昔、家にあった画集の中で見たことがある。
 美しい天使が、片手に剣を、片手に天秤を携えて悪魔を踏みつけている絵。神の名の下に、猛々しく悪を討つ天使。
 天使というと、無垢な赤子の姿をしているイメージがあったが、そのイメージに反したその絵が、妙に怖い気がしたのを覚えている。

 休息時間にふと思い出し、簡単に検索を掛けてみる。
 幾つかの、中世期の絵画がヒットした。
 どうしてこんなものを思い出したのだか分からない。
 ただ、この絵に似たイメージが、曖昧なまま脳裏に浮かび落ち着かなくなる。
 何を思い浮かべようとしているのか、それすらよく分からない。ただ、何かが引っ掛かって気持が悪い。

「何、モニタ見ながら唸ってるんだ?」
「あ……ああ、お前か。ちょっとな」
「…………何だ、天使の絵? こんな高尚なものを見るのか」
「別にそれ程興味はないんだがな。何故か、急に気になって」
「ふぅん…………なになに、悪魔を討伐する大天使? へぇ、意外だな。天使も剣なんか持つのか。小さい子供のイメージだった。背中に羽根の生えた小さいやつ。あ、これ、補給依頼書と、先週分の訓練実施報告書な。それと、こっちが備品破損の報告書兼始末書」
「何を壊したんだ」
「シミュレーターの操作レバーだ。動きが悪くてつい力を」
「まったく……そういうところががさつで良くない」
 書類を受け取り、簡単に目を通す。どれだけ時代が進んでも、アナログなものはなくならないものだ。
 不意に、肩口に重みがかかる。後ろから画面を覗き込んできていた。

「なぁ、この天使、何で天秤なんか持ってるんだ?」
「あ? ……ああ、確か、最後の審判の時に、人間の魂の重さを量って、天国行きか地獄に堕ちるかを決めるんだ」
「…………へぇ…………なぁ、こんなもの調べたくなる前、あいつの資料、見直してたろ」
「ああ……何で分かる?」
「別に。何となく。……もういいだろ。消すぞ」
「おい、勝手に」
「そんなもの見直してるからだ。あいつは、こんな綺麗なものじゃない」
 声が僅かに籠もる。唇を強く噛んでいるのが分かった。
「神に似たものを表す名を持つ天使だ、これは。そんなものを……俺があの人と重ねるなんて、有り得ない」
「でも、無意識にそう感じたんだ。多分、夢見てるんだよ。結局、みんな……」
「それはお前もだろう。そんな悪口雑言を吐きながら、それでも、憎めもしない」
 背後から伸びた手が、問答無用でツールの電源を落とす。
 訳が分からず振り返ると、無表情で光の失せたモニタを見詰めていた。
 こういう時の表情には妙な艶が宿る。思わず息を呑んだ。
「俺達が間違っていて、あいつが正しいなんてこと、あるわけない。あっちゃいけない。あいつが裁く立場で、俺達が裁かれる側だって……そんなこと」
「人が人を裁くのは、法に則った手順を踏んだ時だけだ。その他の手段では、誰にもそんな権利などない。あの人に俺達を裁く権利がないように、俺達にも、あの人を……今のところ、裁く権利はない」
「俺達よりあいつが……法の下に裁かれる立場になる日は近いさ。あいつは必ず先手を打ってくる。そうなれば、俺達には大義名分が出来る」
「しかし、俺達はそうならない為に動いている筈なんだがな……」
「分かるだろう。宇宙にとって、どちらに正義があると思われているのか」

「大天使の持つ剣は、悪魔や異端に対して戦いも辞さない意志の表れだ。正義の為には血が流れることも厭わない……あの人が、そう標榜したいと望んでも、無理はないのか」
「違うな。あいつは偶像が嫌いだ。これ以上幻想に塗れることは望んでいないし、そんなに自分に対して夢も見てない。NTに対してはやたら夢見がちではあるけど、自分の身の丈は知っている男だ。だから……そう目論んでいるのは、あいつの側近達だと思う。幻想に幻想を塗重ねて、現実にはいない指導者を作り出そうとしている。宗教みたいなものだ。その祀り上げられるものが、神だとかそんな感じの目に見えないものではなく、現実に存在している人間だから尚更タチが悪い。あんなやつ…………本当に、どうしようもなく、馬鹿で下らないのに」
 理解できることと、受け入れられることは別だ。
「相変わらずお前は、あの人のことになると口が悪いな」
「罵らないだけマシだろ」
「それで罵っていないというのか、お前は」

「みんな夢を見すぎているんだ。もっと見限ったっていいのに」
「それはお前もだろうが。……いや、お前が多分、一番あの人に……」
「何処がだよ。あんなやつ」
「そういいながら、嫌いも、憎みもしていないだろう。それは、あの人のことを、お前が理解できているから、それに……あの人のことを認めている自分もいるから、違うか?」
「馬鹿なこと言うなよ。……ほら、さっさとサイン寄越せ。これからシミュレートプログラムの微調整があるんだ。暇じゃないんだぞ」
 書類の束で軽く背を叩く。鬱陶しく、ひったくるようにして受け取り、軽く目を走らせサインをして、押し返す。
「苦情が上がっていると報告があったぞ。お前に合わせたレベルにするなよ」
「えー、結構緩めに設定してるんだけどな……。あいつと当たったらあんなもんじゃないぞ」
「もっと細かく段階を踏め。一足飛びに成長できるわけじゃない」
「それじゃあ、間に合わないかも知れない。……心構えが足りてないんだよ。たまには叱ってやってくれ。俺ばかりが悪者になるなんてまっぴらだ」
 相手を倒せる程成長して欲しいとまでは思っていない。敵の頭を叩くのは、他の誰でもない、自分の仕事だと分かっている。
 だからこそ、他の誰にも邪魔をされたくないのだ。自分達の間に何も割り入ってこないよう、周りを牽制するだけの力は付けて欲しい。そう、願う。
「……まあ、今のプログラムについてはもう少し考えるさ。……あとは、俺に合わせた分の組み直し、か。なぁ、もうちょっといいシミュレーター手に入らないのか。多分また壊すぞ」
「……上には掛け合ってみるが、多分無理だろうな。俺達にこんなことをさせてはいるが、連中は本当にあの人が動くとは考えていないのだから」
「なら何で、こんな部隊に金を出すんだよ」
「宇宙に対する形を見て安心したいんだ。自分達が」
「……馬鹿馬鹿しい。だから……あいつが動かざるを得なくなるんだ」

 裁かせてなどなるものか。
 あれは、ただの愚かな人間だ。天使などではない。神の名の下に人を裁く権利など持たない。
 そんな責任などない。
 これ以上、負う必要のない責任を押しつけてはならない。

「あいつを動かしちゃいけないんだ。それを何で分からないんだよ……」
「だから、分かっている俺達が動いている。あの人を動かさない為に」
「…………間に合わない」
「それでも、俺達には、俺達に出来るだけのことをするだけだ」
「ああ…………」
 気ばかりが急く。手にした書類を、思わず握り締めた。
「おい、上へ提出する書類だろう、それは」
「……あ」
 冷静でいるつもりでも、これから先のことを考えるとどうしても焦ってばかりいてしまう。
 皺の寄った紙を丁寧に伸ばし、整え直す。
「早く行け。俺は、少し休むから」
「……ああ。……もうこれ以上、天使なんか探すなよ。そんなもの、何処にもいやしない」
「分かっている。俺は、それ程ロマンチストじゃない」
 肩を竦める仕草で返し、部屋を出て行く。
 その背中を十分に見送って、暗く画面の落ちた端末に軽く目を遣る。

 しかし、最早、天使を探すつもりにはなれなかった。


作  蒼下 綸

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