「みんな、おはよう」
「あ、れ? アムロせんせい??」
 その朝、保育室に入ってきたのはいつもの先生ではなかった。

「おはよう、コウ」
「おはよーございます! ねぇ、ガトーは?」
「ガトー先生、でしょう?」
「はぁい。ねぇ、」
「ガトー先生は今日お休みなんだ。だから、今日は僕が、みんなと一緒に遊んだり、お歌を歌ったり、ご飯を食べたりするからね」
 ぽん、と頭に手を置かれる。
 いつもガトーにしているように突進することも出来なくて、コウはただ大人しく撫でられた。
 多分、ガトーの半分くらいしか体重もないであろう小柄なアムロに、無茶は出来ない気がする。

「ガトー、びょうき?」
 お休み、と聞くと、それくらいしか思い浮かばない。コウは不安になってアムロを見上げた。
「違うよ。おうちのご用事なんだ。心配しなくて大丈夫だよ」
 そう言いながらコウを抱き上げ、部屋の真ん中まで行く。
「ぼく、おもくない?」
「そうだねぇ……大きくなったね。ガトー先生みたいに4人も5人も抱っこは出来ないけど、コウとキースくらいなら大丈夫だよ」
 片腕にコウを移し、空いた手でコウがいるところは大体何処にでも一緒にいるキースを抱き上げる。
 少し重いが、大人の男の腕力で出来ないことでもない。
「まあ、ガトー先生みたいに、このまま遊ぶことはちょっと難しいけどね」

 二人を降ろし、部屋を見回す。
 今のところお休みや遅刻の連絡のある子はいない。全員が揃うには、まだもう少しかかりそうだった。

 その時、ふと、一人の園児と目があった。

 じっとアムロを見詰めている。しかし、目が合ってすぐ、視線を反らしてしまった。
 何となく、頬が赤い。
 気になって、アムロはその側に屈んだ。

「どうしたの?」
 声と気配に驚いて、キャスバルは大きく目を開いてアムロを振り返った。
 ひどく澄んだ碧い瞳に見詰められ、アムロの方が微かに気後れしてしまう。

 キャスバルは、この保育園の中でも1、2を争うほどの美しい顔立ちをしていたし、それは、園外に出てもそう変わる認識ではないだろう。
 その上顔の造作も、髪や目の色合いも、非常にシャアに似ている。アムロとしても気になる子供だった。
 聞けば、遠縁に当たるらしい。
 血筋とは言え、こうまで似ていると隠し子の可能性さえ考えてしまう程だが、幸いキャスバルの身辺はとてもクリアだった。

「いいえ。なんでもありません。おはようございます、アムロせんせい」
 にっこりと微笑む、その微笑み方までよく似ているもので、アムロはつい苦笑を返した。
 大人びすぎた笑顔を見ていると、不意に何故か辛くなる。
 とても愛想の良い可愛い子にしか見えないが、キャスバルもまた寂しがり屋なのだとアムロは知っていた。

「おはよう、キャスバル」
「シャアおじさん、きょうもねばっていましたね」
「本当にね。大人げないったらないよ」
「でも……おじさんのしんぱいも、わかります」
「え?」
「せんせい、このところ、とてもつかれているようにみえますから」
 すっと下から顔が寄せられる。
 まだまだ小さな手がそっとアムロの頬に触れ、そのラインを辿った。
「そうかな?」
「しんぱいごと、ですか?」
「君が気にすることじゃないよ」
「おじさんならいいのに? ぼくだって、せんせいがそんなかおするところ、みていたくないんですけど」
 声も顔もまだ幼いのに、シャアが重なって見える。
「ぼくではまだ……たよりにならないかもしれません。でも……」
「そんな事ないよ。ありがとう。でも……先生失格かな、君達にそう見えてしまうなんて」
「いいえ。ぼくはずっとせんせいをみているから、きがついただけです」

 本当に…………本当に、キャスバルはシャアに似ていた。
 あまりの既視感に軽い目眩すら覚える。
 それと同時に、アムロは、非常にキャスバルの将来が心配になった。

 そんなアムロの様子を気にもかけず、キャスバルは、アムロの手を取り、自分の胸に押し付ける。
「そとでは……あのおじさんにはかてませんけど」
「……キャスバル?」
「ほいくえんのなかでは、せめて、ぼくがせんせいをまもります。いいでしょう?」
 握られた手の甲に、そっと愛らしい唇が押し当てられる。

 ………………本当の、本当の、本当に…………。

 アムロは、小さく溜息を吐いた。
 これが血のなせる技だというのだろうか。
 しかし、アムロが知るシャアの血縁者の中で、最も大人びているように思えるのがまた、呆れ気分を増長させる。
 ……大体、シャアが幼すぎるのではあるが。
 キャスバルはシャアより反応も対応も、更には言うことまで大人だった。それだけではなく、紳士的にすら感じる。

「ずっとまえから、いおうとおもっていたんです。でも、せんせい、あまりこのへやにはきてくれないから」
「……そりゃあねぇ……。このクラスはガトー先生一人で十分見られるもの。みんないい子だからね」
 さすがに子供に邪険にも出来ず、アムロは困り顔で部屋を見回した。
 登園時間とされている時刻まで、まだ15分ほどあった。
 まだ園児も揃いきっていない。

「せんせいのこと、だいすきです。いつか、ぜったい、せんせいをおよめさんにもらいますから。それまで、あのおじさんのところで、がまんしていてくださいね」
「キャスバルは男の子だから、女の子としか結婚できないんだけどなぁ」
「やくそくしてください」
 人の言う事を聞かないところまでそっくりだ。
 アムロは苦笑することも出来なくなりながら、キャスバルと小指を絡めた。
「いつか、ね」
「はい。やくそくのしるしです、これは」

 ちゅぅ。

 ……………………。

 ………………………………………………。

「あーーーーっっ!! キャスバルくんとアムロせんせいがキスしてるーー!!!!」

 そう、コウの大きな声が保育室中に響くまで、アムロは固まったまま動けなくなっていた。

 自分の知るどの唇よりも小さく、柔らかなものが押し当てられている。
 触れ合いそうな位置に、長い睫がある。
 何故だか見慣れている気がした。
 さすがにキャスバルがそこから先を知っている筈はないが、それでも。

 知っている感じのする口付けだった。

 目眩が…………。

「ずるいよ、キャスバルくん!! ぼくだってアムロせんせいにキスしたい!!」
「わたしも!!」
「ぼくだって!!」
「うわぁっ!!」
 僅かの間でも、呆然としていたのが災いした。
 八方から群がる子供達によじ登られ、揉みくちゃになる。
 そして、容赦のないキスと唾液に収拾がつかなくなる。

 そのとき……。

「みんな、さがれっ!!!!」
 一喝。
 一瞬にして、しんとその場が静まる。
「せんせい、だいじょうぶですか?」
「あ、ああ……うん……」
 キャスバルはアムロに手を差し伸べ、体勢を立て直させながらクラスメイトを一瞥した。
「ガトーせんせいにするのとおなじようにして、アムロせんせいがだいじょうぶだとおもうのか?」
 すっと、瞳が冷気を帯びる。
 口火を切ったコウをその怜悧な視線で見詰める。
「コウくん。たしかに、ぼくがせんせいをひとりじめして、ずるかったかもしれない。しかし、いきなりとびかかるのはしつれいだろう?」
「う……うん……ごめんなさい」
「みんなも。せんせいがけがをしたらどうするんだ?」
 1人1人の表情を確かめる様に見回していく。
 上に立つものの自然な威厳すら感じさせる。
 生まれつき、とはよく言ったものだ。

「ありがとう、キャスバル。でも、もういいよ。みんな、先生の事を好きでいてくれてるんだなぁ、って、嬉しかったから。今度からはもう少し、気を付けて欲しいけどね」
 キャスバルに叱られて萎縮してしまったコウの頭に手を置く。
「せんせい、おかお、あらってきてください。そのあいだに、ここ、かたづけますから」
 見れば、何人もが一斉に群がったため、周りにあった遊具や絵本が散乱していた。
「あ、ああ。うん。すぐに戻って来るからね」
「はい」

「何かあったのか? えらく騒がしかったようだが」
「ううん。何でもない」
 職員室へタオルを取りに入ると、ブライトが驚いたように声を掛ける。
 アムロは複雑な、けれども笑顔で首を横に振る。
「お前、その顔で言うか?」
「え?」
「顔、べとべとだぞ。それに、クレヨンも少しついている」
「うん。今から洗うよ」
「まあ……あのクラスは、行儀だけは良い子が多いから、そう問題は起こらんだろうが」
「みんないい子だよ。……ちょっと複雑だけど」
 行儀だけは…………。
 キャスバルの言葉の一つ一つと行動を思い出して、小さな苦笑が洩れる。
「どうした?」
「キャスバルの行く末が心配になってきた」
「?」
「……シャアに似すぎてない? あの子」
「そうかな……。お前ほどシャアと接していないから、よく分からんが」
「後で保育記録出すからさ」
「ああ」
 タオルを片手に戻っていくアムロを眺めながら、今日一日度々5歳児クラスに行ってみようと思ったブライトだった。


作  蒼下 綸

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