遺体も遺品も入っていない墓碑に高級な地球産赤ワインを一本ぶちまけ、美しい女は冷たい目で刻まれた文字を睨む。
 空になった瓶を石に叩き付けて粉々に割る。

──道化師の魂ここに眠る──

 ただそれだけが彫り込まれ、誰を悼むものかも分からない。
「腹立たしいことでしょうね」
 誰も眠ってなどいない。魂さえも、こんな小さな器には入っていない。
 地球にいるなら、限りのない風にでもなって一所には留まってなどいないだろう。
 地球でさえ、おそらくあの男には小さい。
 数多の星の中にでもいるのだろう。

「今年も、何も変わらなかったわ」
 棘が数多く付いたままの、深紅の薔薇の花束を投げる様に供える。
「……それとも、もうどうでもいいのかしら?」
 毎年のことでも、詰らずには居られない。
 優しかった兄はこの墓石の主が死ぬもっとずっと前にいなくなってしまったのだと分かっていても、割り切れる筈もなかった。
「相変わらずだねぇ」
 遠くからそれを見ていた男が肩を竦める。
 女は愁眉を顰め、ただ墓碑を見詰める。
「この日だけはね。……戻りたいのよ。本当は。みんな生きてた頃に」
 父が生きていた頃に。母が生きていた頃に。優しかった兄が生きていた頃に。
 せめて、仲間達がみんな生きていた頃に。

 優しく、聡明で、純粋で、美しかった兄。
 優し過ぎて、聡明過ぎて、純粋過ぎて、美し過ぎた兄。
 その故に、全てを奪ってしまった。兄自身からも、この妹からも。

 墓石を睨む眦に涙が浮かんでいるのを見て、男は糊の利いた手巾を差し出した。
「ありがとう」
「どういたしまして。付き合うぜ。飲んで帰るだろう?」
「ええ。エスコートして下さる?」
「勿論。こんな美人とご一緒できるのは、この日しかないですから」
 軽く帽子を上げ軽妙に御辞儀をする様に、女は漸く形のいい唇を綻ばせた。
「相変わらずね。…………ありがとう」
「じゃあ、その前に、もう一つの墓へお参りするかな」
「ええ。……もう一人の、馬鹿な人のお墓に」
 男は片手に棘を削いだ白い薔薇とシャンパンを纏めて持ち、女に手を差し出す。
 女は微笑んでその手に手を重ねた。


作  蒼下 綸

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