「何を考えているんですか?」
 白い薔薇に埋め尽くされた寝室に一歩入るなり、女は呆れた声を上げた。
 馬鹿なロマンチストだとは思っていたが、ここまでくると呆れ果てる他ない。

「美しいだろう? 香りもいい」
「そういう問題ではありません。大体、こんな持たないものに散財する余裕があるなら、」
「君には赤い薔薇の方がよかったかな」
「色は関係ありません」
「花は嫌いか?」
「好き嫌いの問題でもありません。後片付けだって、誰がするんです。直ぐに朽ちてしまうのに」
「人を雇えばいいだろう」
「雇用は確かに全く足りていないけれど、一日だけ雇用したところで意味なんてありません。……分かっているのに、無駄なことを」
「怒っている顔も可愛いな、君は」
「……そう言って誤魔化すつもりでしょう」
「私は事実を言っているまでだ。ほら、おいで」
「……もう……っ、痛っ」
 伸ばされた手に手を重ね、一歩踏み出す。薔薇は避けようもない。スリッパで踏みつけると、足に鋭い痛みが走った。
「ああ、気をつけたまえ。棘は落としていない」
 棘の先が踵を掠め、僅かに血が滲んでくる。
 その痛みより男の馬鹿げた夢に心底呆れて、男の手を振り払う。
 ここが女を抱きたい部屋の筈がない。抱きたいのは女ではない筈だ。こんな部屋。

「……機嫌が悪いな。明日は買い物にでも行くかい?」
「欲しいものなんてないわ。貴方が作って下さる世界以外に」
「その為に今準備をしている」
「そして疲れて私の胸で眠る……分かっているわ」
「気が乗らない様だな」
「貴方もそうでしょう?」
「君の為に飾ったのだがな」
「馬鹿なことをおっしゃらないで下さい。……別の人間を寄越します。この部屋で寝るのは、私ではありませんから」
「次は赤い薔薇を用意しておく」
「期待していませんわ。では、明日。0600にモーニングコールをします。0630の朝食時から、面会の予定が入っています。今夜は程々に。よろしいですね」
「……君は本当に優秀な秘書だよ。明日は百合にしよう。白百合だ。それならいいだろう」
「同じことです。もう失礼します。貴方の相手は他の人に任せますから」

「……それで、何で俺なんだよ」
「貴方しかいないでしょう。大佐を慰められるのは」
「あんたで十分じゃないのか」
 傍目にはいいパートナーに見える女を睨む。大体、自分は男で大佐も男だ。寝床を共にしたところで面白くもない。それは女の役割の筈だ。
 生きる為にまあ、経験がないでもないし、これまでにも何度か大佐のベッドに入ったことはあるが、やはり違和感は拭えない。
「あんたで駄目なら、俺だって駄目だと思うんだけど」
「大佐が駄目なのではないわ。……いいから、大佐を待たせないで」
「あんたが厭なのか? どうして? あんたは、大佐のことが大好きなのに」
「子供の相手をしている暇なんてないの。さっさとしなさい」
 まるで母親のような口をきく。
 尻を叩かれるようにして追い出され、渋々大佐の部屋へ向かった。

「やはり来たのか」
「何やってるんです」
 悠然と寝台に横たわる男に手招きされ、猫の様に爪先で床に散らばる白薔薇の間を上手く抜けて近寄る。
「部屋を散らかしたから、あんなに怒ってるんですか?」
「そんなものだな。誰が片付けるのかと怒られてしまった」
「散らかした人が片付けるのが当たり前でしょう?」
「そうか。言われてみればそうだな」
 男は回答に満足したようで、目を細めて微笑んだ。
「お前は、代わりに来たのだろうが……お前の相手をする気にはなれんな」
「俺じゃなきゃ駄目だって」
「彼女よりはな。しかし、そうまでして男を抱きたい程、私は男色家ではないつもりだ」
「知ってます。貴方が女好きだってことくらい」
「…………おいで。慰めてくれるのだろう?」
 伸ばされた手を素直に取る。この男の底知れぬ孤独は、痛みと同時に安堵を齎すものだった。
 これ程恵まれていても、孤独は癒せないものなのだ。その孤独を埋められるのはただ一人。
 馬鹿なのだ。そう思える部分がこの男にあることに、安堵する。越えられない壁ではない。

 ベッドに引き上げられたが、男はそれ以上何も求めてこなかった。
 本当に馬鹿だ。こんなに部屋中散らかしたところで、腹を立てられるだけなのに。
「抱いてあげたらいいのに」
「……何か言ったか?」
「いいえ。何も」
「お前にはもう少し柔らか味が欲しいな。…………髪を染めて、鏝でも当ててみるか?」
 何の気もなくぽんと手を頭に乗せられ、咄嗟に首を振った。
「厭だ」
「少しも考えないのだな……」
「だって、大佐、」
 言い差して口を噤む。染髪だの何だのと、とんでもないことだ。誰がそんな格好をしたところで、いっそう不機嫌になるだけだろうに。
 大佐が望んでいる相手の写真は厭になるほど目にした。
 昔の写真はどちらかと言うと華奢そうで、しかし、最も近々の写真では、中肉中背の、赤毛の、癖毛の、柔和そうな男。
 この何処までも不遜な男が欲しているものには、誰もなれない。
「せめてもう少し食べろ。抱き心地が悪い」
「なら、女の人でいいじゃないですか」
「女は都合が悪いのだそうだ」
「そりゃあ……大佐の種が欲しい女なんか幾らでもいるから」
「だから女を一人に特定しているというのに、その彼女に振られてしまったら、お前辺りで我慢するしかないだろう」
 失礼な言い草にも程がある。
 別にこの人はそんなに我慢をする必要などない筈だ。気に入らないなら代えればいい。大佐になら抱かれてもいいという男だって、少なくないだろう。
 その中に、何人のNTがいるか知らないが。
 赤毛で、癖毛で、もう少し柔らか味のある身体をした男だって。きっと。

「……抱かないなら、もう寝ていいですか? 所長が厳しいから、疲れてるんですけど」
「ああ。構わない。お前の寝姿は見ていて面白いしな。猫のようで」
「悪趣味」
「お前が可愛いと言ったのだ。不満か?」
「……おやすみなさい」
 ブランケットを引っ張って奪い、くるりと身体に巻きつけて強く目を瞑る。忍び笑いが聞こえた。
 一層不愉快になりながら眠るように努めるが、見詰められている気配に落ち着かない。
「大佐も寝て下さいよ」
「そのうちな」
 再び大きな手が頭に触れた。熱が伝わる。そのことに本当に嫌気が差す。
 しかし、この熱に生かされている間は逃れられない。奪いつくし、追い越さなければ逃れることなど出来ないのだ。
 追い越せない壁ではない。そう言い聞かせる。
 大佐だとて、血潮の通った人間だ。それも、外向きには超然として見せているが、身近な者に対してはやたらと甘え、我侭に振舞う子供だ。まだ成年に至っていない自分がそう思うのだから、大人が見ればどれ程だろう。

 ふと、髪に顔を擦り寄せられたのが分かる。
 長く逞しい腕が、身体に回される。抱き竦められるが、それは幼女が持つぬいぐるみのような扱いだ。
「……いい歳して、甘えないで下さい」
「慰めてくれるのだろう?」
「俺なんか、いらないくせに」
「お前は大切な子だよ。お前に掛けた金は、MS一機では済まんぞ」
「そんなの……」
 それは、自分が望まれているということにはならない。失敗したら、また同じだけの金を掛けて、次の子供を育てるだけだ。
 落胆の吐息を吐くと同時に、男は声を上げずに笑った。
「私も、同じだよ。私が死んだら、次を探すだけだ」

「え」

 意外な言葉に、思わず振り返って顔を見た。困ったように微笑み返される。
「そういうことを考えていただろう? 象徴となれればいい。なれなければ、他の象徴が探し出され、祀り上げられるだけなのだ。……利用することを考えろ。祀り上げられている間、金を掛けられている間は、ある程度のことなら許される。賢くなれ」
「大佐……」
 全てを見通されている。これはニュータイプだからではなく、年の功というものなのだろう。
 若さを笑われ、弄ばれている気分になる。面白くない。
「厭なんですか。本当は、その名前とか、祀り上げられるのとか」
「厭だといったところで、逃れられるものではない。それなら、受け入れて、より良い選択をしていくしかないものだろう」
「諦めたってことですか」
「まあ、そうだな。それに、私はどうにも、逃げる選択の出来ない性分だったようだ。その上、お前と違って私の代わりになるものは一層限られている。なかなか周りが許してくれない」

 これほど綺麗で、力強くて、正統なる血筋を持った人間。
 なるほど、なかなか変わり得るものなどないだろう。

「大佐が死んだら、誰が代われるって言うんです。誰もあんたの代わりになんかなれない」
「妹か……それとも…………いや、どちらも、何があろうと私の跡など継いではくれないだろうな」
「大佐と同じだけの力がある人なんか、いないでしょう」
「買い被ってくれるな。私が彼らより勝っているのは、動こうとする気概、それだけだ。彼らには、もっと正しい道筋が見えている筈だ。それなのに……動こうとしない。恐らく諦めなのだろうが……それが私には承服できないのだ。力を持ちながら……世情に訴えるだけの力を持ちながら、それでも世界に向けて何も発しようとしない」
「それで、戦争するんですか?」
「そうだ。こういうことは、動き始めるまでが大切で難しい。動いたものを見て、追従するものが出る。その初めの動力になるものが他にないなら、私が動くしかない。必要なのは動き始めること……それだけなのだから」
「戦争じゃなくて、もっと他にないんですか?」
「お前は平和主義者だな。……口先で幾ら言ったところで、地球の重力に魂を引かれた者共には分からん。ならば例え汚名を被ることになろうとも、武力を使って道を示すことに躊躇いはない」
 最早、手段を問うだけの時間は残されていない。一刻も早く、地球を食い潰す者共を駆逐し、人類全てが宇宙で暮らす道筋を立てなければならないのだ。そして、自分の持っている力の限りを尽くして採り得る最短最前の策は、今動いているこの方法しか浮かばなかった。
 他の、幾つもの方策は全て、時間がかかり過ぎる。
「平和的に、速やかに解決できるものなら、私とてそうしたかった。だが、父が民衆に訴えてから何年経とうとも……何も変わらなかったのだ。言葉を尽くしても、何も……武力を使った者共も、全て父の言葉を履き違え、全くの徒労に終わった。私が起つ以外、道は残されていない。彼がどうしても動けないというなら、この私が……!」
 ことを急いて、行うことはギレン・ザビと変わりないように見えるかも知れない。
 だが、宇宙移民にのみ訴える名分しかなかったギレンとは異なり、自分には全人類に訴えるべき大義がある。

 と、ふと、大義と言う言葉に引っかかりを覚える。これまで、義に熱い男達を冷めた目で見てきた。その自分が、今更大義の為に動くというのは滑稽ではある。死した者共に嗤われるのは、少し癪に障る気もした。
 我ながら、そう感じるのは子供染みている。
「確かに、彼の言うように下らないことなのかもしれんな。……お前はどう思う」
 もう相槌すら挟まなくなってしまった若い部下に振る。
「……聞いているのか?」
「…………ん…………ぅ…………」
 微かな唸り声だけが聞こえる。黒い頭の先だけが、ブランケットの間から覗いていた。
 そう言えば、疲れていると言っていたような気がする。
「……いい度胸だ」
 組織の最高責任者を前にこの態度とは、中々見上げたものだ。
 少しブランケットを掻き分けて顔を探すと、熟睡していた。鼻を摘んでも、眉間に皺を寄せるばかりで起きる気配もない。
 一人でこれ以上の演説を揚げても虚しいだけだ。
 もう一度、まだ大人になりきらない身体を腕の中に抱き直し、そのさらさらとした髪に顔を埋めた。
 ここへ来る前にシャワーを使ったのだろう。この子をここへ寄越した女と同じソープの香に微かな苛立ちを覚えながら自分も目を閉ざす。

 眠りは、まだ少し遠かった。


作  蒼下 綸

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