シャアの顔を真面に見られない。
 見ても、先日の痴態が浮かんで直ぐに目を反らしてしまう。兄が憎い。自分にとってはそれ程悪い人ではなかったのに、もう二度と許せそうにもなかった。
 共に過ごすのが辛い。
 美しい人。
 本当に、本当に美しい人。
 触れたかったのは確かだ。口付けたかった。抱き締めたかった。しかし……望んでいたのは、こんな状態ではない。

「ガルマ、次の掃海作業宙域へのルートなんだが」
 形のいい唇が自分の名前を紡いでくれる。
 この艦の艦長はガルマ自身であり、そう呼べるだけの権限は与えられていた。
 一エリア毎に作業は一、二週間近く掛かる。艦長室にはそれなりの支度も揃えられている。
 こんな風に、二人きりになれてしまう空間がある事が、余計に辛い。
「……ガルマ?」
「……………………続けてくれ」
 様子がおかしい事を見て取ったのだろう。不審気に声を掛けられるが、ガルマは辛うじて平静を装い、軽く手を振った。
「エリア10経由とエリア15経由、どちらの方が効率がいいか君の意見を聞きたい」
「あ、ああ……」
 海図が広げられる。指が、紙の上を滑る。
 この頬に触れてくれた指。そんな指の先まで、シャアは綺麗だった。
 ごくり、と喉が鳴る。
 指の動きが思い出されていた。じっとりとした汗が額に滲む。
 兄の非道を知った晩。シャアの美しさを、より一層見せつけられた夜に。
 その指先がひらりと動く。
「熱でもあるのか? ここの空調は程よいと思うが」
「さ、触るなっ!!」
 額から頬を覆う様な髪を払おうとしたシャアの手を、咄嗟に振り払う。
「っあ…………」
 その行動に驚いたのは、他でもないガルマ自身だった。
「あ……ぁ………………す、すまない。…………おかしいな、私は……」
 無理に微笑もうとした顔が痛々しい。
 シャアは軽く肩を竦めた。
「具合が悪いなら、代理として私が引き継ぐ。君は休んでいるといい。艦長の責を負って、気付かないうちに疲労が蓄積する事もあるだろう。君は繊細だからな」
「いや……違うんだ。別に疲れてなどいないし、体調を崩してもいない」
「しかし、あんまり様子が変だ」
 シャアが、何故平然としていられるのかが分からない。
 潤みかかる目でシャアを見詰めると、困った様に嘆息された。

「どちらへ先に行く。ガルマ」
「…………君の判断に任せる」
「了解した」
 海図を丸めて直ぐに立ち去ろうとする。
 ガルマは、手を伸ばしてシャアの腕を掴んだ。
「……何だ? 触れるなと言ったかと思えば」
 振り向く前に引き寄せる。
 強く、腕に抱く。
 その背に顔を埋め、ガルマはただシャアを抱き締めた。

「ガルマ?」
「何故……君は、何事もなかったかの様にしていられるんだ……」
「何事も…………? 何があったと言うんだ、私達の間に」
 シャアには、本当に思い当たる節がなかった。
 首を捻り、半ば後ろを向こうとしながらガルマを伺う。旋毛だけが見えた。
「この間……その……」
「この間……?」
 何か特別な事があっただろうかと思うが、シャアは思い至らない。
 何も、特別な事などなかった。日々の教導と、休息と、各方面への根回しがあるだけだ。
「……何があったかな。君を煩わせるようなことなど」
「あんな……っ…………い……いや……その…………」
 シャアの身体に回された手が、ぎゅっとノーマルスーツを掴もうとする。だが、生地が柔らかいわけでもないそれの上を、ただ形よく整えられた爪が滑るばかりだった。
「君を抱き締めたいんだ」
「……おかしな奴だ。ガルマ、今君は、私に抱きついている」
「そうじゃない!…………君の……肌に触れたい」
 額が押しつけられるのが分かる。
「…………ガルマ。馬鹿な事を言うなぁ、君は。今の君の立場と、職務と、時間を順に言ってみるがいい」
 漸く、ガルマが何を思い、何を躊躇っているのか分かった。
 シャアにとっては、全く特別な事ではない。ガルマがここまで胸を痛めているなどと、考えもしなかった。
 ガルマからは見えない唇が、深い笑みを刻む。

「ほら、ガルマ。……君は、この艦の何だ」
「艦長だ……」
「現在の職務は」
「……農業コロニーの残骸の掃海作業」
「現在の時刻は」
「1500」
「休息は、何時からとる事になっている」
「1800だ」
「……………………分かっているじゃないか。腕を放せ」
 腕を解く様に促すが、ガルマの腕の力は益々強まるばかりだ。
 愚かで、結構な事だ。
 シャアは唇を綻ばせたまま、それでも低くガルマを突き放す。
「いい加減にしろ、ガルマ。御曹司の我が儘には付き合いかねる」
「………………アナベルなら、仕方がないと思っていた。だが……」
「誰が相手であろうと、君には関わりのない事だろう。言った筈だ。ギブアンドテイクだと。君に肌を晒して、私に何のメリットがある」
「メリット…………」
「そうだ。私に、何の利益があるのか説明してくれ。その上でなら、考えよう」
 腕の力が微かに緩む。ガルマの肘に近い辺りを掴み、強く筋を押す様にしながら捩り上げて身を屈め、腕から抜ける。こういった技では、場慣れしていないガルマではシャアに適う筈もない。
 簡単に体勢が逆転する。
 捩られた腕が痛み、ガルマの顔が歪む。
「僕に出来る事なら……何でも言ってくれ」
 口にした一言に、シャアの表情は一変した。

「なら、今すぐここで死んでみせろ」

 バイザー越しに目が細められているのが分かる。触れなば切れん、それだけの強さと怜悧さを秘めた視線がガルマを射抜く。
 ガルマはただ身を竦ませるばかりで、答えられなかった。
 こうまで鋭く冷たいシャアの表情を見たのは、初めてだ。何処か人を喰った様な笑みも、余裕も、何もかもが形を潜めている。これが、シャアの本来の表情なのかも知れない。
 ガルマは驚きと共に、悲しみを覚えた。
 シャアの余裕綽々な笑みが好きだった。
 兄との現場を見られても、それでも尚崩れない微笑みに憧憬を覚えていた。シャア程の精神的な成熟を、とても自分は持ち得そうにない。
 その羨望の対象にこんな……冷たい表情をして欲しくない。
 笑っていて欲しい。
 シャアも本心ではない筈だ。普通は、そうだろう。言葉のあやだとか、売り言葉に買い言葉だとか、そう言う……。
 しかし、シャアの目は益々冷気を増していくだけだった。

「…………死んだら……君を抱き締められない」
 やっとそれだけの言葉を紡ぎ出す。
 必死だった。本当にシャアがそう望むなら、今のガルマにはとても難しい事だとは思わない。
「……そうか。では、ギレンを殺せ。デギンも、キシリアも、ドズルも、全員」
「し……シャ……ぁ…………?」
 冗談めかしもせず、透徹した声音で命ぜられる。
 ガルマは耳を疑った。
 シャアは何を言っているのだろう。冗談にしても、程が過ぎる。
 腕が痺れ始めていた。
「…………シャア……痛い……」
 腕を掴んでいる手の力がひどく強い。ノーマルスーツ越しだというのに、骨が軋む様だった。
「君を……困らせて、済まない。……だから……手を…………」
「今し方君が言った事は、嘘だというわけか。君に出来る事なら、何でも、と」
「嘘ではない。だが、出来る事なら……するけれど…………家族を殺すなんて、そんな事出来るわけがない。君だって、ご両親をそんな……」
「私に親は居ない」
「…………ごめん………………」
 他にどういえばいいのか分からない。涙を堪えて俯くと、漸く手が離された。ただし、床へとうち捨てる様に。
 咄嗟に足を踏ん張れずにくたりと床へ尻をつく。
 縋る様にシャアを見上げる。
 影になった顔の中で更にバイザーに阻まれてさえいるというのに、シャアの瞳から鋭さが消えない事だけは感じた。
 何故そんな顔をされるのかが分からない。

「……シャア…………君に、触れたいだけなんだ、僕は……」
 シャアの瞳を形取る氷を溶かせるものなら、と、そう願う。
「……君を抱き締めて、口付けたい…………ただ、それだけだ。その代償に、僕に君に、他に何を支払えばいい」
「……よくも、まだそれだけの事が言えるものだな」
「アナベルの代わりでいい。彼はもう、勤務地へ行ってしまったから。代わりに、君を抱き締める事も許されないのか、僕は」
「何故私がそんなものを求めていると思うんだ。余計な世話だ」
「君が……雪か、氷の様だから」
「ハッ」
 嘲りとも、溜息とも付かない音がシャアの口から洩れた。
「なら、尚更君の腕など要らない。解けてしまうだろう。君になぞ、触れられたら」
「解けてしまえばいい。僕が、引き受ける」
「馬鹿馬鹿しい。……航路の指示を出さなければならない。私はもう行く」
「厭だ、シャア!」
「いい加減にしろ! ガルマ!! 君は、何だ!? ザビ家の御曹司が聞いて呆れる。この痴態、ギレン閣下にでも上申しようか!?」
「っっ!」
 取り縋ろうとした所を一括され、ガルマは目を見開いたまま固まってしまう。
 シャアが本気で怒る所など、初めて見た。
 それだけではない。
 生まれてこの方、こうまで思い切り叱られたのも、初めてだった。
 その迫力は、兄達や父の比ではない。全てを圧倒する様な威圧感と威厳とが備わっている。
 これが天与のものであるなら、シャアはガルマより遙か上の存在だろう。それが、厭でも分かる。

 完全に自失してしまったその表情を見て、シャアは舌打ちを隠しもしない。
 これは、自分にとっても失態だった。
 深く息を吐き、気を取り直す。
「…………怒鳴ったりして悪かった。だが、今の君は正気ではない。そんな話は、せめて休息に入ってからにしてくれ。もう三十分近くも外している」
 まだガルマを切るのは早い。もう暫くは手の内にないとこまる駒だ。
 自分には、まだいろいろと足りていない事は分かっている。ギレンやドズルとも近くなった今ガルマという足がかり一つなくなっても問題はないが、彼の持つ国内での人気は侮りがたい。
 その兄弟達とは比べものにならぬ程使い勝手のいい存在である事は確かだ。
 頭の切り替えには、自信があった。

「突き放して悪かった。君がそれ程、想ってくれているとは思わなかったものだから……動揺したんだ。許して欲しい」
「い……いや……僕こそ、不快に思わせて、済まなかった」
「休息時間に入ったら夕食を取って、その後ここへ来る。君の相手をしよう」
「でも……僕には、君にあげられるものがない」
 メリットがない。そう言われて考えたが、どうすればシャアが喜ぶのか見当も付かなかった。
 困惑を隠せないガルマを見て、シャアは目を細める。
 もう、大した無理を言う気はない。

「君自身をくれ。私に」
 手を差し伸べると縋る様に手を乗せてくる。ガルマには大変似つかわしいにしろ、これでは姫君の様だ。
 引き上げて立たせてやると、ガルマはそれでもまだ不安げに見詰めてきた。
 仔猫の様だ。酷く虐めてやりたくなる。
「僕をあげて……何かの役に立つだろうか」
「君は自分の価値を知らないのだ。君の名を出すだけでも片が付く事は多い。それを許して欲しいな。君を利用する、私を」
「構わない。僕の名前一つで、君に降りかかる災禍が避けられるなら」
「そうか。なら、私にもメリットのある事だな、君に肌を委ねるのは。…………今夜、付き合うよ。それでいいだろう? 今はどのみち無理だ」
 指の背で軽くガルマの頬に触れる。
 一瞬にして顔が輝いた。
 学年主席の御曹司が聞いて呆れる。この単純さはいっそ清々しい。
 ガルマは今にも泣き出しそうだった表情を一転させ、笑みさえ浮かべている。
「うん。本当に、仕事中だというのに君を乱して済まなかった。直ぐに僕もブリッジへ行くから、先に行って指示をしていてくれ」
「ああ。では、な」
 シャアもやっと唇の端に笑みを乗せ、ガルマに顔を寄せる。
 軽く手を添えて吸い寄せられる様に頬と唇に軽く口付け、海図を片手にさっさと部屋を出て行く。
 ガルマの頬は、甘く柔らかだった。

「っ……ぁ…………シャアっ…………」
 残されたガルマは口付けられたことが瞬時には理解できず、呆然とシャアを見送った後、漸く一人赤面した。


作  蒼下 綸

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