「……閣下?」
 所用で訪れふと通りかかった廊下に、これまで遠目でしか見たことのなかった姿を見つけてガトーは足を止めた。
 ソロモン戦敗退後、僅かに残った兵はア・バオア・クーで再編されている。ガトーもその一人だ。
 ここが最後の砦、ここが決戦の場、そう、ギレンは位置づけている。
 その演説は、先般、軍再編の折に聞いた。そして、ここに留まっている総帥の覚悟が知れ、身が引き締まる思いでいた矢先だった。

 思索に耽る表情で窓から宇宙を見ていたギレンは、ガトーの呟きに振り返った。
「お前は」
 ガトーは敬礼を以て応える。
「は、アナベル・ガトー大尉であります! 誠に失礼を致しました」
「構わん。……ガトー……聞いた名だな。ガルマが昔慕っていたか。先日のソロモン戦では活躍があったと聞いている。まだ今暫く戦いは続く。これよりも期待する」
「はっ! 光栄であります、閣下!」
 総帥に名を覚えて貰っていただけでも身体が震える程の喜びを感じる。その上に褒め言葉まで掛けられて、ガトーは思わずその場に片膝を付いて額ずいた。一介の大尉風情が、容易く声掛けを頂ける相手ではない。まして、この様な至近距離で、周りに人もなく。
 その堅苦しくも初々しいガトーの様子に、ギレンは微かながら目を細めた。
 ガルマの学友については、具に報告を受けている。ガトーは殊に、ドズルがよく目をかけ、ガルマを任せていた筈だ。直接の面識はなくとも知らぬではない。
「若いな」
 呟きが思いの外優しく、ガトーはその響きに感じ入った。
 力強いギレンの姿しか知らない。それが、僅かにでも印象の違う面を見せられると一層心酔の度合いが高まる。
「立て」
「は」
 命ぜられるままに従う。
「……大きいな」
「は?」
 眺められ戸惑う。背は双方変わらない。ただ、がっしりと骨太なガトーに比べ、ギレンの方が些か撓やかには見えた。
「ドズルも、ガルマも、お前を気に入っていた。よくザビ家に尽くしてくれていることには、礼を言わねばならんな」
 総帥から直々の礼など考えたこともなかった。ガトーは全身に緊張を走らせる。
「勿体無きお言葉痛み入ります」
「私の配下となるのだったか。我が盾となり、ジオンに勝利を齎す者となれるよう、一層の奮闘を期待している」
「無論。この命、我等がジオンと、閣下の御為に捧げる所存です」
「頼もしいことだ。……国を良く守れよ。今は亡き者どもの為にも」
 見るからに清廉な若者に寄せる期待は、かつて末弟に寄せたものにも似ている。この幼さにも近い若さを嫌う理由はない。他に目を向けることもない盲目的な純粋さは、御しやすい。
「ははっ!」
 現に、ガトーは敬服しきりでその他には目も行かぬ様子だ。それはもう、愚かしい程に。
 こんな男に傅かれるのも、悪くはない。裏切らぬ確信の持てるものを側に置きたい。
 手駒は多いのがいい。
 先般期待をかけたシャリア・ブルは死んだ。裏切らぬものは、次次に消えていく。
「生きた者が勝者だ。それは忘れるな」
「はい。生きて、必ずやお守りいたします」
 儚い誓いだ。だが、ギレンは満足した。
 こんな若者が多くいてくれるなら、ジオンも安泰だろう。
「……行くがいい。もう。じきに決戦となる。全ては、このア・バオア・クーにて終わらせるのだ。その為にも、よく休み、よく戦え」
「お気遣い、痛み入ります、閣下!」
 もう少しこの若者を労ってやりたい気持ちになる。手懐ければ心地良く心強い存在になるだろう。弟達が彼を重用した気持ちもわからぬではない。
「これを、お前にやろう。これまでのお前の忠誠と働きに。そして、これからのお前に」
 ギレンは左手首のカフスを外し、ガトーに差し出した。
「閣下、そのような……! 勿体無い」
「働きのあるものへの褒章は惜しまん。受け取れ」
 感極まり震える手でそれを押し戴き、ガトーは顔を上げることもできない。総帥自らの下賜に、まだ弱冠二十一歳に過ぎないガトーはただひたすらに敬服するばかりである。
 ガトーが名前など知らない鈍く深い色を湛えたカボションカットの紅い石が、これもまた鈍い色合いの台座にはめられている。
「行け。次の出撃まで、そう時間もあるまい」
「はい! 閣下に直接お見え致しましたこの望外の喜びを胸に、勝利の為、邁進して参ります」
「うむ」
 気持ちのよい敬礼を受け、大きく頷く。両手で大切に包み込む様にカフスを持ち去っていくガトーは滑稽で、若く、可愛らしいものだった。

 ぴしり、と、硬い筈の石に亀裂が入る。
 胸騒ぎがする。
 ギレンから受けたカフスは、その時以来出撃の際にも肌身離さず持っていた。コックピットでは常に視界に入る辺りに置き、自らを奮い立たせていた。スペースノイド独立の為に。ザビ家を守るために。そして、ギレンを守るために。ガルマにも、ドズルにも、目を掛けられながら何も出来なかった。もうこれ以上失いたくない。
 しかし、血の色に似た石の欠片が目の前へ漂い、そのあまりに不吉な様に不安を隠せなかった。
「カリウス! 一度戻る!」
「大尉!」
「残っているものにも伝えろ。……一度、補給に戻れと。近くに親衛隊のグワジンがいる筈だ。ドロワまで戻れぬ者は頼め」
「了解しました」
 今ギレンがいなくなったら、宇宙はどうなるというのだ。
 キシリアでは、国は御せない。ギレンほどの強大なカリスマがなくては、地球圏を掌握することなど叶わぬ話だ。
 この胸騒ぎは何なのか。
 ギレンは、この戦場にいるとはいえ後方で指揮を取っている筈だ。まだ敵にそこまでの進入は許していない。
 なら、何故。
「閣下……!」

「何っ? ギレン総帥が戦死されたと!」
 デラーズは椅子から立ち上がり震える拳を握り締めた。
 立場がなければ、絶対に側を離れたりなどしなかったものを。守れなかった。守らねばならぬものであったのに。
 敵機がそこまでの進入を果たしたという報告は受けていない。その話があれば駆けつけていた。
 ならば、何故。
「は。ア・バオア・クーは全権、キシリア閣下の元へ移行しました」
「くぅ……っ…………謀ったな、キシリア……!」
 他には有り得ない。女の浅慮が絶対的なカリスマを殺したのだ。
 弟妹に対する甘さと期待をキシリアは裏切ったのだ。それも、最も酷な形で。
 許されることではない。ギレンは、全てのスペースノイドの頂点たらねばならなかった。それを。
 一刻も早くドロスへ行き、亡骸を引き取りたい。女狐の手へ、ギレンを置いておくことなど出来るものか。しかし、浮き足立つ兵を見、デラーズは自分の立場を思い出す。何処までも邪魔をするものだ。階級というものは。
 ギレン亡き今、その志を継げるのは数限られる。継がねばならぬ。スペースノイドとして、その崇高なる遺志を。
 デラーズはその絶対的な存在へ想いを馳せる。ギレンならば、どうするだろう。
 この戦局では即座に切り替えの出来ぬものが負ける。
「……全艦および全MSを集結させよ。我が隊はこの空域より撤退する!」
 通達を走らせ、自身はデッキへ急ぐ。帰り来る兵達を抑え、導かねばならない。悲しみに暮れている暇は与えられていない。そして、ギレンもそう望んでいるだろう。

 デッキは、騒然としていた。ギレンの戦死は、直ぐ様伝えられている。元より所属していた機体の他にも、幾つか着艦しているのが見て取れた。
補給を頼みにしているのだろう。しかし、最早出すわけにはいかない。キシリアの為に出せる兵など一人たりともいない。

「大尉、駄目ですったら! 撤退命令が出てるんですよ」
「くっ」
 声の方を見れば体格のよい男がリック・ドムに乗り込もうとしていた。パーソナルカラーのノーマルスーツに包まれた肢体を見、その主を知る。
 アナベル・ガトー大尉。その名は聞いているし、将来有望な若者であることも知っている。ギレンが目を掛けていたものは、全て掌握しているつもりだ。そして、デラーズ自身、ガトーを快くも思っていた。
 デッキの隅にはガトー大尉のゲルググも見える。それが補給中の為に、残っていたリックドムへ乗り込もうとしたのだろう。
 今出て行っては犬死も同然だ。機を見て建て直し、反撃に出るためには人が要る。
「待て、ガトー!」
 肩を?み引き留める。ガトーは振り返りデラーズを睨んだが、その顔を見、僅かに表情を改める。ガトーもデラーズを知っている様子だった。
「貴公の母艦、ドロワは沈んだ」
「ドロワが?」
 淡い菫色をした瞳が驚愕に見開かれ顔が色を失くした。出来ることならば、こんな形で告げるべき事柄ではない。デラーズ自身、自分の中で整理の出来ていないことを感じている。ギレンが死んで、何故自分はこうも冷静でいられるのか。それは、恐らく考えを一部放棄しているからだろう。だから、こんなことも言える。
「我が総帥ギレン閣下も亡くなられた。我々はア・バオア・クーより撤退する。我らは生きて総帥の志を継がねばならんのだ」
生き恥を晒せと? 私は行きます!」
「ならん!」
 行けるものならば、デラーズとてこの若造などに遅れは取らない。だが、行くわけにはいかない。行かせるわけにもいかない。
「今は耐えるのだ。生きてこそ得ることの出来る栄光をこの手に掴むまで、その命、わしが預かる。いいな」
「……くっ…………」
 ガトーにではない。自分自身に言い聞かせるように、デラーズは苦い命を発した。

 こうして男達の一年戦争は密やかに終結したかに見えた。
 それから三年。
 再び幕は上がる────。


作  蒼下 綸

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