これは夢だ。それは分かっている。

 手を伸べても触れている実感はない。

 それはそうだ。夢なのだから。
 実感はないというのに、何故か温かい様な気がする。
 夢のくせに。

 目の色が間近に迫る。菫色。
 実際に目を見た記憶などない。バイザー越しであったり、薄暗い管制室であったりして、真面に色など分からなかった筈だ。
 本当の色なのか、それすら分からない。
 否。一度だけ見るには見たのか。ガレージの2号機の前で。しかしほんの一瞬のことで、とても呼び起こせる記憶ではない。

 ガトーが見ている。

 夢だ、これは。

 色素の薄い瞳が射抜く様に。

 夢だ、これは。あの男はもういない。

 銀の髪。白い肌。紫の目。アルビノに近いのかもしれない。青い筈の瞳に血の気が透けているのか。

 夢だ。敵がこんなにも美しい筈がない。

 腹を撃たれて、それでも、静かに。

 夢だ。撃たれて尚、冷静でいられるなど。

 否。それは、夢ではない。現実にあったことだ。
 身体の奥底から震えが起こる。

「っ…………」
 引き結んでいた唇までもが震え、乱れた息が零れる。
 二度は撃てなかった。生身の人間に向けて銃を撃ったのは初めてで、その重みに指が固まったまま動かなかった。
 ニナが邪魔をしたから、そう言い繕うことはいくらでも出来たが、自分は真実を知っている。

 やはり、夢ではなかったのか。
 ガトーは自分を撃たなかった。ただ静かに眼前に起っていた。
 そして、待っていた。

「なんで……」

 目の前のガトーはただ見ているだけで何も言わない。
 人形の様だ。
 近付いてみる。

 夢の中だからこんなことも出来る。

 髪に触れてみる。

 夢の中だからか、温かくも冷たくもない。触っているのに、触っている感覚が分からない。
 分かってしまったら目が覚めてしまうのだろう。それは、厭だ。

 夢が自由に見られるものならいいのに。
 そうしたら、夢の中のガトーになら何だって出来る。
 触れても、撃っても、また出て来てくれるものなら。

 また出て来てくれる確証もないのに撃つことは出来ない。ここで殺して、二度と出て来てくれなくなることが怖い。

 ガトーが見ている。
 ガトーに見られている。
 故の分からない震えが背筋を駆ける。

 夢の中にいるなら、どんな馬鹿げたことでも許される。

 夢、なのだから。

 震えは腰に蟠り、そのうちに、ずくり、と疼きを齎し始める。

 ガトーが見ている。

 昂ぶる身体にさ一層の熱。

 ガトーに見られている。

 浅ましい身体。いっそのこと、蔑んでくれれば。

「……っふ…………」
 甘い声が洩れる。理解できず狼狽える。
 この震えを知らないわけではない。ただ、意味が分からない。
 ガトーに見られて、ただ、それだけで昂ぶるなどと。
 今すぐ目を覚ましてしまいたい。しかし、出来ない。

 目を覚ませばガトーが消えてしまう。

「ふ……ぅ……」 
 吐息を噛み殺す。
 堪えれば堪える程、下肢から熱い塊が沸き立ち、迫り上がってくる。
「……っく……」
 思わず目の前のガトーに縋る。
 触れることは出来た。こんな事までが、自分の無意識の願いだというのか。
 ガトーは連邦の夏服を着ていた。それと、ノーマルスーツの姿しか見た記憶はない。
 これが、変装ではなかったら――――――。

「……ん……っ……」
 熱い。
 疼きの治まらない下肢をガトーに擦り寄せる。
 所詮、夢だ。
 そう、夢。
 割り切った途端、ひどく荒々しい激情が全身を貫く。
 最早、歯止めはきかなかった


「っは! ……はっ……ぁ……」
 何かが弾ける音を聞いた気がした。
 目を見開いたが、自分が一体何処にいるのか瞬時に判断出来ない。ただ、呼吸が荒い。
 暫く激しい息を繰り返し、治まるのを待つ。
 じっとりと粘度の高い汗が全身から噴き出している。額から頤へ伝い流れる感覚も酷く不快で、乱暴に手の甲で拭った。

 まだ脳髄が痺れている様だ。
 自分は、一体何を見ていたのか。

 そこで漸くここが独房の中であることを認識する。
 否。先程までが夢であることは理解している。夢の中でも、夢であることを理解していたのだから。
 ただ、急に周囲の景色が明瞭になったように感じた。

 薄暗い部屋。コンクリートを打ち放した壁はいかにも殺風景だが、窓から差し込む月明かりが格子の影を映し出している。
 青白い光。

 夢の中で触れた肌の様だ。

「っ……」
 感覚が戻ってきた気がして、思わずブランケットを抱き寄せる。
 摺り合わせた足の間に不愉快さがあり、恐る恐る手を遣った。

 …………笑えない。
 慣れた、濡れた、厭な感じがある。

「……何、で…………嘘……だ……」
 顔に血が昇り、そして引いていく。 
 有り得ない。
 …………有り得ない!!

 飛び起きる。
 濡れた感覚が気持ち悪く、スウェットも下着も脱ぎ捨てて片隅の水場へ直行する。
 下着を洗うより先に、全開にした蛇口の下へ頭を突っ込んだ。
 初冬の冷水が頭皮に凍みる。それでもまだ感覚が冷めない。
 こうなると何もかもが煩わしくなって上半身も服を脱ぎ去った。空調は効いている。寒くはない。独房で、そして、深夜でよかった。この時間では巡回もない。

 そして暫く、身体の熱が全て奪い去られるまで、そのまま動けなかった


作  蒼下 綸

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