帰って来た時には、何もかもが遅かった。
一年前のことでは、船に地球からの通信なんて届かない。木星はあまりに遠かった。
地球圏に戻り地球に到着するまでの間、貪るようにディスプレイに映し出される地球の、そして地球圏の近況を見て、涙が止まらなかった。
ハマーンが成し遂げられなかった……否、ジュドーを理解して取りやめてくれたことを、してしまった人物がいたのだ。
それは、直接に自分と関わりのある人ではなかったが、それでも、自分が守り、自分を守ってくれた人々の、本当に近くにいる人だった。
久々に降り立った地球の重力は酷く重くのし掛かってきたが、ジュドーには構っていられなかった。
仰いだ空は青く、高く澄んで。
五年前に見た空と、全く変わっていないようには思えたけれど。
空港に迎えに来てくれたのはブライトだった。偶然か、わざわざ申請したのか、休暇中だったらしい。
迎えに来てくれただけではなく、真っ先にリィナの所へ連れて行ってもくれたし、今、こうして……カミーユの所へも。
何処かに向かいながら会話を交わす。こんな雑談が出来るなんて、あり得ると思ったこともなかった。
ただ、ブライトと一緒にいるのは心地いい。
今は閑職に就いていると笑っていたけれど、ジュドーには分かってしまった。
やはり、この艦長だって辛い思いをしたのだ。
アムロとは一年戦争からの付き合いだったのだし、シャアとだって、ジュドーがアーガマに乗り込むほんの少し前まで一緒にいたらしいのだから。
第二次ネオジオン抗争のことを出来るだけさり気なく聞いたが、「結局俺には関わりのない戦いだったんだ」なんて嘯かれた。
ブライトの悔しげな表情が焼き付く。
関わりたかったけれど、関われなかった。その辛さ。
分からないではない。
ジュドーにだって、木星に行ってさえいなければ、関わる権利はあった筈なのだ。
しかし、その場でジュドーに言える言葉はなかった。逸らすように他愛もない会話をする。
「ジュドー、そうではないだろう?」
突然、ブライトはそう尋ねた。
意味が分からなくて、ジュドーは小首を傾げながらブライトの顔を凝視する。
「大丈夫。カミーユは、もう殆ど元通りだ」
「ブライトさん……」
「心配するな。だが……覚悟しておけよ。お前は知らないだろうが、あいつは口は悪いし切れるのも早い。頭の回転が速いから、尚更質が悪い。大人になって、少しはマシになったようだがな」
「綺麗な顔してたのにな」
「表現するのが苦手なんだろう。お前はすぐに顔に出るからな。分かり易くていい」
帰ってきてすぐに見せてくれたのと同じ、ひどく穏やかな微笑みを浮かべてタクシーの窓の外を見る。
それで、何となく気付いた。
ブライトにとってカミーユは自分と同じ。子供と同格なのだ。
ブライトの顔を見詰めたまま、少し顔を寄せる。
「何だ?」
「お疲れさまです」
ぺこり、と頭を下げる。
「全くだ。手の掛かる子供ばかりで疲れるよ」
にやり、という表情に、ジュドーもにやりと悪ガキの笑みを返した。
カミーユとファの住む家は、窓から海の見える高台にあった。風が少し強い。こぢんまりとした、けれども温かそうな家だった。
「いらっしゃい。ブライトさんもお久しぶりだけど、五年ぶりね、ジュドー…………本当に、大きくなったのねぇ…………」
玄関を開けたファは暫し立ち尽くし、頭の先から足の先まで、しげしげとジュドーを眺めた。
「久しぶり、ファさん。元気みたいで良かった」
元気のようだし、何より、大人びて美貌とスタイルに磨きが掛かっている。
「ジュドーもね。背、伸びたわね。私より低かったのに。ブライトさんより高いじゃない」
「男だもん。伸びるって」
「入って。甘いものは、まだ好き?」
「うん。好き」
「ケーキを焼いたの。ブライトさんも、入ってください」
「ああ」
「久しぶりですね、ブライトさん」
カミーユはテーブルに着いていたが、ブライトが部屋に入るなり立ち上がって、軽く握手を交わした。
しかし、ジュドーの方は一瞥しただけで、声の一つも掛けない。機嫌は悪くないように感じるが、あからさまに無視をされて、ジュドーは思わず自分の服装や髪を見直した。
五年前の時も綺麗な人だとは思ったが、更に磨きが掛かっている。少女めいて柔らかそうだった頬や唇はしっかり精悍な大人のものになっていたが、ジュドーと比べればかなり細身に見えた。
「座って。すぐに持ってくるから」
促されてテーブルに着くが、ジュドーはカミーユから遠いブライトの隣に座ることしか出来なかった。
ティータイムの間にも、カミーユは一度もジュドーと視線はおろか会話すら交わさなかった。
ファやブライトが話しかけてくれるし、そもそもがノリの良い質だから疎外感などを感じることはなかったが、それでも、何故そうまで自分を避けるのか不思議でならない。
あの時には、親身になって自分達を助けてくれたのに。
覚えていないのかも知れない。けれど、自分を気にしていることは分かる。それが、不快を示すのではないことも。
なら、何故……微かにでも視線が合うたび慌てたように顔を逸らし、眉間にしわを寄せるのか。
「ねぇ、カミーユさん」
様子を窺うだけなのは性に合わない。思い切って声を掛ける。カミーユはびくっと身体を震わせ、恐る恐るといった風に漸くジュドーを見た。
「俺のこと、分かる?」
「…………ああ…………何となく」
「二人だけで話したいんだけど、いい? 俺達、お互いのこと知ってる筈なのに、全然それが分からないから。どっちかって言うと、俺が一方的にカミーユさんのこと知ってるだけだと思うし」
「お前のことなんて……知らなくてもいい」
「俺がもっとあんたのこと知りたいんだ。駄目か?」
ジュドーは決して視線を反らすことはなかった。
「知ってるくせに」
「え?」
「何でもない。……そんなに話したいんなら、付き合ってやらなくもない」
「ありがと。じゃあ、これ、早く食べちゃわないとな」
そう言ってジュドーは満面の笑みを浮かべ、残りのケーキにフォークを突き立てた。
「…………話って?」
ダイニングにファとブライトを残し、通されたのはカミーユの自室だった。ファと眠る寝室とは別の、完全なプライベートルームだ。
椅子はカミーユものだけで、カミーユはそれを譲りもしなかった。ジュドーは所在なくドアに凭れる。
「あんたが見たことを知りたいんだ。その……一年前」
「ブライトさんの方が知ってるよ、そんなこと。実際現場で見て来てるんだから。それに……知ってどうする。過去は変わらない」
「ブライトさんからはもう聞いた。でも、俺はあんたから聞きたい。あんたにも俺にも、関わる権利はあった筈だと思うから。俺は記録でしか知らないけど、でも」
「なかったよ。そんなもの。……もう蒸し返さないでくれ」
「……俺が巻き込まれたこと、元はと言えば、カミーユさんが引きずり込んだからじゃん。責任取って」
「何だよ、それ」
「カミーユさんが俺の手を握らなかったら、そう、考えることだってあるんだ。俺だって」
軽くドアを蹴る。
「俺はハマーンと戦った。そのハマーンがしようとしてたこととそっくりなことをしようとした人がいて、それは、カミーユさんもブライトさんもよく知っている人で。スペースノイドがどうとか、小難しいこと言ってたけど、要はNTの為の世の中作りをしたかったって、」
「違う!!」
カミーユは勢いよく机に手を叩き付け、ジュドーを睨んだ。ここに来て、初めて感情が露わになる。
「…………びっくりした。違うのか? 記録ではそんな感じだったけど」
「…………ごめん。でも、あの人は、結局アムロさんが欲しかっただけだから。だから、俺達に入り込む隙も権利もなかったんだ。……だから、俺に話せることもない」
「アムロさん? あの?」
「知ってるのか?」
「そりゃ、名前くらいは」
「……そうだな。あの艦に乗っていれば、話題に上るか」
カミーユはふうっと軽く溜息を吐いて、椅子に座り直した。親指の爪を噛み始める。
「お前なら……分かるかもな。……………手を貸せ」
「? はい」
言われたとおり、近寄って手を差し出す。カミーユはその手を取り、そっと目を閉じた。
微かな交歓。自分の範囲が広がるように、大気が動いたような気がした。通常の視覚に、うっすらと宇宙が重なって見える。
「目を閉じて見ろ」
「うん…………」
カミーユが何をしたいのか分からない。しかし、ただし従う。
カミーユに習って、そっと目を閉じた。
「うわぁ…………」
広がるのは七色の美しい海だった。
否、空かも知れない。宇宙かも。
ただ、美しく、自分の全てに広がっている。瞼裏に移っているだけの光景の筈が、自分の四肢の先に至るまで、それに浸食されているような気分にすらなる。
そして、その中にはとても知った感覚が、いろいろと入り交じり、流れ、溶け込んでいるようだった。
たくさんのものに守られて、戦い抜いたあの時を、瞬時にして思い出す。
「あ…………」
「……お前も、これに守られたんだろう? ここが何処なのか、俺にもよく分からないけれど……あの人達も、多分ここにいる。ここは、俺達の居場所ではないけれど…………俺達は、ここに来ることが出来る。何処かを共有しているんだろうな、きっと…………」
「うん……」
他人のことを理解できたり、少しばかり感覚が鋭かったり。
それはきっと、ここにあるものが繋いでくれるからなのだろう。
ジュドーはそう理解した。
「あの二人を捜すのは野暮だから禁止だけど」
「野暮?」
意味が分からなくて尋ね返したが、カミーユは答えなかった。
「俺もここには滅多に来ないし、滅多に来られないから、まず何処にいるのかも分からないし。お前がいたら、絶対来られるとは思っていたけど」
「ここには、必ず来られるわけじゃないのか……」
「俺達には、今、必要のない場所だから」
「…………それって」
「俺達はもう戦ってはいないから。戦う相手もいないし。わざわざここに来る必要だって、ないだろう?」
カミーユは、遠くを見詰めながら微かに笑った。
「お前には分かるだろう? 今、戦ってでも理解し合わなくてはならない相手はいるか? 戦って改められる敵はいるか?」
「……分からない。でもその、シャアさんって人が怒っていた対象は、俺だって嫌いだと思うんだけど」
「連邦政府か? 軍か? 腹は立っても、俺達に直接迫ることじゃない。そんなのはあの人みたいに、人の上に立とうとする人がすればいいことだ」
カミーユはジュドーを振り返り、揺らぐことのない、けれども何処か紗のかかった瞳で見詰めてきた。
静かながらも何かに圧迫され、息苦しさすら覚える。
この人は…………何に苦しんでいるのだろう?
戦わなくていいと、今この人自身が言ったことの筈なのに。
「生きて、先へと命を繋ぐこと。守られた命を大切にすること。それから、戦わなくてすむ世界を知ること。…………俺達がするべきことはそれだけだ。それが、ここの人達の願いだから。ここの人達が見られなかったもの、感じられなかったものを、何処かを共有している俺達が見つけて、見せてやらなきゃいけない」
きゅっと薄い唇を引き結び、何かに堪えるように俯く。
「カミーユさん……」
繋いだままの手が冷たい。
「お前のこと、少しは分かるから……こんなことまで話してるんだろうな」
「分かる……の?」
「少しだけ。…………見つけられなかったんだな、ハマーンが望んで、でも違う手段のこと」
ジュドーは大きな目を、更に大きく見開いてカミーユを凝視した。
この人は確かに分かっているのだ。
「俺にも見つけられなかった。大尉が……シャアが、選べた筈の別の手段。でも……アムロさんが望んだこれからのことは、少しずつだけど、実現できる。お前も考えろ。何かを変えられなくても、何かを始めること。そうやって人の世は塗り替えられていくものだから」
「それが、時代が変わるってことなのか?」
「そうかも知れない。劇的にではなくても、繰り返しているうちに必ず変わる。濁った水の入ったバケツだって、新しい水を注ぎ込んでいけば、そのうち中は綺麗な水で埋まるだろう? 俺達は、その新しい水の一部になるんだ」
ひどく夢見がちなことを言っていたが、カミーユの表情は決して陶酔しているものではなく、むしろ引き結んだ唇もそのままに険しいものだった。
背負ったものの大きさが、手を通じてかジュドーにも伝わる。
二人…………シャアとアムロに、何かを託されたのか。
自分より幾分低い位置にある薄い肩を眺める。この双肩に……何を。
思わず、手を強く握り締める。
「お前…………お前だって、似たようなことを考えてるから、俺の所に来て話を聞こうとしたんじゃないのか?」
痛いくらいに握られた手を少し上げてみせる。
「分からない。でも、あんたには会わなくちゃいけないって、思ったんだ。だから」
「俺自身がお前に何か役立つことを言ってあげられるわけじゃない。大体、考えてることはそんなに変わらないんだしな」
「でも、ここに連れてきてくれた。ここの意味とか、俺のするべきこととかさ。凄く曖昧で見えにくかったものが、はっきりしてきた気がする。無駄じゃなかったよ」
「そっか……」
カミーユはまた少しだけ笑みを見せて、ジュドーの手を解いた。力強く握っていた筈が、案外簡単に解かれる。
途端に、虹の靄は掻き消えた。
一瞬視覚の揺らぎに惑い、軽い目眩を覚える。
「来いよ。地球を見せてやる」
「え?」
「いいから」
カミーユはジュドーの手を繋ぎ直し、引きずるようにして外に出た。
高台だと思ったそこは、崖の上だった。
この辺りの地方には砂浜などは殆どなく、海に面した土地は殆どが断崖絶壁となっていた。
その、落ちない範囲でぎりぎり端の方まで寄り、二人は立ち止まった。
「すっげぇ…………」
地球の様子など、五〜六年前の一時期に見たっきりだ。
ジュドーはその引き込まれそうな海と空の狭間で息を飲んで立ち尽くすしかなかった。
広大で、美しいと言うよりは恐ろしかった。海の方を向けば、そこにはただ海の深すぎる青と、空の陰りのある青しかなく、自分がひどく小さな存在だということが分かる。
「ハマーンも、シャアも、これを真面に見たことなかったんだ……」
「うん…………」
「シャアは地球の汚染がどうとかも言っていたけれど、地球という星にとっては、ほんの些細なことでしかない。ここに立って、この海や空を眺めれば、あの人だって……自分がどんなに卑小な存在なのか、分かった筈なのに。大言壮語を吐いて、結局成し遂げられなくて。本当に馬鹿だ」
足下に転がっていた小石を強く蹴って、崖の下へと落とす。
「そんな小さな俺達に出来ることなんて、地球だとか宇宙だとか、そんな大きなことじゃなくて、人としての範囲を越さないことだと思わないか?」
「…………だから、『先に命を繋ぐこと』なのか」
「そう、だと思う」
「思う……って、カミーユさんの言葉じゃないのか?」
「…………アムロさんの言葉だ。そして、俺は、あの人と約束した」
「…………カミーユさん…………」
ひたすら海を見詰めるカミーユの瞳が揺らいだ気がして、ジュドーは思わずカミーユを抱き締めた。
「……離せ」
「嫌だ。俺、あんたの泣き顔、見たくないもん」
「泣くかよ」
「嘘。絶対泣くって」
「……………………これだから、NTと話すのは嫌なんだよ」
そこで、カミーユは初めて真っ直ぐにジュドーの目を見た。溢れかけた涙は、それでもぎりぎりの所で零れ落ちはしなかった。
「その……二人に割って入れなかったこと、後悔してるの?」
「…………少しだけ。でも、俺にはファがいてくれたから」
「そうだね。……結婚とか、しないの?」
「……………………籍は入れてるよ。それに……来年には家族が増える。だから、割り込めなくて良かったのかも知れない。アムロさんとの約束も、守れるし。きっと、これが、俺の為すべきことだったんだって、やっと思えるようになったから」
「え? ええと……それって」
家族が増える。と、いうことは。
「『先に命を繋ぐこと』、だろ」
カミーユの声が本当に優しくなったのを聞いて、抱き締める腕を緩める。
「おめでとう!!」
「まだこれからだけどな」
「……そうやって、新しい命が始まって、どんどん繋がっていって……それがバケツに溜まる新しい水になって、全てが変わっていくのか」
「きっと、な」
カミーユの表情が綻ぶ。
今までに見たどの表情より、それは本当に美しくて、ジュドーも釣られて微笑みを零した。
「また、木星に行くのか?」
「うん…………遠すぎるけど……遠すぎる所だからこそ、いろいろ考えることも出来たし。ここの景色も凄いけど、宇宙からっていうのも、もっと周りが見えるよ。政府のお偉いさん達も、一回地球から離れてみればいいのに。自分達がどんなちっぽけなコトしてるのか、嫌でもよく分かるのにさ」
「そうだな…………。帰ってきたら、また会ってやってもいい」
「素直じゃないなぁ……。またおいで、くらい言ってくれたっていいのに」
「そんなこと言ったら、お前、居座りそうだからな」
「あ、ひどい」
帰路につき、姿が家の窓からも確認できるようになった頃、窓から外を見ていたファとブライトは顔を見合わせて微笑んだ。
「カミーユが笑うところなんて、久しぶりに見たわ……ジュドーって不思議ね」
「ああ……だが、悪いことではない。良かったな、ファ」
「ええ、本当に…………」
──終──
作 蒼下 綸