すーっと窓が開く。

 大人にも少し高い位置にある筈なのだが、その縁から子供の足が覗く。

 バランスと勢いを掴もうと揺れた足が、側の花瓶にぶつかった。

 ガッシャーーーン!!!!

 盛大な音がする。
 子供の足はそのまま部屋の中に降り立ち、花瓶の欠片を踏みつけながら抜き足でドアから出ようと…………。

「こらっ!! またやったのね!」

 白衣を着た美女が、腰に手を当てて子供を見下ろす。優しげな筈の美貌が、今は般若に見えた。

「もう……ちゃんとドアから入りなさいっていつも言ってるでしょう?」
 子供用の上履きは薄く、花瓶の欠片を踏んだ時に軽い怪我を負っていた。
 傍らの椅子に座ってそれを治療して貰いながら、子供は鬱陶しそうにそっぽうを向く。
「ドモン、聞いているの?」
「きいてる。レイン、うるさいぞ」
「それが先生に言う言葉? 染みるお薬付けちゃおうかしら」
「い、いやだっ」
 そう言われて腰が引ける。

 先生……とはいえ、生まれた時から知っている隣のお姉さんである。先生と言われても、ぴんとこない。その上、レインは保育士ではなく保健の先生だ。更に先生だという実感は薄い。
「またキョウジさん達から逃げてきたの?」
「ああ。にいさんたちのあいてをしてたら、ほいくえんににこられないからな」
「……あの人達も大概懲りないわね……」
「きょうは、ししょうもいっしょだった」
「…………園長先生達に後で言っておくわ。……はい、おしまい。今日のお当番はガトー先生だったでしょう? 門から来ればよかったのに」
 絆創膏を貼った上から靴下と上履きを履かせ、ぽんと膝を叩く。
「こっちからのほうがはやい。それに……」
 レインの顔を見上げる。ピンク色のルージュが、いかにも女性らしい。それに、白衣を突き破らんばかりの豊満な胸。
 女性・男性の別に気付き始めた年頃には、ちょっと頂けない感じだった。ぷくぷくとした頬が紅くなる。
「どうしたの? 顔が紅いわ。風邪でも引いてるの?」
「な、なっなんでもないっ!! 」
 窓から忍び込んで、保育園の中でいの一番にレインに会うことを日課としている……とは言えない。
 行動とは裏腹に、ドモンはかなり奥手でもあった。
「お熱は……ないわね。頭が痛かったり、気分が悪かったりするなら、ちゃんとすぐに先生に言うのよ」
「わかってる」
 額に当てられた手を無理に払って、ドモンは椅子から飛び降りた。
「明日はちゃんとドアからいらっしゃい」
「にいさんたちにいってくれ……」
 そう言いながらも、絶対に明日も窓からやってくるのだろう。
 レインは苦笑しながら、ドモンを廊下まで見届け、床の掃除に取りかかった。

 花瓶に生けられていたのは、昨日ドモンが園庭の片隅で摘んできたらしい名前も知らないような花が2、3本……。
 床からそれだけを拾い上げ、コップに水を汲んで机の上にそれを生ける。
「明日も蹴り散らかしたらお尻叩いちゃうから……」
 そう言いながらも、レインは微笑む。

 そしてその次の日の朝も、窓は開かれ、優しい風がカーテンを揺らしているのだった。


作  蒼下 綸

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