「っあ……や、ちょっ……待って……」
「何をだ。君だってもうこんなに……」
「あ……ん、もぅ…………」

 部屋の中は空調が効いている筈なのに、絡み付く様な熱で満たされているようだった。
 裸でも寒くないのは、厭になるくらい身体が密接しているからなのだろう。

 クワトロの手が、とても口では言えないような妖しげな所を弄っている。アムロは身を捩るが、それは更に煽るものにしかなっていなかった。

「まだ早いよ。誰か来たら……」
「そんな無粋な者が来ても、無視をすればいい」
 繰り返し啄むような口付けが施される。そしてそれがより深いものへと移ろうとした丁度その時、

  ビーーーーーーーーーーーーーーーー。

 無粋な音が響く。ドアのブザー音だ。
「ちっ」
 忌々しげに舌打ちし、しかし行為の手は止めない。
「離れろ、シャア」
「厭だ」

『アムロさーん、いませんかぁ?』

 コウの声に、アムロはクワトロを押し退けて起き上がった。
「出るな」
「貴方よりコウの方が可愛くて大切だからね」
 脱がされたばかりのシャツを羽織り、クワトロにも上着を投げて寄越す。
「いるよ、コウ! ちょっと待って!」

『はぁーい』

 まだベッドの上でむくれているクワトロを蹴り落とし、乱れたシーツを整える。
「……アムロ、少し扱いが乱暴ではないか?」
「割れ物じゃないんだから。貴方、それくらいじゃ壊れないだろ?」
「壊れはしないが、かなり傷付いたぞ」
「……傷物は誰にも売れないな……仕方ないから、後で俺が貰ってあげるよ」
 床に座ったまま恨めしそうに睨んでくるクワトロの額に軽く口付けを落とし、一瞬頬を合わせる。

「気付かれないようにちゃんとしてて。コウにはまだ早いもの。ね?」
「……分かった」
 予期せぬ一言と口付けの一つで、クワトロの機嫌はすっかり直っている。
 単純だなと呆れながら微笑み、ドアのロックを外す。

「いらっしゃい、コウ」
「えっと……あの、お仕事中でした?」
 アムロ以外の気配を感じて、アムロの肩越しに部屋を覗く。身長差十センチでは容易いことだ。
「プライベートだよ。……入って」
「お邪魔しまーす」
 アムロに続いて部屋に入り、不良じみた風に上着を肩で羽織り床に胡座を掻いている人物に、コウは少し驚いた。

「クワトロ大尉……何で、そんな格好で、床に座ってるんですか?」
「……君には関係のないことだ」
 クワトロが軍服を着崩しているところなど初めて見た。いつもはかけているサングラスもない。
 その見慣れない姿に、コウはじっとクワトロを見詰めた。あまりに純粋で真っ直ぐな視線に、クワトロは少々居たたまれない心地になる。

「……クワトロ大尉って、やっぱり綺麗ですよね。前に近くで見たときも思ったけど」
「顔しか取り柄がないんだよ」
「えー、そうかなぁ……格好いいですよね。MSの操縦も凄く綺麗で……女の人にももてるし」
「コウ、こんなのを褒めたっていいことなんか何にもないんだから。クワトロ大尉、もう用は済みましたよね。コウと話がありますから、引き取って頂けますか?」
 にっこりと花の綻ぶ様な微笑みに敬語までつけて、クワトロを追い出しにかかる。

「私の顔が好きかね、ウラキ中尉」
 アムロの表情に撃墜されつつ、コウに下らないことを尋ねる。
「綺麗なの、嫌いな人なんていませんよ」
 コウの率直な言葉が、アムロに既視感を抱かせる。反芻して褐色の肌の少女に行き着き、慌てて頭を振った。

「それで? コウ、何か用事だったんだろう?」
 アムロから見ても十分に可愛らしいコウだ。妙な具合にクワトロが興味でも示したら、と思うと気が気ではない。さっさとクワトロを追い出せればよいのだが、コウの手前、そう邪険にも出来ない。

「あ、そうだ。アムロさんにお礼が言いたくて。えと、いろいろと教えてくれて、ありがとうございました! アムロさんが言ったとおり、ガトー、俺のこと、嫌いじゃないって。教えて貰った特別なキスも受け入れてくれたし、その……えっと……先も、少しだけ……」

 コウは耳まで赤く染めて俯いた。
 その様子に、アムロの目がすっと細められる。わが子の旅立ちを見送るような気分だった。十歳ほどしか年は変わらないはずだが、コウからはいつまでも子供らしい素直さや純粋さが抜けない。
「ガトー大佐も、コウのこと、好きだって言ってくれた?」
「……ううん。でも……側にいることも、抱きつくことも、特別なキスも、一緒に寝るのも、全部、受け入れてくれたから」
 にっこりと、それこそ大輪の向日葵が綻ぶ様な笑顔を見せる。アムロは思わず、クワトロの視界を遮る様に立ち位置をずらした。

「それに、ガトー……今までより、もっと、ずっと優しくなった」
「そっか……それで、キスの先までしちゃった、ってこと?」
「多分、途中までだけど……」

「あのガトーがか!? 信じられんぞ、そんなこと」

 コウの相手をさせてもらえないばかりか視界に入れることさえ遮られて業を煮やしていたクワトロが、突然大声を上げる。
「貴方は黙ってろよ」
「あ、あの、あのガトーが……って、どういうことです?」
 アムロが完全にクワトロの口を塞ぐ前に、コウが尋ねる。

「ガトーはその昔、私と対を張って女性にモテていたのだぞ。広報の中では、百発百中の撃墜王の名を私と共に、欲しい侭にしていたのだ! それが、閨で手控えるだと? まさに奇跡だ!!」

「……そんなに……ガトーってもてるんですか? それから、閨って何?」
 クワトロの主張に、目を丸く見開いてコウは尋ねた。
「ああ、もてるぞ。私と同じくらい……ということは、出会う女性の九割以上はモノにしているのだろうな。堅物なところと、あの体格に似合わない銀髪紫瞳が渋くてよいのだそうだ。私には分からんがな。そして、閨とは情事……要するに、セックスを行う寝床、という意味だ。分かるか? しかし、まぁ……」

 アムロの背後から顔を出し、膝立ちになってコウに手を伸ばす。露骨なクワトロの台詞に赤味が差した、まだ柔らかさを残した頬にぴたぴたと手を当てる。

「ふむ……」
「ちょっと、クワトロ大尉!コウに触るな!」
「確かに可愛らしいが……」
 アムロの事など意に介さず、コウの頬を手で包み込む。アムロより若いということもあるだろうが、思いの外滑らかな手触りだった。髭などもかなり薄いようである。
「はぁ……」
 コウは、ただ反応に困ってクワトロのなすがままに任せている。大きな手が案外心地よかったというのも、邪険に出来ない要因のようだった。

「しかし、知らなかったな……ガトーが子供好みだったとは」
「子供……って、俺のこと?」
「……いや、失礼。しかし……なぁ……今までとは好みの傾向がまるきり違うな」
「そりゃ……ニナと付き合ってたって言うことは聞いたけど……」

「そう! そうなのだよ。今までガトーの恋人だと噂されてきたのは、ああいう、スタイル抜群の金髪碧眼の美女ばかりだったのだ! 黒髪、黒瞳はてっきり範疇外なのだと思っていた」
 最大の問題点はそこではないだろう、と思わず突っ込みたくなったが、自分とクワトロの関係を考えてアムロは口を開かなかった。代わりにちろりとクワトロを睨む。

「貴方みたいな節操なしより、好みがはっきりしてる方がいいよね」
 疎いコウにはアムロが華やかな微笑を浮かべたようにしか見えなかっただろう。しかしクワトロは、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
「下らない事言ってないでさっさと帰ったら? コウにちょっかい出すなよ」
 追い払うように手を振ってみせる。
「ちょっかいなど。私は知人の新しい恋人に、その人となりを教えてあげているだけではないか」
「こ、恋人って……俺、そんな……」
 耳や首筋に至るまで真っ赤に染め上げてコウは照れた。
 その反応の初々しさと見せる表情の幼さに、予期せず心引かれる。クワトロはそれを心地良いものとして受け取り、微かに裏のある笑みを見せた。

 何よりアムロが一番だが、それ以外でも全然構わない、クワトロはまったく全人類に平等な男だった。

「恋人ではないのか?」
「……よ、よく……分かんないよ……」
 黒目がちの瞳が瞬時に潤む。

 まず、コウには恋人というものの定義が理解できていなかった。
 大体にして、コウが好きだと言っても返ってくる答えは「ああ」の一言。ずっと一緒にいるとは言ってくれたが、「付き合いましょう」「はい」というプロセスを経たわけでもない。嫌いじゃないという言葉だけは甘く耳の底にこびり付いているが、それだけだった。

 そこまで考えて、急に不安に陥る。

「あの、恋人、って、どういうのを言うんでしょうか?」

 少し狼狽えた風に、至極真剣に尋ねられ返答に窮する。
 アムロとクワトロは思わず顔を見合わせ、思案に暮れた。

 一応、付き合っているとは言えなくもないし、恋人同士なのかと問われれば、クワトロは即答、アムロも躊躇いながらも何とか首を縦に振るだろう。そういう関係だ。ただ、噂話にも目の当たりにしても、疎いコウは二人の関係に気付いていない。

「……そう深く考えなくてもいいんじゃないかな。二人でいて心地よくて、ついでにその……もっと深く繋がりたいな、ってお互い感じるんだったら、それが恋人同士だと思うよ」
「俺はそうでも……ガトーがどう思ってるかなんて分からないし……」
 泣き出しそうな表情に、アムロはかなり狼狽えた。そしてきつくクワトロを睨み、足を踏みつける。

「……貴方が余計なこと言うから!……」
「……私だって、ウラキ中尉がこんな反応を示すとは思っていなかった。不可抗力だ……」
「貴方が不用意過ぎるんだよ!」

 コウの泣き顔を眺め、アムロに詰られ……とダブルパンチを食らってクワトロはがっくりと肩を落とした。

「……よし。俺、ちょっと聞いてくる!」
「……聞いて……って、ガトー大佐に?」
「うん! だって……俺一人でから回ってたら格好悪いし。ガトーにも迷惑だから」
 コウも迷惑という単語を知っていたか……とは、口に出さない。アムロに余計詰られるのが目に見えている。

 コウの表情は決意に満ちて、拳をぎゅっと握り締めていたりする。
 この切り替えの早さも、さすが子供と言うべきか。そこそこに過去を引きずってしまう傾向のある二人は、またもつい、顔を見合わせてしまった。長い因縁の所為か、タイミングがぴったり合う。アムロには不本意なほど。クワトロには思わず顔が綻んでしまうほどには。

「大丈夫だと思うけどなぁ……」
「ああ、私もそう思う……」
「貴方、ちゃんとフォローしてよね」
「ああ…………あー、ウラキ中尉、ガトーは誰かと軽い気持ちで身体を重ねることが出来る人種ではないぞ。心配は無用だと思うが」
「でも……」
「ふむ……ちょっとこちらに来たまえ、中尉」
 来い来いと手招きをして、コウを屈ませる。
「何ですか?」
 アムロが止める間もなく、コウはクワトロの前に膝をついた。
 頬に触れていた手が返され、指の背で柔らかい顔の輪郭を辿る。

「君のように愛らしく純粋な子が慕ってくれているのだ。並の男なら、たとえ君にその気がなくとも恋人だと吹聴したくなる。自信を持ちたまえよ」

 優しげに、つ、と目が細められる。コウはクワトロの言っている事を今一つ理解しきれず、きょとんとした顔でクワトロを見詰め返した。

「それとも、私が君に自信をつけてあげるべきか。……ガトーに愛される自身がないのだろう? 私なら、君の魅力を十分に開花させてあげられる。どうだ?」

 指先が顎を捉え、掬う。

 と、間髪入れずアムロの手がクワトロの妖しい手を叩き払った。
「そこまでにしなよね。貴方、宇宙の藻屑になって消えたい?」
 口調は穏やかで口元も微笑んでいるように見えるが、クワトロは慌てて手を収めた。

 押し潰されそうな程のプレッシャーを感じる。ラー・カイラム艦内が全てフリーズしそうな勢いだった。鋭敏なNTの何人かは既に気でも失っているのではなかろうか。
「俺の目が黒いうちは、コウには指一本触れさせないからな!」
「もう既にウラキ中尉には何度も触れている。それに君の瞳は美しいトパーズの様で、元来黒くはないな。ということは、私が幾らウラキ中尉にふれようと構わないということだろう?」
「屁理屈捏ねるなっ!」
 ついにアムロの眉がきりきりと吊り上がる。

「帰れよ」
「嫌だといったら?」
 凄む様に微笑まれ、アムロの怒りが沸点に達した。
「叩きだす!」
「……くっ!」
 言うなり、アムロの膝がクワトロのこめかみにヒットする。

「ア、アムロさん!」
 戦闘中でさえ相手を気遣った攻撃を心がけているアムロの好戦的な様を初めて見て、コウは狼狽えた。
 クワトロは床に俯せてぴくぴくしている。
「大丈夫ですか?」
 肩を揺すってみようと伸ばした手をアムロに制される。
「まだ生きてるからね。近付かない方がいい」
 アムロがその半分死体じみたモノを横へ蹴って除けようとした、その時、

「アムロさんっっ! 大丈夫ですかっ!?」

 と、突然ドアが開く。

 飛び込んできた少年はクワトロが視界に入るなり、
「またあんたかっ! 修正してやるーーーー!!」
 叫びながらクワトロに突進し、瓦を30枚ほど割れそうな勢いで拳を叩き付けた。

「ぐぇっ……」
 蛙が潰れたような音が聞こえたが、コウ以外の二人は気にも止めない。
「大丈夫ですか、アムロさんっ!!」
「……カミーユこそ……真っ青だけど、大丈夫?」
「ちょっとぐらぐらしますけど、大丈夫です。アムロさんのピンチに、じっとなんてしてられませんからv」
 と言いつつも、顔色は青冷めている、を通り越して紙の様に白い。カミーユも艦内では屈指のNTである。かなりアムロのプレッシャーに当てられたのだろう。

「あ……あのぉ……生きてますか……?」
 コウはコウで、アムロがカミーユに気を取られている間に制止の手を擦り抜け、クワトロを抱き起こしていた。

 カミーユにしろクワトロにしろ、元々が白色人種なので色味が失せるとかなり危険な顔色になる。更には口の端からは美形にはあるまじき、何やら黄色っぽい液体が流れ出ていたりもする。

「大尉……?」
 一応脈を取ってみる。
 弱々しいが、とりあえず生きてはいるようだ。
 顔の前に手を翳してみる。
 何とか呼吸はある。
 少しほっとして、何とか手を伸ばせば届く範囲にあったナイトテーブルの上からティッシュを取って口元を拭ってやる。

「大尉、しっかりして下さい」
 士官学校で習ったことを思い出しながら、確認を続ける。思い出した順なので、なかなか適当な感じではあるが。 
 脈の確認。
 呼吸の有無の確認。
 目をこじ開けて瞳孔のチェック。
 ……そして、怪我の視認。
 こめかみは次第に黒ずんだ色を呈している。要するに、青タン状態である。それから……。
 服を捲る。何故か上着を引っ掛けただけで、後は半分脱げかけだったのが丁度良かった。
 結局ほぼ男所帯暮らしのコウには躊躇いというものがなかった。

「……うわぁ……すごい……」
 見事なまでに変色している。まだ殴られてそう時間は立っていないにも関わらずこの様……ということは、明日は動けないのではなかろうか。
「カミーユ、すごいねぇ。……そういえば、空手やってたんだっけ」
 まだ生きているし、見たところ多少変色はしているものの骨などに異常もなさそうなのを見て、やっとコウは一息吐いた。

 ふと顔を上げて、微妙な構図の二人を見上げる。

 カミーユはとうとう堪りかねてアムロに倒れ込んでいる。それを何とか細腕で支えているアムロや、そんな状態にも関わらず今にも小躍りを始めそうなカミーユなどを、何も違和感も感じずに、である。

「まだ生きてるのか。しぶといな」
「……黒いの並ですから……こいつ……」

 黒いの……とは、言わずと知れた、家庭内害虫No.1の、黒光りするキチン質、身体を真っ二つにされても生きている、アレである。

「こういうのは……きっちりトドメを刺さないと……」
 しっかり悪態をつく割に、カミーユは息も絶え絶えである。
 アムロはずり落ちそうになるカミーユの身体を抱き直しながら、コウに言った。

「コウ、悪いんだけどさ……ソレは放っておいていいから、カミーユを部屋まで運んであげてくれない? コウなら抱き上げられるよね」
 アムロとカミーユでは、身長差は殆どなく、なおかつ、アムロでは圧倒的に筋力が足りない。カミーユは一見華奢に見えるが着痩せしているだけで、その実、クワトロを重力下で殴り壁に叩き付けるだけの力は持っている。筋肉は軽くはなかった。
 それまでの無理がたたったのか……別の理由か、アムロの胸に顔を埋めるようにしてカミーユはぐったりしている。
 しかしアムロの言葉を聞いて、必死で頭を起こした。
「……大丈夫……です……歩けますから…………アムロさん、送ってくれませんか……?」
 ひしっとアムロの服を掴み、潤んだ瞳でアムロを見つめる。

 アムロはどんなに強大なNT能力を持っていようと、究極の天然さんだった。

 コウは、超の上に言葉を足しても足りないほどの鈍感だった。

 クワトロは……まだ復活していなかった。

「もう……仕方ないなぁ……」
 諦めた様に苦笑する声を聞いて、カミーユは小さくガッツポーズを取った。
 クワトロがぴくりと反応したが、誰も気付かない。
「コウ、確かめたいならガトー大佐の所に行くといいよ。俺達が何を言ったって、ちゃんと自分で確かめないと納得できないだろう? コレの言った事なんて考えなくていいから。……ほら、カミーユ、本当に歩けるのかい?」
「は……はい……」
 そろそろ顔色も戻ってきている。少しわざとらしい感じでアムロに縋りつつ、儚げに見える微笑を浮かべた。

「放っておいていいって言われても……」
 コウはカミーユの事など眼中になく、腕の中のクワトロを見詰める。とりあえず、青痣は冷やした方がいいだろう。
「えっと、じゃあ、俺、クワトロ大尉をお部屋か医務室に運びます」
「ダメだよ、コウ。一刻も早くこんなのからは離れて、ガトー大佐の所へ行きなさい」

「……何で?……アムロさん、クワトロ大尉に冷たいよ……」

 困惑して泣き出しそうな顔で見詰められる。まさか自分が危惧していることをありのまま言うことも出来ず、アムロは微かに顔を引き攣らせた。ロンド=ベル内でコウの涙に勝てる人間など、そうはいない。
「……はぁ……分かった、コウ……でもね、コレが目を覚ます前に全部終えること。いいね?」
 アムロは長く重い溜息と共に、そういうしかなかった。
「はぁい」
 コウにはアムロが何を警戒しているのかさっぱり分からない。とりあえず、よい子のお返事を返す。
「絶対だよ。……じゃ、カミーユ、行こうか」
 念を押して、アムロはカミーユを半分ほど抱き抱えた。
「はい、アムロさん(v)……」
 カミーユにはさすがに、アムロの憂慮の意味は分かっている。しかし、恋は盲目。その上、コウは自分より年上だ。コウの疎さを侮っていた。まだよろけて見せながらアムロに甘える。
「じゃあ、コウ、後は頼むね」
「はい」
 そう言い残すと、アムロと、アムロに酷い負担とはならないように適度に自力で身体を支えた(普通に立って歩くより余程至難の業の筈だが)カミーユは連れだって部屋を出て行った。

「さて、と……」
 覗き込んだクワトロの顔色もあらかた戻ってきている。少しほっとしながら、コウはクワトロを背中から抱き上げようとした。が。

「……ふぅ…………さっきのはかなり効いたな……」
「あ、気がつきましたか?」
 背中に手を当てながら、クワトロがゆっくりと起き上がる。
「やはりアムロのプレッシャーは半端ではないな……」
 痛みも含まれはするがクワトロが床に伏せっていたのは、8割方、アムロの放ったプレッシャーの御陰だったようだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ……何とかな……」
 痛みに顔を歪めていても、まだ気分が悪そうでも、綺麗な顔立ちに変わりはない。コウは無遠慮にじっと見詰めてクワトロの様子を窺った。
 アムロの忠告は完全に忘れている。
「立てますか? アムロさん、カミーユの具合が悪いから、暫く戻ってこないと思うんですけど」
「何っ!? カミーユだと!! …………まったく、あんな子供が……」
「医務室、行った方がいいですか?」
 クワトロの怒りなど気にかけない様子で、コウはそっとこめかみの青痣に手を伸ばした。

「っ」
「あ……ごめんなさい。痛い……ですよね」
 自分の方が余程痛そうな顔をして、コウは即座に謝った。それにはクワトロも少々拍子抜けして、顔を微かに綻ばせる。

「いや、大丈夫だ。……それより、暫く部屋の主が不在なのなら仕方がない。私の部屋にでもどうだね」
 アムロがそのつもりなら……と、完璧ナンパモードに入っている。コウが自分の顔立ちを気に入ってといることを利用してか、極上の笑みまでおまけでつける。
「え、いや……でも、この後、ガトーと一緒にトレーニングルームで……」
「なに、そんなに時間は取らせんよ」
 自分一人が痛い目に遭うのも、不快な思いをするのも癪に障る。
 クワトロはコウの手を借りて立ち上がりつつ、裏のある、それが故に美しい笑みを惜しげもなく振りまいた。
 コウには、なかなか断る術も、その前に断る理由さえも思い浮かばず、ただyesの返事を返すことしかできなかった。

−続−
蒼下 綸 作

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