「あ〜〜……う〜〜…………」

 その日のお昼ご飯の時間。
 コウはスープ皿を目の前にして唸っていた。
 何故かと言えば…………まあ、言うまでもなかろうが、「人参」であった。

 大好きなクリームシチューの中に、何故か人より多めに入っている。

 小分けにされて運ばれて来るにしても、給食室でみんなに分けるのだから、一人にこんなに片寄らせてしまったら他の子の分がなくなってしまう。
 そう言ったら、担任には先生達の分を少しずつ分けて貰っただけだから気にするな、と言われた。

「キースぅ〜〜」
「いやだ」
「まだ、なんにもいってないよ」
「おれはじぶんのぶんだけでおなかいっぱいだ」
「……いじわる」
「それくらいたべちゃえよ」
「たべられないもん」
 黒目がちの瞳いっぱいに涙を浮かべてじーーーっとキースを見詰める。

「…………そんなめでみるなよ」
「ダメ? おねがい、キース」
 更に目をうるうるさせて見詰められる。
 キースは少し前に見たテレビのCMに出てくる犬を思い出した。
 お金を借りてまで犬を飼いたくなったおじさんの気持ち……分からなくもない。
 まあ、コウは確かに犬っぽいが、あんな小さな犬ではないだろうな、と思いつつ、キースはコウに逆らいきれなかった。

「わかった。コウ、こっちにいれろよ」
 溜息を吐きながら渋々自分の皿を差し出す。
 コウは瞬時に笑顔になった。
 何だかお尻の辺りにパタパタ振っている犬のしっぽが見えた気がして、キースはちょっとげんなりした。
「大好き、キース!!」
 ぎゅっと抱き付いてくる。
 コウのオーバーアクションはいつものことだが、何故か男に抱き付かれても嫌な感じがしないのは、いつもながら不思議だ。
「わかった! わかったから、はなれてくれよ。おれ、ごはんたべたい」
「あ、ああ、ごめん!!」
 言われてやっと離れ、人参をキースの皿へと追いやる。

 …………が。何個か移したその時、

「ええい、何をしているか!!」

 低い声での一喝に、コウとキースはぴしりと固まった。
 そして、二人の頭に一発ずつ拳が落ちてくる。

 勿論、これだけ騒いでガトーが気付かない筈もなかった。

「いたい〜〜」
「なんでおれまで〜〜」
「同罪だ! コウを甘やかせるのではない! コウ、今日という今日は許さんぞ。いい加減観念して腹に収めろ」
 上から睨み付けられ、キースはびくっとして小さくなった。
 大体ガトーはもの凄く大きくて身体にも厚みがあるから、見下ろされるとそれだけでかなり怖い。
 けれども、それとは反対に、コウはキッとガトーを睨み上げた。
 その反応に、何故かキースの方が青くなる。
「むり!」
「お前の為にせっかく作ってくれた、その恩義をお前は何だと思っている。お前が食べられるようになればと、人参を分けてくれた先生方も。恩を仇で返すのか。それがお前の義か!?」
「……………………ガトー……なにいってるのかわかんない……」
 相変わらず睨みながらも、コウは少し困った顔になった。
 この先生の言うことは、大体難しくてよく分からない。
「うむ…………つまりは、お前の為に頑張って食事を作ってくれた給食の先生に対して、お前は悪いことをしているとは思わないのか? ということだ。お前に人参を分けてくださった先生達も、お前の身体を大切に思って下さればこそ。お前は、その人達に有り難いと思う気持ちを持ってはいないのか?」
 頑張って噛み砕いても、やはり少し難しい。
 それでもまあ、言わんとするところは大体分かる、のだが……。
「ありがとう、っておもうけど…………たべられないもん」
「一欠片だけでも、食えないか?」
「むり!」

「…………………………そうか…………」
 コウのきっぱりとした拒絶に、ガトーはがっくりと肩を落とし項垂れた。
 その初めての反応に、コウは驚いてまじまじとガトーを見詰めた。
 怒られて、反発して。その毎日の繰り返しが絶たれる。
「お前は、人の好意すらちゃんと受け取れない子供だったのだな……」
「ガトー……?」
「もういい。好きにしろ。…………残念だ。お前はもう少し、思いやりのある優しい子供だと信じていたのだがな……」
 大きな溜息を吐いて、ガトーは自分の席に戻ってしまった。
「ぁ…………」
 大きな身体を縮まらせるようにして、落胆したままぼそぼそと食事を摂るガトーの姿に、コウは胸の辺りがぎゅっと何かに掴まれるような感じがした。

「あの、ガトー…………?」
 こんなにガトーを落ち込ませるとは思っていなかった。
 コウは焦燥感に駆られてガトーの膝元まで駈け寄り、よじ登るようにして縋り付いた。
「ごめんなさい……」
「…………構わん。人参以外は食べられるのだから、ちゃんと食事を摂れ」
「うん……」
 それでも離れようとしないコウの頭を軽く撫でる。
「もう時間がないぞ」
「はぁい……」

 促されて、やっと自分の席に戻る。
 コウは、まだ幾つかの人参が残された皿を目の前に、スプーンを握り締めた。

 ガトーをあんなにがっかりさせて、悲しそうな顔にしてしまったのは自分なのだ。
 皿とガトーを見比べて逡巡する。

 それはもう人参は苦手だ。
 臭いを嗅ぐだけでもダメなのに、それが口の中に広がるかと思うと何があっても絶対口にはしたくない。
 けれど…………。
 同じくらい、ガトーの悲しそうな顔を見るのも嫌だった。
 怒られるよりずっと。
 怒っている時は、自分の相手しかしないし、自分の事しか考えていない。それが、少し心地よくもあったりするのだが……。
 寂しそうだったり悲しそうだったりするガトーを見るのは初めてで、かなり心にクる。

 コウは勇気を出して、えいっとスプーンで人参を掬った。
「コウ!?」
 コウの行動をずっと目で追っていたキースが素っ頓狂な声を上げる。
 コウが自ら進んで人参をスプーンに取るなど、前代未聞の出来事だった。
「だいじょうぶか?」
「…………………………………………がんばる」
 とてつもなく悲愴な決意を胸に、青冷めた顔でコウはキースに頷いて見せた。
「そうか………………よしっ。がんばれ」
「…………うん」

 スプーンを握る手がぷるぷる震えている。
 緊張が移り、キースもごくりと生唾を呑み込む。
 口元まで運んだスプーンを、ぱくり、口に入れる。
 ちらちらと様子を窺っていたガトーは、小さく口元を歪めるようにして笑ったが、誰も見ていなかった。

 僅かな間。
 しかし、見る間にコウの顔が青冷めていく。
 キースはとてつもなく嫌な予感がして、自分の食器を放り出し、コウを引きずって手洗い場まで連れて行った。
「むりならはいちゃえよ」
「ん……ぅ…………ぅ〜〜〜〜」
 何とか呑み込もうと努力はするものの、コウの額には脂汗まで浮かんでいる。
「むりすんなって」
「ぅ…………んっ…………!!」
 小さな身体がびくりと震える。
 限界だった。
 キースは軽くコウの背を押して、自分は少し離れた。側にいたら貰ってしまう。

「せんせー、コウが」
 キースは何処までも面倒見が良かった。
 コウに対しては何故かひどく構いたくなる。

 キースに言われる前に、ガトーは先を予測してタオルや雑巾を用意していた。
 そして作戦失敗に溜息を吐いていた。
 コウは手洗い場に、人参だけではなくてその前に口に入れたものも、胃液も何もかも吐き出していた。
 人参が誘発したらしい。
「…………すまなかった、コウ」
 背を撫でてやり、コップに水を汲んで渡す。
 うがいをして何口か呑み込み、続いて渡されたタオルで口を拭きながら、コウは頭突きをするようにガトーに突進した。
「…………ごめんなさい」
「いい。保健室へ行くぞ。……他の者は、食べ終わり次第お片づけだ。食べたお皿を先生の席に集めておくこと。いつもどおりだ、分かるな」
「はーい」
 このクラスは比較的行儀のいい、先生の言うことをよく聞く子供が揃っている。
 ガトーは後を子供達に任せて、コウを抱き上げ、保健室へ向かった。

「ごめんなさい、ガトー……」
「がんばったな」
「……でもできなかった……」
「少しずつ慣れていけばいい。そのうち、美味しいと思う様になる」
「うん……」
 コウは負けず嫌いだった。
 駄目なものは駄目だとは思うが、負けてる感じがして何だか悔しい。
 次また頑張ろう、と決意できる、前向きな子供だった。まあ、その「次」の時には、悔しい気持ちより必ず人参の香りなどの方を強く思いだしてしまいはするのだが。
 しかし、それに……。

 今、ちょっとだけガトーが褒めてくれなかっただろうか?

「またこんどがんばる」
「ああ、そうしろ」
 ガトーはあまり見せることのない柔らかな表情で微笑み、コウの頭を撫でた。
 コウは少し嬉しくなって、ガトーに擦り寄った。

 何だかんだといいながら、仲の良い二人だった。


作  蒼下 綸

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