「おはよーございまーす」
「おはようございます。お願いします」
「おはようございます。お預かりします」
 園児達が次々に登園してくる。
 もうそろそろ登園時間が終わる。
 アムロは門扉に凭れ、遥か道の向こうを見詰めていた。
 傍らにはやはりぎりぎりの時間までアムロの側にいるシャア。そして、今朝のお当番のセイラがいた。

「……兄さん。そろそろお仕事に行った方がよいのではなくて?」
「門が閉まれば行くさ」
「しつこい男は嫌われてよ」
「シャア……俺は大丈夫だってば。今朝秘書さんから電話かかってただろ。行かなくていいのか?」
「構わん。電話で済む用事だったのだ」
 アムロはちらりと上目遣いにシャアを見た。
 見返すシャアの瞳の色がいつもより深い様に見える。
「俺、大丈夫だよ」
「君の大丈夫ほど当てにならないものもないがな。…………どうやら今日も来ない様だな」
「……うん。この時間まで来ないんじゃね……」
 再び道の向こうに視線を馳せる。目当ての姿はない。
 アムロは小さく、けれども深く溜息を吐いた。

「アムロせんせー……」
 そろそろ、と門を閉めていた所へ、そっとジュドーが歩み寄る。
「きょうもおやすみ?」
 大きな瞳が心配そうにアムロを見上げる。
「大丈夫だよ、ジュドー。君はお部屋に行こうね」
 頭にそっと手を置いて微笑む。
「セイラさん、ジュドーを連れて行ってあげて下さい。門、僕が閉めますから」
「分かったわ。行きましょう、ジュドー」
「……はぁい……」
 振り返り振り返り、セイラに手を引かれて部屋へ戻っていくジュドーを見送りながら、もう一度溜息を吐く。微笑みは強張って、不自然に崩れるしかなかった。
「大丈夫…………」
「そんなに心配なら、終業後に様子を見に行けばいい。今日は早出だったのだから、帰りは早いのだろう?」
「うん。17時くらいには上がれる。…………一緒に行ってくれないかな」
「了解。では、それくらいの時間に迎えに来よう」
 シャアの手が優しく髪を梳く。
 アムロはシャアのするに任せながら正門を閉め、鍵をかけた。側の通用門も、鍵はかけないものの軽く金具を引っ掛けて止める。
「頑張って仕事に励んでおいで」
「うん……貴方もね」
 どちらからともなく、門越しに唇を重ねる。
 それは、アムロの就業時間を知らせるチャイムが鳴るまで続けられた。

 ここ5日ばかり、カミーユは姿を見せていなかった。
 欠席の知らせもなく、電話をかけても家には誰もいない。両親どちらの勤め先に連絡を取ろうとしても、真面に取り次いでさえ貰えない状態だった。
 病気だったとしても連絡を入れるのは当然の事だ。また、連絡が取れないのなら、ある程度の事情を伝達するのも義務だろう。
 カミーユのことを少なからず思う者達は、相当に心配していた。

「ここ、みたいだね」
 ごくごく一般的な住宅街のただ中に、カミーユの家はあった。
 とてもミスマッチな高級車を門前に停め、二人揃って玄関に立つ。
 周りの家々に比べれば少しばかり大きいが、その分庭の手入れの杜撰さが少々見苦しい。
「いないんだろうなぁ……」
「まあ、とりあえず」
 チャイムを押す。
 反応はない。
 もう一度。
 ……やはり反応はない。

 と。

「あのぅ……ビダンさんのお宅にご用ですか?」
 不意に、隣家から声がかかる。
 隣の家の主婦らしき人物が、二階のベランダで洗濯物を取り込みながらアムロ達を見下ろしていた。
「はい。あの、今お留守でしょうか」
「多分。……殆ど家にいませんよ、その家の方。……最近お坊ちゃんも見ないわねぇ。朝夕の保育園の行き帰りくらいは見かけていたのに。お家にいるのかしら。奥さんも旦那さんも、連れているところをここ何日か見てないわぁ」
「保育園には来ていないんです」
「あら、そうなの……。貴方、保育園の先生?」
「ええ……」
 話好きの隣人で良かった。アムロとシャアは軽く視線を合わせて肩を竦める。
「でも、あのお坊ちゃんも可哀想よねぇ。顔を合わすたびに夫婦喧嘩されたんじゃたまらないでしょ。5日くらい前なんて、そりゃもう酷かったんだから。ガラスは割れるし、怒鳴り声なんて、このご近所中に響いてたし。あんなんじゃ、ほんとに真面に子育てなんか出来てるのか……あら、やだ。今のは内緒にしてくださいよ。ただでさえ、ご近所づきあいを鬱陶しがられてるんです」
「ええ。いろいろと教えて下さってありがとうございます」
「全くねぇ……あんな可愛い子、いらないなんて言うなんて……」
「それ、いつも言っているんですか?」
 アムロの表情が翳る。しかし、主婦にとってはどうでもいいことだった。それより、自分の話したいことで手一杯のようである。
「さぁ……でも、よく怒鳴ってますよ。御陰でうちのご飯まで不味くなります。でも……そんなに怒鳴らなくっちゃいけない子にも見えないのにねぇ。騒いでる所なんて見たこともないし。服を汚してるところだって」
「カミーユはとてもいい子ですよ。大人の手を煩わせることをしない……」
「そうなんですか、やっぱり。だから、うちも旦那とおかしいなって言ってたんですよ」
「そうですか……。ありがとうございます。どうぞ、お仕事を続けられてください。もう随分日も落ちましたから」
 話の量に辟易しつつも、アムロは柔らかく微笑んでそう言った。言われて主婦も、漸く茜色の西の空に気が付く。
「あら、やだ。じゃあ、私はこれで」
 そそくさと籠に乾いた洗濯物を詰め、主婦は部屋に入って行った。

「さて、どうするか」
「カミーユ……まさか、家に一人ではいない、よね……」
「ありえん話ではないが」
「……乳幼児を長時間一人で放置するのも、虐待に入るんだよ……」
「ネグレクトというやつか。しかし、なかなか難しいな。ただの留守番との兼ね合いは」
「保育園にも行かせないで、誰もいない家でひとりぼっちで放っておかれるんだよ。想像しろよ。お留守番なんかとはレベルが違うだろ」
「うむ……」
 もう一度、チャイムを押す。
 更に、ドアを叩く。
「カミーユ、いるのなら返事をしたまえ!! 私だけではなく、アムロもいる!」
 返事はない。
 が、何か微かな物音がした気がして、シャアはもう一度ドアを叩いた。
「カミーユ、いるか!? アムロ、君の方が気配には聡いはずだ。分からんか?」
「う……ん……。カミーユ、いるの? いるなら、お返事してくれるかな?」

 ゴトリ。

 今度はもう少し確かに聞こえる。
 アムロとシャアは顔を見合わせた。
「いるんだね、カミーユ」

「………………せんせい?」
 蚊の鳴くような声が聞こえてくる。どんなに小さな声でも、それは確かにカミーユの声だった。
「ここ、開けられるかな? 先生、カミーユのお顔を見たいな」
「…………ごめんなさい。できません……」
「そっか……」
「おにわにきてください。そこだったら……」
「分かった」
 急いで庭に回る。

 まだ日は落ちきっていない。周りは十分に明るい。
 庭に周り、リビングとおぼしき辺りの窓に近寄る。
「カミーユ」
「せんせい!」
 アムロの姿を認めて窓辺に駆け寄り、カーテンをはね除ける。
 その姿を見て、アムロは息を飲んだ。

「カミーユ……」
 目の下に濃いクマが出来ている。ふっくらしていた頬も痩け、肌も唇もやけにかさついているように見える。
「あ……えっと…………おかぜ……ひいて……」
 アムロが何を見ているのかに気付いて、辿々しく説明する。
 ガラス一枚だけの距離の筈が、ひどく声が弱々しい。
 恐らく食事を摂っていないのだろう。立っているのがやっとといった様子だ。
「そっか…………」
 言葉の嘘に気付きながらも、アムロはただそれだけを返す。
 一言言おうとしたシャアを、小さく手を閃かせて留める。シャアが口を開いては、ろくな事になりそうにない。
「だいじょうぶです。……せんせい、どうして、きてくれたんですか?」
「君がずっとお休みしていたから、気になってね」
「……かぜがなおったら、ほいくえんにも……」
 アムロを見詰める目が昏い光に揺れる。
 アムロは微かに目を細め、下に膝を付いてガラス窓に手を付けた。温もりを求めるようにカミーユも手を伸ばし、硝子越しにアムロの手に触れる。
 その手の指先には、少し縒れた絆創膏が幾つも貼ってあった。カミーユが自分で巻いたのだろう。
「お指、痛いね。切っちゃったの?」
「はい……ほうちょう、はじめてつかったから……」
「そっか…………」
 何かを作ろうとは試みたのだろう。しかし、この様子では、真面に食べられるものは出来ていないようだった。
「せんせい……」
 声にならない、けれども、唇がそっと言葉を紡ぐ。

 たすけて。

 アムロは、ガラスに付けた手を固く結んだ。
「……カミーユ……ここ、開けられる?」
「………………ごめんなさい」
 鍵はカミーユにも届くところにある。仕組みが分からぬほど幼いわけでもない。しかし、カミーユは鍵を睨んだまま動けなかった。
「……そうだね。お母さんやお父さんのいない時に、他の人をお家に上げちゃ駄目だものね。カミーユ、よくお言いつけを守れて、本当に偉いな」
 微笑みは決して絶やさない。カミーユの努力を無に帰すことは出来ない。
 褒められて、カミーユは微かに表情を緩めた。
 しかし、すぐに笑みは掻き消え、虚ろな表情になる。
「何か、食べたいものとか、ない? すぐに持ってきてあげるよ」
 もう何日食事をしていないのだろう。
 放置されている間、子供一人で口に出来るものなど限られている。
 しかし、カミーユはゆっくり首を横に振った。振ったことで少しめまいを起こしたらしく、窓に縋る手に力が入る。
「せんせい…………もう、かえってください……」
「うん……もうじき、お母さんが帰ってきてしまうね」
「かえってきません。でも……となりのおばさん、おしゃべりだから」
「帰ってこないの?」
 カミーユは素直に頷いた。
「きのうも、そのまえのひも、かえってこなかったもん……」
「そっか……一人でお留守番、偉いね」
 カミーユの言葉からすれば、少なくとも3日は帰ってきていないことになる。保育園の出席や、隣家の女性の言葉も含めれば、恐らくそれよりも長い間。
 その間カミーユはずっと一人きりだったというのか。
「ねぇ、カミーユ。お電話、自分でかけられる?」
「はい。たぶん」
「保育園の番号、分かるかな?」
「わかりません」
「じゃあ、紙とペンを持ってきて。先生の携帯電話の電話番号、教えるから。いつでもお電話かけていいから。寂しいときとか、ね。先生、すぐに来てあげるから」
 カミーユは利発だ。数字の読み書きも出来る。
 カミーユはすぐに、電話の側にあったメモ帳と鉛筆を持ってきた。

 アムロは自分の携帯番号とシャアの携帯番号をカミーユに書き取らせ、復唱させて確認を取った。
 そして、電話の子機を持ってこさせ、試しに電話をかけさせてもみる。
 カミーユはものの呑み込みも良いし、間違えることなくアムロに電話をかけることが出来た。
「良くできたね。そのメモは、大事にしまっておいて。どんなに夜遅くでも、どんなに朝早くでも、先生、ちゃんとお電話取るからね」
「はい。…………せんせい、また……きてくれますか?」
 メモを折り畳み、大事そうにポケットに片づけてから、カミーユは不安に揺らぐ瞳でアムロを見上げた。
 その潤んだ瑠璃色の瞳を見ていると、このまま抱き締めて連れて帰りたい衝動に駆られる。
「もちろん。カミーユ……明日も、また来るからね」
 声が震える。肩も。その背を優しくシャアが包む。
「ありがとうございます…………せんせい、ほんとうに、もうかえったほうがいいです。ぼく、だいじょうぶだから……」
 カミーユは窓辺から数歩下がり、多大な無理をして微笑んだ。
 子供にさせていい表情ではなかった。
「もう少しここにいるよ」
「かえってください! だいじょうぶだから……だから…………」
 今にも泣き出しそうに顔が歪む。しかし、アムロが言葉を発する前に、カミーユは勢いよくカーテンを掴んで閉ざした。
「カミーユ……」
 閉めたカーテンに縋るように立っているのが、部屋と外との光量の差でぼんやりと浮かび上がっている。
 身を竦めたアムロを、シャアはただ抱き締めてやることしかできなかった。

 カミーユの拒絶を受けては、渋々にでも引き下がるしかない。家の前に駐めた車に乗り込んでからも、二人の間を重い沈黙が包む。
「シャア…………」
「何だ……?」
「児童相談所まで行ってくれる? そのあと、警察も」
「ああ……」
 アムロの声は、何処までも凍り付くような冷たさを孕んでいた。迂闊に触れると切れてしまいそうな程の冷気が、アムロの全身から立ち上っている。
「それから…………最悪の事態になった場合、カミーユをうちに置いてあげてもいい?」
「アムロ、それは」
「最悪の事態、って言ってるだろ。一時的な保護か、恒久的な保護かはその時にならないと分からないけど……」
「一時的ならともかく……難しいぞ」
「俺は、引き取れるものなら引き取りたいと思ってる。いざとなったら、あの家を出てもいいよ」
「それは私が嫌だ。しかしな、子供を引き取るというのは、簡単なことではない。短期間面倒を見るだけならばいざ知らず、育てて行くとなれば……半端な責任感では、我が身だけではなく子供にとっても不幸になる」
「分かってる」
「分かっていない。一時の感情に流されるな」
 シャアは常になく厳しい口調でアムロを諭す。しかし、アムロは聞く耳を持たなかった。
「分かってるよ!! それでも、俺にはあの子を放って置くことなんてできない!!!!」

 アムロに思い切り睨まれて、シャアは口を噤んだ。
 アムロは柔和な見かけとは裏腹に、かなり我が強い。口論では大抵シャアが折れるしかなくなる。

「……正義感に酔うな」
「……酔ってなんかない。正義じゃないよ。こんなの。……正しい義を通すのなら、カミーユの両親に、カミーユを愛して貰わなきゃ……」

 シートの上で膝を抱える。真っ直ぐ前を見詰めて親指の爪を噛む。
 シャアは小さく溜息を吐いた。このアムロの態度では、ここでどれだけ話し合おうとしても無駄だ。経験上、それだけははっきりと分かる。
 シャアは、大きく溜息を吐いた。
「……分かった。一時保護はできるよう、手を回しておく。それ以上は、私達だけの意思ではどうにもならんことだけは分かっているな?」
「分かってる………………ありがと」
 ことり、とアムロの頭が肩に凭れかかってくる。
 シャアはそっとアムロの肩を抱いた。

「君には負ける」
「この話、貴方にとってだって、悪くはないと思うけど?」
「……まあ、十分に美談になるだろうからな」
「貴方の社会的地位があれば……出来ない相談じゃないだろ」
「使えるものは何でも使う気だな?」
「当然。あの子を救えるならね」
 顔を上げ、シャアを見詰める。
 瞳にははっきりとした決意が滲んでいた。
「子供は金もかかるぞ」
「何とかしてみせるよ。…………ハロに関する権利を売ってもいい。貴方の会社を含めて、何件かオファーは来てるし。億単位の金にはなるから、何とかなるさ」

 ハロが完成してからもう何年も経つ。
 シャアや、噂を聞きつけた企業から幾度も高額で販売権を売って欲しいというオファーはあったが、それを断り続けていた。
 ハロはアムロにとって子供に等しい物だったし、いろいろに……しようと思えば軍用にすら転用できる物でもあったから、拒み続けて来たのだ。
 今までシャアにさえ許さなかった事すら視野に入れている。
 シャアはアムロの揺るがない決意を感じて納得せざるを得なかった。

「…………そこまで考えているのだな。……仕方ない。分かった。弁護士に話を通しておく」
「お願い」
「しかし、カミーユは…………私達の所に来たがるだろうか。とても一途に親を慕っている様だったが」
「…………うん……」
 諭すように言うと表情が翳る。
「あの子の意志が最優先だろう?」
「勿論! だけど……どれ程あの家にいたいと言っても、今のまま放っておくことは出来ない俺達のところが厭だって言うなら、養護施設に入れるしかなくなる」
「ああ……」
 子供にそうするように、アムロの髪を優しく撫でる。
 アムロは少しぐずるような仕草でシャアに頭を擦り寄せた。
 程良く口元に来た頭髪や額に、シャアは繰り返し口付ける。アムロが酷く不安定になっているのが分かる。
 長い付き合いから、キスがアムロの落ち着きを取り戻すと知っていた。
「車、出して」
「ああ……」


作  蒼下 綸

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