綺麗な、男だった。
 本当に、とても、綺麗な。

 一度目は自分から仕掛けた。二度目も、三度目も、四度目も。
 彼から自分に触れることなどあり得ない。
 終わらないゲームだ、まるで。
 それで良かった。
 終わって欲しくなどなかったから。
 彼から触れれば、ゲームは終わり、だ。後には何も残らない。
 そんな所まで落ちて欲しくない。
 この、何処までも綺麗な「先輩」には。

「紹介するよ、シャア。彼は祖父の代からザビ家に仕えてくれている。私達の、一つ先輩だ」
 その兄よりは些か体格に劣るが、十分に立派な体格をした男を従えて、王子様は悠然と微笑む。
「成績が優秀なのでね。こうしてたまに先生方に呼ばれて、僕達の指導に来てくれる」
 ガルマが懐いているのは分かった。この男もそれがやぶさかではないらしい。
 なるほど、王子様をお守りする騎士なのか。シャアは、その男を眺めて軽く肩を竦める。
「アナベル、彼は僕と同室の友人で、シャア・アズナブルという。君は、僕達の成績表を見ているのだろうから、分かるね」
「はっ、ガルマ様」
 騎士というより忠犬か。
 シャアは口の端に笑みを浮かべた。
 それを見咎めて、男の眉間に皺が寄る。その皺がよく似合う、厳めしい顔立ちだ。目鼻立ちは整っているが、シャアやガルマの様に美形だの美人だのという形容で現されることはないだろう。
 美丈夫、または偉丈夫。そんな、堅苦しい表現が似合いそうだった。
「シャアは本当に優秀なんだよ。僕がザビ家の末弟でなかったら、主席は彼だろうね」
「ご謙遜を、ガルマ様」
「アナベルも、見れば分かるよ」
 自分の誇る部下となる男と友人、それを引き合わせられたことで、ガルマは上機嫌だった。

「どうも。……アナベル……ガトー先輩。シャア・アズナブルです。ガルマには大変懇意にして頂いていますよ」
 差し出した手を暫く睨み、ガトーは仕方なくシャアの手を握った。
 ガルマが喜ぶ程、ガトーはこの出会いを有意義だとは思っていない。
「シャア・アズナブル……覚えておこう。だが、ガルマ様を呼び捨てなどと」
「僕が許可したんだ。構わないんだよ。シャアは、友人だから」
「……畏まりました」
 そう承服して見せながら、ガトーはこの上もなく澄んだ瞳でシャアを睨んでいた。
 シャアには、それが快感だった。

 出会いはそんな程度のものだ。
 仕掛けたのは、勿論シャアの方からだった。

「っ、き……貴様! 何をっ!!」
 サーベルでも帯びていたら斬り殺されていただろう。そんな想像にシャアはくすくすと笑みを押さえられない。
 そんな梢が囁く様な甘い音も不愉快で、ガトーは自分の唇に触れた後輩を無理に引き離す。
 僅かの間だけ触れ合った唇。女性のそれとは違う、だがまだ何処か甘さと柔らかさを残した感触だった。
 その目の鋭さが見せる程、シャアはまだ大人になりきれていない。その事が余計に不快だ。大人にもなっていないのに、大人の様に振る舞う様が。
「先輩の髪が、あんまり美しかったからですよ。地球に降る雪の様で。触れただけでしょう。少し。これしきで動揺されては、僕の方が恥ずかしい」
 とん、と軽くガトーの身体を押し、シャアは数歩離れて微笑んだ。

 ガルマが他の教師に呼ばれ、ガトーがたまたま降りて来ている時を狙っての犯行だった。
 罪は自覚している。
 一心にザビ家への忠誠を誓う男の存在がシャアにはどうしようもなく不愉快なのだ。ガルマと同じ程に。
 こんな男一人落とした所で、自分の目的には何の関係もない。いざとなれば、こんな一人くらい謀殺できる。その自信はあったが、シャアにとってはこちらの方が何処か気楽だった。

 昏い……何処までも昏い愉悦だった。
 ガルマの持っているものは、ゆっくりと彼が気がつかぬまま全て壊してしまいたい。残るものは、シャア一人。中身のない形骸一つ。
 そうした後で訪れるものへの想像に、シャアは背筋が震える程の悦楽を覚える。
 その為の一部だ。
 この、綺麗な男は。

「貴様、ガルマ様の好意を何とするつもりだ!」
「……ガルマ?………………くっ…………あははははははははは!! 先輩、何を言い出すのかと思えば!」
 ガルマがシャアを見詰める目線に時折混じる熱の様なもの。
 堅物だと思っていたが、それを分からない程無粋でもないらしい。シャアは笑いを止められなかった。
「気付いていなかったとでも言うのか!!」
「はは…………ああ……いや、これは、失礼! 先輩がそんなことを仰有るとは、思ってもみなかったので」
 笑い過ぎて腹が痛い。目尻に浮かんだ涙をバイザーの下から指先で掬って拭った。
「ガルマは、そんなのではない。ザビ家の男が男色家では、皆に示しもつかないでしょう。あってはならないことです」
「しかし、あの方は」
 ザビ家への忠心、それだけではない様子だ。その事をシャアは頭の片隅に書き留めておきながら、より笑う。
 ガルマが愛されやすい性質なのは知っている。真っ直ぐで、純粋で、裏表がなく、柔和で、それでいて誰よりも傲慢で自信という光に溢れているから。どちらかと言えば長兄や姉の印象から何処か陰湿な気配のある一家だと思っているが、ドズルとガルマに限っては、ザビの恩恵よりその自身の持つ魅力で人を引きつけている様に思えた。
 だからこそ、余計に不愉快なのだ。その存在そのものが。
 ガトーもそんな光に引きつけられた一人なのだろう。ガトーの様なこれがまた綺麗な男が惹かれるのは、同じ様に光の属性のものなのだろうから。
 ザビへの忠心だけなら、疾うに気がついて止めている筈だ。あってはならぬ事。ガルマの相手は、それ相応の家柄の美しい女性でなくてはならない。
 それがガルマ自身の感情を気遣って、馬鹿馬鹿しいことを言う。本来、そんなことに首を突っ込む質でもないだろうに。
「……若さ故の気の迷い。そうでしかあり得ない。それでも心配だと仰有るなら……そうだ。芝居を打ちましょう。ガルマが僕のことなど気にしなくなる様に。ねぇ、先輩。付き合って貰えますか」
「……何処へだ」
「言葉通り『付き合って』欲しいんですよ。ガルマの前で」
「断る! 何だ、その発想は」
「貴方くらいの相手じゃないと、ガルマは納得しないでしょう? 幸い僕は貴方の事が嫌いではないし、まあ、男との付き合い方もそれなりに心得ている」
「だからといって何故そう言う話になる!」
 本気で怒っているらしいガトーにも、シャアは笑いを抑えられなかった。

 背伸びをして視線を合わせる。
 そして、バイザーを外した。長い睫に縁取られた、青く透明な瞳がガトーを捉えた。
 砂糖菓子の様に甘やかな美貌。全く似合わない大きなバイザーは、目の保護という話は聞いていたがそれだけではなく、その美貌を鎧う為の防具なのだと気付かされる。

「……貴様……っ」
「……僕もガルマが好きだと言ったら、付き合っても構わないんですか、僕達は」
「なっ…………」
 きらきらと瞳が輝いて見えるのは、潤んでいる所為だとでも言いたいのか。
 普段隠されている顔立ちは思いの外美しく、一瞬目を奪われたのが悪かった。
 また、軽く、唇が触れ合う。
 シャアは背伸びを止め、バイザーを掛け直して俯いた。
 ガトーには、それが憔悴している様に見えた。肩が震えているのは涙を堪えているからだと、そう、見えた。
「そ……それは……そういうわけにも行くまい……あの方は、ザビ家のご子息だ」
「なら、茶番に付き合って頂けませんか。ガルマを傷つけるのは、最小限でいいでしょう? その視線に互いで堪えて……向こうが堪えきれなくなったら手酷く振る、そんな選択をするくらいなら、友情くらい続けさせて下さい。頼みます」
 よくもまあ、こんな言葉が立て板に水のごとく溢れてくるものだ。自分に呆れる。
 頭の中で組み立てられていくゲームは、しかし、何処か苦いものだった。

「勿論貴方はガルマの前だけでいい。僕は自由にさせて貰いますけど。その方が錯覚できる。錯覚のうちに、忘れられるかも知れない」
「自由に、とは……っ!」
 触れるだけ、その口付けから、軽く舌先を伸ばして下唇を辿る。
 思い切り身体を引いてガトーはシャアから逃れた。堪ったものではない。
 シャアは変わらず楽しげに笑っている。
「厭だな、そんなに逃げなくても。これからお付き合いするのに」
「ガルマ様の前でだけだ」
 承諾の返事を返してはいないというのに、ガトーはそう怒鳴る。
 もう事実が出来た。単純なものだ。
 シャアは尚のこと笑う。心がざらざらとしていた。だが、ガトーは気がつかないだろう。綺麗だから。
「そんな渋面では芝居にもなりはしない。微笑みくらい、くれてもいいでしょう?」
「私には男と口付けて喜ぶ様な趣味はない」
「そんなにはっきり仰有らなくても。僕もどっちかと言えば本当は女の子がよかったな。貴方の名前の様に、可憐な、ね。ですが、僕の心が選んだ相手は男だった。残念な事に」
「ガルマ様では不服だとでも言いたいのか」
「いいえ。我が身のままならなさを嘆いているだけですよ。その辺りの普通の女性が相手なら、こんな小細工要らないんですから」
「……まあ、そうだろうな」
 シャアの言葉を疑っていないのは、自身もそれ相応の感情をガルマに持っているからだろう。具体的に触れる触れないだとか言う感情ではなくとも、側に仕えていて充足感を得るだけの想いは、少なくとも抱いている様に思えた。
 馬鹿馬鹿しい。
 だが、その半端な想いが今のシャアには面白くて仕方がなかった。
 この謹厳な先輩を気に入った理由も、そこにある。

 行動しないのは愚かな事だ。
 想いを遂げないのは愚かな事だ。
 それがどんなものであれ、心に決めたら後は動くだけ。そうでなくては、この世の中、いつ何時誰に寝首を掻かれるかなど分からないのだ。
 父親の様に。
 愚かにも理想論ばかりをぶち上げて、最も身近な者の裏切りにすら気がつかなかったあの男の様に。

 この男が自らの意思でシャアに口付けた時、シャアの中でゲームは終わる。
 堕ちたものに興味などない。綺麗でなくなったものに、興味などない。
 精々手の内で足掻けばいい。
 こんな些細な事でも、ガルマに勝てたと思えるなら。

「っ……ぅ…………」
「何を考えている」
「…………貴方の事ですよ。決まっているでしょう」
「嘘を吐け」
「…………酷いな。何故そう言い切れ、っあ、っ…………」
「くっ……もう少し爪を切れんものか、貴様」
 深い所を抉られる衝動に、撓やかな背が反る。
 弾みで思うさま引っ掻かれた背には、もう既に無数の傷が刻まれて血が滲んでいた。
 女でもあるまいに。
 シャアの身体には、うっすらとした傷は幾つかあるものの、それはどれもガトーが付けたものではなかった。
「これがいいって言う人も……いるんですよ」
「分からんな、貴様の趣味も」
「僕には貴方の方が分かりませんがね」
 やはり、堕ちない。
 これだけ深く一点で繋がっていても、堕ちない。
 それがシャアには堪らなく楽しい。ゲームはまだ継続されている。
 ガトーが爪を切れというのは本当にただ、引っ掻かれるのが厭だと言うだけなのが分かるから。

 なし崩し的にコトに及ぶのは、難しい事ではなかった。
 謹厳で融通の利かない堅物ではあったが、また、ガトーは遊びも分からぬ無粋者でもなかった。
 互いに火遊びだと分かっていたし、まあわざわざその様な振りをしているのだから誰に知られても別段構いもしない。
 二人共に相手に事欠かぬ身ではあったが、何の悪戯か男女問わず告白してくる様な輩と付き合うより余程楽だったのも確かだ。
 自由時間の少ない士官学校生の若い二人に、この身体だけの関係は大変丁度いいものだった。
 金もかからない。わざわざ出歩く必要もない。しかも、睦言を囁く必要もなく三十分から長くても一時間程でいい。後は、ガルマに見せつける様にキスの一つでもして、それで終わりだ。
 それでも、やはりガルマの前で自らシャアに口付ける事には、ガトーも抵抗感を失ってはいなかった。
 それを察してか、まずシャアから口付けてくる事に、僅かな安堵を覚えないではない。
 ガルマの思い人を奪ったと思われるのは心外だったので、ガトーはこのままでいいと思っていた。

 不安定だが、互いが許す為に成り立つ微妙な関係。
 互いの制服が脱がされた時より曖昧になるそれを、シャアは少なくとも心地よいと感じていた。
 避妊具も付けるし、シャアの身体には傷一つ、赤いキスマーク一つ残そうとはしない。腰に重く響く痛みがなければ、ガトーとの情事などなかったのではないかと思う。

「ふ、っあ……あ、っぁ……」
 シャアはひっきりなく上がる甘い声を抑えようともしない。
 むしろ、それでガトーを煽ろうとする。滑らかな太腿を擦り寄せ、よりがっしりとした身体を抱き寄せる。ガトーの耳元へ顔を寄せ、思うさま嬌声を上げる。
 女ではないのに。
 不愉快だが、また、それに煽られる自分をガトーは自覚していた。
 抗いきるには、ガトーもまだ若かった。そして、特定の相手がいなかった。

 ガトーはシャアの身体へ決して痕跡を残そうとはしない。それに何処か苛々して、シャアは必ずガトーの身体の何処かに歯形を残す。それは鎖骨であったり、胸元であったり、脇腹や腰骨の辺りであったり、とにかく様々だった。
 着替えや入浴で誰かに見られる事は少ないであろう、それでも、自分にははっきりと分かる場所へ。
 初めは厭がっていたガトーも、背に刻まれる爪痕が増える度に、歯形の一つなどどうでも良くなっていった。
 遊びの一部なのだと捉えている。この一年後輩の矢鱈に美しい男がそう言った危うい遊戯を好むのは、付き合ってひと月、4度程も会えば十分だった。
 シャア程ではないにせよ、その手の倫理観はガトーにも何処か薄く、自身に大した実害はないので放っておく事にはした。ただ、避妊具を付ける事だけは忘れなかったが。
 シャアの相手は、ガトー一人ではない。その中にガルマだけは含まれていない様だったが、その全体像はガトーにも掴みきれなかった。シャア自身も気を使ってはいるだろうが、病を移されては堪ったものではない。
 それに気付いた時のシャアの笑いは、本当に楽しげで、その事に苛々したものだった。
 割に合わないとは思わないのか、そう尋ねれば、シャアはまた笑った。
 何も持っていない自分が代償に支払えるのはこの程度のもの。なら、安いものだ、そんな事をのたまった。

「……っ……あ、……っん……んんっ……」
 終焉が近いのだろう。
 身体の相性は、悪くない。誘いに乗った初日から、シャアの花蕾は難なくガトー自身を飲み込んだ。そして、慣れている素振りを見せながらも、やけに早く達した。それは、後からシャア自身が言っていた。
 ガトーはその体躯に見合うだけの代物は持っていたから、正直な所以外だった。そこまで慣れていようとは思わなかったのだ。
 実際、難なく飲み込みはしたし流血沙汰にもならなかった。しかしそこまで押し開かれた事はなかったらしく、事の後にはガトーが甲斐甲斐しく世話をする羽目になった。要するに、シャアは意識を飛ばしていた。
 そこから比べれば、もう随分慣れたものだと思う。
 お互いに加減も分かったし、シャアも衝動に慣れて事後の処理を自分でして自分の足で自室へと戻って行ける様にはなっていた。
 初めの日に見せたのは、シャアにとって、醜態以外の何者でもなかったのだろう。
 だが、そのお陰で、ガトーのシャアに対する警戒は半ば解けたのだった。

 熱に潤む瞳は見えない。シャアが強く縋り付いているから。
「あ、っ……ん……ぅ……うっ……ぁ…………」
 こんな時に限って、シャアは決してガトーの名を呼ばない。
「ぁ、ふ……ぁ……はっ……は、ぁ…………っ」
 耳を擽る息が激しくなっている。ガトーの腹筋に、シャアの、その気になれば十分に誇れるであろう逸物が擦れてベタベタとした蜜を零していた。
 そろそろいい時間だ。
 ガトーはシャアの股間へと手を伸ばすと、緩く根本から扱き上げてやる。そして、自身のものもより深く突き上げてやった。

「あ、っあは……っ、あ……っん……ん……っあぁっ!」
 大きく撓う背を撫で、窘めてやる。
 手の中には、勢いのいい白濁した粘液が吐き出されていた。
 まだ放出は終わらず、震えながら先端から零れ続けている。
 ガトーも、これ以上は時間の無駄を感じて、自分より幾分細い腰を抱え、激しく打ち付けた。
 痙攣の治まらぬ襞が絡みついている。
 心地よい、とは思えない、だが至上の感覚がガトーを襲う。
 一際強く突き上げる。太い幹が膨張し、どくり、と熱い迸りが腸壁を満たそうと放たれた。だが、避妊具の中にそれはただ溜まるだけだ。
「っあ……は…………ぁ…………っ……っぁ…………」
 足りない熱を、それでも一部は感じ取って整った頤が仰け反る。白く流れる様な首筋が晒される。
 口付けたらどんな顔をするだろう、この男は。
「く、っん……ぅ……」
 そう思うと、何故か口の中が苦くなる。ガトーは解放の快感に浸ることなく、シャアから速やかに退いた。
 避妊具を処理し、互いの腹やシャアの濡れた後庭をちり紙で拭う。その後濡れティッシュでより拭き清めた。
 シャアは脱力して両の腕で顔を覆い、ガトーのするに任せている。
 脱力したいのはこちらも同じだと思うが、入れて抜き差しするよりそれを受け入れる方が一層消耗が激しそうなのは、見ていれば分かる。その程度の気遣いをする余裕は、ガトーの方には存在していた。

「そろそろ戻らねば、ガルマ様が心配なさろう」
「…………ああ…………」
 シャアは何処か怠惰な様子で転がったまま、側のテーブルに手を伸ばして身体のそこかしこに香水を振りかけた。全てがこれで消え去ってしまえばいい。そんな様子で。
 そんな態度に苛々する。完全に消えてしまったら、こうして抱き合っているだけの意味などなくなってしまうだろうに。
 ガルマには、それとなく悟られなくてはならない。そう、分かっているのに。
 苛々しながらも、そのシャアの態度にほっとする自身というものも、また、ガトーの中に存在していた。
 あの無垢な王子は、何も知らぬのがよい。そう思う。世の汚れなど、何一つ知らなくていい。その為に守りたいと、それは、忠臣として間違った感情ではない筈だ。
「……ガトーが一番いいな。上手くはないが、一番優しい」
 そんな事を言うから、またこんな機会を持ってしまうのだ。ガトーは渋面を隠しもせずにシャアを睨んだ。
 シャアは、王子の後ろに控える影を装いながら、王様だった。
 王子すら持ち得ない程の強烈な、カリスマ性のある男だった。そうでもなければ、自分が翻弄される事などあり得ない。
 何処か逆らえない。一介の軍人となる男ではない。そして、軍人にしかなれない自分より上のものだと、その目を見れば分かってしまう。
 バイザーはそれを隠す為のものでもあるのだろう。ガルマの、象徴しての役割を奪わぬ為に。
 それが悟られてしまうと言うのは、シャアもまだ幼いと言うべきか。
 ガトーもまだ若かった。それとなくを感じながらも、シャアの脅威の理由がそれでもまだ掴めはしない。

「次は何時来る」
「……一週間後に。分かっているだろう」
「確認ですよ、先輩。それまでこんな甘い情事はお預けか。……まあいい。他で遊んでいるとしよう。ガルマには知られない様に。貴方以外との関係が知れたら、彼は驚きの余りに死んでしまいそうだ」
 些か疲労の影はあるものの、シャアはまだ微紅に染まったままの顔で微笑む。
 ガトーは、汗を拭う為に用意していたタオルを、その顔に引っかけて隠した。
 こんな苦々しい関係を甘いと言ってしまえる、その神経が分からない。甘いと言いながらも、何処か鋭さを取り戻した視線が分からない。ただ、見ていたくない。
「何だ」
「にやにやと気色の悪い。さっさと服を着て出て行け。貴様が出たら、私も出るから」
「ふぅん……」
 タオルの下で苦笑し、軽く首筋や脇腹を拭って散らかった制服を身に纏う。
 ガトーにタオルを投げ返して、シャアはベッドから降りた。
 ここはガトーの部屋だった。
 二回生の主幹を務めるガトーは、一人部屋を与えられている。
「じゃあ、また」
「……………………ああ」
 出て行く時にも、振り返りもしない。軽く手を挙げるだけだ。
 ガトーも、それ以上の声など掛けはしない。

 シャアの存在は不愉快だった。
 その不愉快さは、何に起因しているのか分からない。
 人を喰った様な笑みになのか、何処か投げやりな態度なのにか、または、ガルマの心を攫った所か。自身の能力を何処か隠している所か。
 顔を隠し、力を隠し、感情やなにやら、心まで隠し。
 身体を重ねていても、シャアの本心など何を掴めない。
「……違うな」
 それは確かに腹の立つ事だが、そう言う事ではないのだ、恐らく。
 シャアに促した手前、自分も身体を拭いて軍服を身に纏う。片隅の洗面台で顔を洗い、頬を叩いて気を取り直す。
 首筋の、きっちりと襟を止めていれば見えない辺りに痕を残されているのが分かる。
 こんな些細な悪戯が何処かもの悲しい気がして、ガトーはさっさと鏡の前を後にした。
 仕掛けてくるシャアが厭わしくないと言えば嘘になる。
 だが、もう既に、ガトーも何処か戻れない所まで来ている様な気がした。


「ぅ……っ……あ……っ」
「気色の悪い声を出すな」
「ふっ……はっ、ぁ……」
 唾液が糸を引く口元が不快で顔を寄せて口を塞ごうとした。しかし、そうする前に、先に腕の中の男が唇を押し当ててくる。
 舌が絡み合い濡れた音が立つ。
 下肢から立つ音と唇から立つ音とが、まだ若い二人を煽る。
 舌を吸いながら、頼りなく震えた腰元へ伸ばしている手指の先で円を描く様に先端を弄ってやると、引き攣る様に身体が震え、犬歯が軽く引っ掛かって唇が傷ついた。
 淡い血の香り。
「んっ……ぁあ……ぅ」
 手に感じるのは脈打つ幹と濡れた感触。
 凝った熱を吐き出して、男は疲れた様に全身に入っていた力を抜いた。
「……一人でイって、お仕舞いにするつもりか」
「…………ん……ぁ……ああ……全く……君は不感症か」
「貴方が早いのだ。こんな事まで三倍速か」
「…………ふん。私は感じやすいのだ。……仕方がないな」
 達したばかりで火照ったままの身体を緩慢に動かして、相手の股間に顔を埋める。濃厚な雄の匂いにも眉一筋動かさず、達するまで口と舌で奉仕を続けた。

 気怠げにベッドの中で転がっている金髪の男を尻目に、ガトーは身支度を調えていた。
 どうしてこんな事になっているのか分からない。
 それは、もう、四年も考えている事だった。
 それでも。
 転がっている男は、自分より一階級上の少佐だった。歳は、一つ下。
 名を、シャア・アズナブルという。
 赤をパーソナルカラーに持つ、酔狂な仮面に仰々しい兜で見事に道化を演じてみせる、男だ。
 その顔を見た者は少ない。
 こんな風に怠惰に寝転がるだなどと、そんな事をしない男にも見られているだろう。有名人であるのは確かだった。
 学生時代からずるずると、初めはそうだ、ガルマを守る為に。
 そのガルマは現在地球方面軍の北米軍指令として着任している。親友でありながらシャアはドズル旗下で、ソロモンでの任についていた。
 先のルウム戦役の立役者として知られている。戦艦五隻を沈めたと、大々的に報じられた為だ。
 その戦功で、呆気なく階級は抜かれてしまった。
 もっとも、この男がそれで満足しているとは思えなかったが。

「私は哨戒に出る。少し休んだらロックを忘れず」
「分かっている。……全く、情緒のない事だ」
 転がったまま上体を捻り、顔をこちらへ向ける。軍服に身を包んだ姿を、ぼんやりとした目で見詰められて、ガトーは眉間に皺を寄せた。
「貴方がそう怠惰に私の部屋へ転がり込むからだ。不愉快です」
 一階級とは言え、佐官と尉官ではその権限の範囲も違う。貴様だのお前だのという呼びかけ方よりは幾分柔らかい言葉でありながら刺を含んだ物言いに、シャアは楽しげに笑った。
 出会った時からそうだ。この男は、実に楽しそうに笑う。目は隠したまま、口元だけで。
 今も、仮面こそ付けてはいないものの部屋の明かりに逆光になって、シャアの目は見えなかった。
 この男の目の色は嫌いではない。自分と同じ様に、とても淡い色をしている。その癖、とてつもなく強い光を持っていた。
「君がそう言う言い方をするから、私がここへ来ているのだと、どうして分からないかな」
「……不愉快だ。飽きるまで言おうか」
 とうとう声を上げて笑い始める。
 ガトーの眉間の皺は、余計に深くなった。
 これ以上構っていても、定時任務に遅れるだけだ。
「ここにいても帰っても構わないが、貴方はロックをして帰った試しがない」
「そうだったかな」
「……いい加減にしてくれ」
 マントを付け、ドアを開ける。
「貴方にも任務があるだろう。ここで怠惰に過ごしていい訳はない」
「分かっているよ。だが、今の私は睡眠中だ。あと五時間はある。敵襲でもない限りは」
「減らぬ口を叩く。……もう好きにしろ」
 本気で苛々して、ガトーは足早に廊下へ出た。
 シャアの笑い声が澱の様に、耳の底へ残っていた。

 ゲームはまだ続いている。
 ガトーから触れようとする、ガトーから口付けようとする、その度に先を取る。だから、続いているのだ。
 不意をつく様な真似はガトーならまずしないし、そうしようとしても大体は自分が先に気がつく。
 閉まったドアを眺めて、まだ笑いが治まらない。
 自分の任務終了直後に彼の寝込みを襲ったので、大したことはしていない。触れ合って、一発抜いた程度の事だ。
 ここで寝ていれば、次は自分の任務前にガトーが帰ってくるだろう。そうすれば、少しは気の昂ぶったガトーを相手に出来る。
 いてやってもいいが、自分にはまだ相手をしなくてはならない人間が何人かいた。
 足場は確かな方がいい。ガトーと幾ら寝た所で、シャアに何かのメリットがあるわけでもないのだ。
 メリットと言えば……楽しい事と、心地よい眠りがあると言う事くらいか。だがその重要性を、シャアは理解していなかった。

 ガトーの枕を抱えて顔を埋める。
 任務から帰ってそのまま寝付くようなことはないガトーの枕は、程よいシャンプーの香りがした。お互い女でもないのに、それが何処か心地いい。
 ガトーの事は、嫌いになれなかった。ジオン……ザビ家への忠誠心も含めて。
 そこまで考えた所で思考を止める。枕を手放して脱ぎ散らかしていた服へベッドの上から手を伸ばし、起き上がる事もなくごそごそと身に付けていく。
 今からのお相手は少将だ。
 吐き気がする。
 使えるものは全て使う、そう割り切っていても、心の何処かが擦り切れた様にじくじくとした痛みを覚えているのは確かだった。

 ここで眠っていたい。しかし、誰かに寝顔を見せるのは堪らなく厭だった。それがガトーであっても。
 のろのろと起き上がる。
 まだ休んでいないから身体の疲れはあるし何処か気怠くもある。今は比較的膠着状態で、双方共に動きがない。哨戒任務はあるが、それだけと言えばそれだけだ。
「待たせては後が困る、か」
 これから抱かれる相手の事へと頭を切り換え、部屋を出る。
 ロックは掛けなかった。


「……そんな事も、あったか」
 手にした作戦計画書をデスクに投げ、掛けた椅子に深く身体を預ける。
 計画書の中枢人物の名に、数年前の身体の感覚を思い出した気がした。
 ゲームは終わらないまま。
 終わらせても良かったのに、結局は、そのままだった。
 木馬に囚われて自分は地球に降り、それから二度とガトーに会う事はなかった。
 ガルマを計にはめ、ドズル旗下を追われ、そしてキシリアの下へ。
 ドズルの死後、それでもソロモン戦をかいくぐりギレン旗下のデラーズに拾われたガトーとは、連絡を取る事もなかった。
 半ば、忘れていたと言ってもいい。シャアには他に考える事が多くあったし、遊びの気分にはなれない人間にも出会ってしまった。
 そうしているうちに、敗北という形でジオン公国はその歴史を終えた。
 筈だった。
 それなのに今自分は、その残党と、ミネバを仰ぎながらアクシズで過ごしている。

 おかしな事だと思う。
 だが、アクシズ総督マハラジャ・カーンは、ザビ家とは異なる、ジオン・ダイクンの唱えたスペースノイドの解放を訴えていた。
 そこへ与するのはまた、シャアにとってさほど不自然な事ではなかった。
 しかし……。
 そのマハラジャも、つい先日、亡くなってしまった。
 後継者ハマーン・カーンは優れたNTだったし、幼い頃から自分を慕ってくれていたが……次第に考え方がずれてきている。堪え難い程。
 それでも留まっているのは、ミネバを案じる故だ。
 その父ドズルの事が嫌いではなかった。ザビの血は根絶やしに、そう思っても、何も知らぬ無垢な赤子を手に掛ける事など出来なかった。半分は、学生時代の同期ゼナの血である。
 ミネバが自分の様にはならぬ為に……そう思うというのに、ハマーンは次第にシャアをミネバから遠ざけていた。
 何を悟られているのか。NTの状況判断力は侮れないものだ。
 自分の様ななり損ないではなく、完全なNTなら。

 星の屑。そう銘打たれた作戦。
 シャアから見れば、愚かと切り捨てるしかないものだった。
 命を賭ける、その中に、ガトーの名前を見つける。
 死ぬのだろう、彼は。
 初めから生きる事を諦めた様なこんな名を冠した作戦などに従事した為に。
 それでも、ガトーとしては長く生きた方なのだろうと思う。彼の性格からすれば、自決していたとしても驚きはしない。
 そう考えて、シャアは口の端を笑みの様に上げた。
 自決なのか、これは。
 それなら納得できなくはない。
 何度か見たデラーズの顔を思い出す。なるほど、崇拝していたギレンに殉じそうな顔をしていた。

 まあ、それなら少なくとも最悪ではないのだろう。何処まで成し遂げられるかは分からないが。
 アクシズからも僅かばかりだが艦を派遣する事になっている。幾人かは生き残る事も出来るだろう。その回収の依頼があり、摂政のハマーンがそれを了解した。シャアも、反対はしなかった。
 数え切れない程の情事。肌を重ねた中で、数少ない吐き気のしなかった相手。
 それが、その回収される人々の中に含まれている事を祈らない程、シャアも薄情ではなかった。

 計画書を持ってきた一士官を前に、シャアは深々と溜息を吐いた。
「……ガンダム試作2号機……核を放った後の使い道が弱いな。強襲は一度で終わりだろう? その後も作戦は続くというのに。機動性が低い。こんな重MS、ガトー少佐には少々気の毒に思うが。連邦とて、手を拱いているわけではないだろう。1号機の方は放置か」
「二機奪うだけの余力はないとの判断でしょう。使いこなせるだけのパイロットの数が揃わない、と。そのリストにあるだけの人員しかおりませんから」
「……シーマ艦隊が参加するのだろう? あそこになら、それなりのパイロットはいるんじゃないのか」
「コムサイには一機しか搭載できません」
「ああ…………HLVはないのか」
「あるにはありますが、最終手段として考えには入れていないでしょう。……その他は、下ろす事は難しいでしょうな」
「乗る人間に依っては厄介だぞ、ガンダムは」
「まあ、そうでしょう」
「…………アレは、どうなっていたか。ここで開発中の、あのMA……」
「AMA-X2ですか? あれは、もう殆ど完成しています。テストをあと幾らかと、後は大佐に合わせた調整をすれば出せます」
「……回してやる事は出来ないだろうか。ハマーンへは、私が進言しておく」
「は? し、しかし……アクシズにも、そこまで資源や資金があるわけでは。あれは中々金もかかっていますし」
「デラーズ・フリートが用意できるMS・MAは、この二号機の他は一年戦争時のものだけなのだろう?」
「いえ、デラーズ・フリート独自開発のMS-21Cドラッツェがあります。こちらを」
 別の用紙を差し出され、目を落とす。
 ちらりと一瞥しただけで、シャアは落胆を隠そうともしなかった。
「なるほどな。……特攻でも掛けるつもりか。ザクとガトルの性能の他に、何が付加されている。相手は、一年戦争時のままではない」
 ドラッツェの概要書もデスクに放り、シャアは手を腹の上で組んで目を閉じた。

「シャア大佐、そう仰有いましても」
「分かっている。もう事は動き出している。我らに止める術はない。……ノイエ・ジールを出してやれ。悔いのない様に。金と言うが、MA一機を作る程度、私がどうにでもする。テストを急げ。調整は向こうでも出来るだろう」
 足を組み、相手を睨む。スクリーングラスに阻まれて直接目を見る事はなかったのが、男の幸運だっただろう。
「…………分かりました。上の方へは」
「私が話を通しておくと言っている。ハスラー少将の艦へ積んでいって貰え」
「了解しました。……これは」
 無造作に投げ出されている書類を纏める。シャアはそれを片手の軽い動きで制した。
「置いていってくれ。もう少し見たい」
「はい。では」

 扉が閉まるのを待って、シャアは軽く首を後ろへ倒した。
 長く、重く息を吐く。
 そうか、死ぬのか。
 それだけの覚悟はいつでも出来ている男だったろうが。
 降り積もったばかりの雪の様な、真っ白い男だった。色も白かったが、何よりその髪の銀糸の輝きが、雪を彷彿とさせていた。
 散々泥足で踏み躙ってやったつもりでいたが、それでもイメージの中の男の姿は白く清らかなままだった。
 もう一度会えていれば、ゲームを終わらせて、彼を泥の中へ突き落とす事も出来たのだろうに。
 いや、今からとて、会いに行こうと思えば出来ぬ事ではない。
 シャアはゆっくりとスクリーングラスを外してデスクに置き、目元に手の甲を当てる。
 ゲームは、続行だ。
 彼が帰ってきたら、終わらせてやる。
 幻を抱いていた事を知った時、彼はどんな顔で自分を見るだろうか。

 その終わりが来ない予感はしていたが、シャアは考えなかった。
 その代わり、ゲームを終わらせた時の彼の顔を思い浮かべ、一人愉悦に浸った。


作  蒼下 綸

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