シャアに尋ねてみたいことがある。
 もう、十年も前の記憶。
 一目で心を奪い去ってしまった、綺麗な青い瞳。
 幼心の君、とでも言えばいいのだろうか。ただ、鮮烈な瞳だけの印象が、ひどくシャアと酷似している子供。
 幾度か姉や兄も交えて会ったことがある。
 最後の記憶は、誰かの大がかりな葬式。きつい目で、進む葬列とこちらを睨んでいた。
 美しい兄妹だった。
 その直後にいろいろな事件があって、そんなことは忘れていたけれど。
 バイザー越しのシャアの視線に、何故かその子供の記憶が呼び覚まされる。
 あの子は、誰だったのだろう。
 シャアは知っているかも知れない。本当に、よく似た目をしているから。
 だが……。

「シャア、僕にブランケットを掛けてくれたのは君?」
 起きた瞬間に肩から滑り落ちた布に、自分が眠ってしまっていたことを知った。日を跨いだ頃までは記憶にあるが、そこから意識が途切れがちで気付けば外が明るい。
 尋ねると、殆ど身支度を調えたシャアが僅かに手を止める。
「ああ。風邪を引くと良くない。机で寝てしまう様な状態では、何も頭に入らないと思う。気をつけた方がいい」
「ありがとう。気をつけるよ。でも君も……」
「僕? 僕は君より随分先に寝ている。君に気が付いたのはトイレに起きたからだ」
 僅かな気遣いも嬉しくて微笑みかけると、シャアはそれに応えることもなく自分の作業に戻ってしまう。
 優しくしてくれても、シャアのそういった態度は長く続かない。何処か、一線を引かれてしまう。それが自分の持つ肩書きの所為なのだと思うと、ガルマはいつも悲しい気持ちになった。
「君、あんまり熟睡していない様に思うんだ。寝返りがひどく多いし、魘されていることもあるから少し心配している。僕で良ければ相談に乗るのに」
「…………気遣ってくれるのか。君は優しいな」
 微かな戸惑いを感じて、ガルマは言葉に困る。
 気付いていないのだろうか。ガルマが気を使うと、シャアは複雑な表情をする。偶にそれがひどく痛々しいものに見えた。
 何処までも平然と取り繕った美貌の影に何を苦悩しているのか。それを取り除いてやりたい。
 シャアの綺麗な顔は、憂えていても、微笑んでいても、どちらでも本当に美しいが、出来るなら笑っていて欲しいのだ。
 思うまま素直に案じるガルマに対して、シャアは僅かに目を細めた。
 しかし直ぐに制服のボタンを襟まで止め、先に部屋を出て行こうとする。
「あ、待って!」
「……待てないな。君はまだ制服のズボンも穿いていない。先に行っているよ。食いっぱぐれない様にな」
 慌てて制服を手にするがもう遅い。軽く手を振って出て行くシャアを見送るしかなかった。

 着替えて、ボタンを留めながら部屋を出る。
 少し遠い所に、それでもシャアの姿を見つけて顔に笑みが満ちた。少しゆっくり歩いてくれたのだろう。
 走って追いつこう、しかし、横から現れた男の姿にガルマの足は竦んだ。
 銀髪の威風堂々とした男。一年先輩になる、アナベル・ガトーだ。
 朝食へ向かう廊下は、もう時間がぎりぎりの為に人はあまりいなかった。
 親しげに並んで歩く姿に気後れする。
 二人を引き合わせたのは自分だ。どちらも自分には大切な人間で、頼りにもしている。親しくなるのは結構なことだと、分かっている。
 だというのに、何故もやもやとするのだろう。
 何だかもの悲しい気分だった。自分一人置いて行かれる様な。シャアだけが、一人で先に歩いていってしまう様な。

 金の髪と銀の髪が遠離っていく。そのずっと後ろから、とぼとぼとついていく。
 食堂の前まで辿り着いた時、シャアの顔がすっとガトーに近付いたのが分かる。
 二人の距離がなくなる。
 触れるだけではない、長い口付け。
 この二人のことは、噂になっていた。それは、聞いていた。
 けれど…………。
「…………っ…………」
 見たくなかった。
 どちらも綺麗な顔をしている。見目には、嫌悪感などない。
 そういうことではなく、真実など知りたくなかった。
 尊敬し、頼り、甘えられるものが、遠離っていく。
 祝福しなければならない。そう思うのに、立ち止まったまま動けない。
 そのうちにシャアはガトーから離れ、先に食堂へ入ってしまった。
 行かなければならない。朝食も取らずに授業や訓練に出ては倒れる。
 唇を拭っているガトーに、何とか近付く。
「……おはよう、アナベル」
「ガ、ガルマ様!」
 明らかに狼狽えたガトーに、それでも何とか微笑んでみせる。
 自分はザビ家の御曹司だ。醜態は見せられない。
「おはようございます、ガルマ様」
 本当に謹厳な男だ。
「シャアと一緒に朝食を摂ればいいのに」
「……ご覧になっておいででしたか」
「噂は、僕も聞いているから」
 微笑まなくてはならない。しかし、表情は強張る。
「そうですか。噂に」
 ガトーの表情がひどく苦々しくなる。
「行ってあげて、アナベル」
「そういうわけには参りません。皆への示しもあります」

「シャアを、助けてあげて」

「……ガルマ様?」
 不審げに問い返されるまで、ガルマは自分が何を口走ったのか、分からなかった。
「どういう事です、ガルマ様」
「僕は……今、何て……」
 口元に手を当て、考える。今、自分は何を言ったのだろう。
「シャア・アズナブルを、助けて欲しい、と。そう仰有いましたが」
 ガトーは困惑している。
 それはそうだろう。シャアは助けを請わねばならない様な人物ではない。
 成績は常に上位。ガルマが優遇されていなければ、全科目で主席だろう。その上、あの人を喰った態度は、頼りがいはあっても、ガルマが助けてやらねばと思う様な部分は何処にもない。
「何かあったのですか?」
 不審からガルマを気遣う様に態度を変えてガトーが顔を窺ってくる。
 ガルマは咄嗟に顔を背けた。
「い……いや…………どうしてかな。シャアには黙っててくれるかい? 僕が心配してるなんて、却って馬鹿にされる。僕の方が余程頼りないのは分かっているから」
「…………お使い下さい」
 ハンカチを差し出され、意味が分からずガトーを見上げる。
 戸惑っているとそれを目元に当てられた。
 泣いていたのだと、初めて気付く。
「ガルマ様がそう仰せなら、シャアについて、気に掛けてみます」
「うん…………ごめん」
「いいえ。…………そのお顔では食堂へはいらっしゃれないでしょう。お部屋まで運びますから、どうぞ」
「…………うん」
 手の中にハンカチを握らせられる。
 ガトーは優しくガルマの肩に触れると、食堂へ入っていった。

 部屋へ入ってガトーを待つ。
 自分の椅子。自分のベッド。
 しかし、ふらりと足は別の方へ向く。
 足音が聞こえたら、自分の椅子に座り直せばいい。
 シャアのベッドへ座り、ぱたりと上体を倒す。
 何がこんなに不安にさせる。
 シャアの顔と、幼い頃の記憶が交錯する。
 冷たい、何処までも冷たい目。シャアの瞳の色が余計に冷たく見せるのだろう。
 触れたら切れてしまいそうに薄い、氷の様だ。
 微笑んでも瞳の奥に潜んでいる。ちりちりと、その冷気でガルマを突き刺していく。
 この手で解かしてあげることが出来たらどれ程いいだろう。だが、微笑みかけるたび、シャアは凍てついていく。
 あの子供を知っているか、などと、聞ける筈もない。聞いたら最後、シャアは消えてしまいそうだ。そんな予感が、胸を掠める。
 引き留めることも出来ない。自分は、非力だ。

 不意にドアが開いて、ガルマは跳ね起きた。
 思索に入り込み過ぎて靴音が聞こえていなかった。
「ガルマ、ガトー先輩が心配していた」
「シャア……っ、どうして」
 慌てて立ち上がる。
「…………ガルマ?」
「す、すまない!!」
 シャアのベッドだ。不審に思うだろう。
 朝食を載せたトレーを少し散らかったガルマの机に置き、シャアが近付いてくる。
 手が伸び、ガルマの額に触れた。
 ガルマは硬直してしまう。
「熱は……ないな」
「あ…………ぁ…………の、シャア、僕は……っ……」
「ベッドを間違える程高熱を出しているのかと思ったよ。顔色も悪い」
 指先が頬を撫でてくれる。離れる瞬間、咄嗟にガルマはその手を掴んでいた。
「具合が悪いのなら、そう伝えておく。今日は休んでいるがいいよ。ここで休みたいなら、それでも構わないさ」
 有無を言わせぬ調子で指を開かせられる。
 ガルマは自分の行動の意味も分からなければ、何故自分がこれだけ狼狽えているのかも分からない。
 ただ、何かを言わなければと唇が戦慄いた。
「シャア……」
「僕が授業に遅れてしまう。いいね。今日はゆっくりと」
「ここにいてくれ」
「……ガルマ」
 腕を回して引き留めれば、ここにいてくれるだろうか。自分に近い所に。離れてなど行かずに。
 しかし、腕は動かなかった。

「…………いいものを分けてあげよう」
 シャアは小さく溜息を吐いて口元だけ微笑ませると、自分の机の引き出しから液体の入った瓶を取り出した。
「全部飲んでしまっても構わないよ。また貰える当てはあるから」
「これは?」
「酒だ。眠れるよ」
「どうして……そんなものを」
 まだ未成年の上に、寮に持ち込んでいい筈がない。
「貰ったんだよ、先生に。寝付きが悪いと言ったら、くれた」
「馬鹿な」
「本当だ。でも、勿論バレたら困る。これは……秘密だよ。僕と君との」
 瓶を握らせ、軽くガルマの唇の前に指を立ててみせる。
 それだけで本当に、ガルマはただシャアを見詰めることしかできなくなった。
「参ったな。……ガルマ。そんな顔をされても困る」
 指先と掌が、目元から頬に流れていく涙を拭う。
 シャアは軽くガルマの身体を押した。簡単に立ち上がったばかりのベッドへ尻をついてしまう。
「遅刻してしまう。僕はもう行くよ」
「…………うん…………すまない。君を……困らせて…………」
「構わないよ。食欲があるようなら、持ってきた朝食を食べればいい。昼食も部屋まで運んであげるよ。君に届けると言えば、寮へ下がれる」
 頬を撫でてくれる手が心地いい。ガルマは目を閉じた。
 あまりに無防備な様に、シャアの眉が顰められる。
 今なら、簡単にこの細い首をへし折ることもできる。
 手を、首へ伸ばす。

「……っ…………」
 着ていた制服の首もとを寛げさせる。
 離れる前に、触れた。

「ぁ…………シャア……な、何……」
 ガルマは温もりの残る唇に触れ、目を開けてシャアを見る。
 シャアは変わらず、綺麗な顔でガルマを見ていた。バイザーにも隠しきれない氷の様な瞳はそのままに。それでも、何処か苦しそうだった。
 バイザーに反射して映るガルマは死んでしまいそうな表情だ。こんな、軟弱なことで。
 呆然としている間にシャアは離れ、もうドアを出て行こうとしていた。
「ゆっくり休め」
「シャア!」
 引き留める間もなく、ドアが閉まる。

 何が起こったのか分からない。
 手の中に押しつけられた瓶の蓋を取り、一気に煽る。強いアルコールの香りがした。
「っ……ぅ…………」
 くらくらする。ベッドに伏す。
 シャアの香りがするそのシーツに顔を押しつけ、ガルマは込み上げる嗚咽を堪えた。


作  蒼下 綸

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