブライトを見上げる。
 美しかった。
 半裸で、誘惑にも失敗して、それでも尚。
 ブライトは余計にこの男の事が分からなくなる。
「シャア・アズナブル。貴方は……」
「その名で呼ばれたくはないな。敵対している気分になる」
「クワトロ大尉。貴方は、どうしたいんです」
「どう……とは?」
「私の前で服を脱ぎ散らかされても、本当に困るんですが」
「………………………………そう、だな」
 実に妙な顔になってブライトを見る。
 ブライトも、困惑したままクワトロを見下ろす。
「…………そうか。私は失敗したのだな」
「何にです」
「艦長を誘惑する事に」
「……男に言い寄られて喜ぶ趣味はない」
「だが、悪くはなかっただろう? 反応は、した」
 楽しそうに笑う。
「これくらいの相手はして貰いたいな。そうでなければ、他を探すしかない。それは、困るのだろう?」
「ですから、寄港地で存分に発散させてきて欲しいんですが」
「腕が欲しいのだよ。こういう、腕が」
 ブライトの手を取り、その手首の内側へと唇を押し当てる。ちりりとした痛みともつかぬ感覚が走った。
「っ……何を……」

「抱き締めてくれ。そうすれば、部屋で眠る」

 極めてさらりと発せられた声が、ブライトの耳奥には痛切な響きを持って残る。
 漸く分かる。
 クワロトが求めているものは、確かに、この艦の中では自分にしか与えてやれないものなのだろう。
 何せ、妻子持ちはウォンを除いて自分しかいない。そして、ウォンの性格からして、クワトロを抱き締めてやる事など出来ないだろう。

「…………初めから、そう言ってくれればいいのに。ここへ座って下さい」
 取られていた手でクワトロの腕を掴み、ソファへ座らせる。半ば膝へ抱え上げる様にして、抱き締めた。
 ブライトより体格に勝るが、それは仕方がない。少し重く腕にも余るが、これ程の事、してあげられないわけではない。
「……艦長……?」
 クワトロの声が揺れている。
「寝付ける程落ち着いたら、言って下さい。……大体、貴方は回りくどいから良くないのだと思う。一つの言葉を言うにも、遠回りをし過ぎる」
 窘める様に言われて、クワトロは片眉を上げた。
「……叱られているのか、私は」
 様子が嬉しそうなもので、思わず呆れて溜息が洩れた。叱られて喜ぶ大人がいるだろうか。
 屈折している。
「そうだ。叱られたいのなら……抱き締められたいのなら、初めからそう素直に言えばいいだけの事なのに。無理に大人びて振る舞おうとするから齟齬が出て、タイスなんて娼婦の話まで持ち出す」
「タイスは初め修道士を嘲笑う。しかし、改心の後には、その修道士あったればこそ神の道を知る事が出来た事に感謝する。……私の人生にも、艦長の様に謹厳極まりない修道士が幾人かいた。だが、皆私より先に死んだ。私の改心を待たずにな」
「私は死なない。少なくとも、貴方より先には」
「ああ…………私も、私が死ぬより先に戻る場所がなくなるのは、困る。守ってみせる」
 密接した身体。クワトロのトワレはいい香りがする。
 柔らかな髪が頬に触れていた。
 見合わせられる顔は美しく、この世のものではないかの様だ。

「困った人だ。……本当に、質が悪い」
「自覚はある。だから、赦しが欲しいと言っている」
 首筋に細い髪が絡む。擦り寄っているのだろう。
 甘え方の一つも知らない。まったく、この艦にはそんな飢えた子供が多い。父親は自分一人しかいないというのに。
「……子守歌でも歌いましょうか」
「いいな、それも」
 指先で髪を梳く。クワトロは、心地よさそうに目を細めた。
 そんな顔をされては本当に邪険にする事も出来ず、ブライトは髪を撫で続ける。

 部屋に流れる曲は、程なく別のものに変えられた。


作  蒼下 綸

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