「電話、出ませんねー……」
「そう……ですか……」
「前にも届けて頂いていましたか?」
「はい。2ヶ月前と3ヶ月前……それから半年前……」
「……ああ、ありました。カミーユ・ビダン君、4歳ですね。ええと…………うーん……記録では、3回とも自宅、職場共に不在となっていますね」
「保育園の方でも連絡を取ろうとしているのですが、なかなか……」
「そうですか……。しかし、今日は時間が時間ですし……明日、カミーユ君の自宅と、ご両親の職場をこちらの職員が訪問してみますので。ご報告、ありがとうございました」
「……………………お願いします……」

 なんて無力なのだろう。
 アムロは強く唇を噛んだ。

 結局、警察も児童相談所も、対応はそんなに変わりなかった。
 切々とアムロが訴えても、電話に誰も出ないことと現在の時刻を理由に、明日に回されてしまう。

 肩を落としたアムロを抱き寄せ、優しいキスを繰り返す。
「……仕方がない。明日一番、私がまた来よう。君よりはまだ時間の都合が付く。君はブライトへの報告もあるだろう?」
「うん…………」
 こうしている間にもカミーユはひもじく孤独な思いをしている。そう思うと、いても立ってもいられない気になる。
「シャア……」
「分かっている。母親の職場だな?」
「うん。お願い」

 しかし、それは徒労に終わった。
 カミーユの母親が勤める大学はセキュリティが厳しく、学生ですら事前に届けなくては居残ることも出来ない。
 守衛に言付けだけは受け付けて貰えるようだったが、それもひどく無愛想で、迷惑がられているのが分かるような有様だった。
 急を要するのだと何度も説明して、目の前で研究室へと電話を入れて貰ったが、やはり取り次いでは貰えなかった。

「…………何で…………」
「どのみち相談所と警察に行くついでだ。明日の日中、私が来る。弁護士も連れてな。だから今は……」
「……何で……自分の子供を何日も放って置けたりするんだよ……」
「アムロ、帰ろう」
「何で? ねぇ、何で……何で…………」
 強く握った拳でシャアの胸を何度も叩く。
 シャアは緩く抱き寄せながら、アムロのしたい様にさせた。
「アムロ…………」
「何で……………………」
 アムロの背に手を回し、あやすように軽く叩く。
 アムロは叩くことを止めて、シャアに身体を預けた。
「明日、きっと全ては好転する。今日の所は、カミーユと共に堪えるのだ。君や私の苦しみは、決してあの子の苦しみを上回ることはないのだからな。そしてきっと…………ビダン夫人だって、苦しんでいるだろう。良心の呵責に苛まれながら。先日、彼女は君に一晩子供を預けた。今の様に……いや、一晩だけならば今よりもまだマシな条件で家に置いておく事だって出来たのに、だ。それは少なくとも、子供をどうでも良いものだとは思っていなかったという証拠だろう? 今は少々感情的になっているだけだ」
「うん……」
 癖毛に口付けを繰り返しながら、尚も囁く。
「ならば、だ。夫人と冷静に、論理的に話し合えば、きっと問題は解決する。愛せるか愛せないかは別の話になるが……少なくとも、今のこの状態だけでも」
「…………うん……」

 シャアの言葉には力がある。
 人を安心させ、信じさせるだけの力が。
 アムロも耳に心地いいシャアの声を聞きながら、次第に落ち着きを取り戻す。

「今は家に帰って、明日からどう動くか考えねばな。当然、このまま引き下がるわけではないのだろう?」
「当たり前だろ。帰るぞ」
「君も少し落ち着かねばな。何処かカフェにでも寄るか?」
「いい。帰って朝を待つ」
「分かった。とびきりの紅茶を入れてあげよう」

 しかし、家に帰っても話は対して進展しなかった。
 精々翌日の為に、アムロの携帯からシャアの携帯へとカミーユに関する電話番号のメモリーを移した程度だ。
 シャアが拘って淹れた紅茶も殆ど口にせず、アムロはリビングのソファの上で膝を抱えて座り込んでしまっている。
 癖の仕草で爪を噛んでいるが、いつもは注意するシャアも、今日ばかりは小言を言わなかった。

「アムロ、今日は早く寝るぞ」
「ん……」
「これでも飲んで」
 紅茶が入ったままのカップに、香り付けには多い量のブランデーを落として差し出す。
「……ありがと…………」
 やっと小さく微笑んでカップを取り、口を付ける。シャアとは違い、味や香りに拘る方ではない。もう随分冷めていたこともあって、ほぼ一気に飲み干す。

「おかわり。ブランデーだけ」
「駄目だ。君にとってはもう十分飲んでいる。これ以上は、」
「ケチ。貸せよ」
 油断していたシャアの脇を掠め、テーブルに置かれていた瓶を取りカップに空ける。
「こら。君は弱い上に酒癖が悪いのだから止めたまえよ」
「うるさい」
「先に飲ませ過ぎたか……」
 シャアの後悔ももう遅い。
 ちびちびと飲み進めるうちに、どんどんアムロの目は据わっていった。

 注いだ分が尽き、再び瓶を傾けようとしたところを何とか取り上げる。
「何だよ、返せよ!」
「もうお終いだ。ベッドへ行きたまえ」
「抱いてくれんの?」
 酔いでとろりと揺れる瞳がシャアを捉え、するりと腕や足が絡み付いてくる。
「……君は本当に酒癖が悪い……こういうことは、素面でして欲しいものだな……」
 積極的ながら酒臭いキスを受けつつ、アムロを抱き上げベッドへ運ぶ。

「明日、相談所には開所と同時に行く。弁護士を連れてな。出来る事なら、その場で保護できるように尽力する。……って、聞いているのか? 君は」
「……聞いてる……」
 誘っても乗ってこないシャアが不満で、アムロはぷいと顔を背けた。
 そのままごそごそと、ブランケットに包まる。
「考えるに、養子でなくとも、親権者からの委任があれば、長らく保護は出来るのではないか? 無理矢理にでも、両親を話し合いの場に引きずり出す。そして、説得できる様なら、その場で明文化し、法的効力を持つ書類に仕立てて裁判所に提出しよう。いいな?」
「……うん…………」
「君ねぇ……もう少し真面目に聞きたまえ。君があの子を保護したいと言うから、こうして私も尽力しようとしているのだぞ?」
「分かってるよ。ありがたいと思ってる……」
 シャアは僅かに眉を顰め、ブランケットの端を引っ張った。それでも出てこない。
「アムロ……私も怒るぞ」
「ありがとうってば!!」
「そんなに私に抱かれたいのか?」
「そんなんじゃない! ただ…………」
「ただ……何だ?」
 ブランケットを手繰り寄せ、枕に顔を伏せる。
 シャアはその上から覆い被さるようにして、アムロの顔を覗き込んだ。
「何を怯えている?」
「…………じっとしていたくない……」
「君は少しマイナス思考なきらいがあるからな」
 ちらりと覗いている額に口付けを落とす。アムロは身を捩ってシャアを見上げ、そっと目を閉じた。

 唇が重なり合う。
 アルコールの香りと唾液が入り混じる。
「ぅ……っん…………」
「何も考えるな。今君が思い悩み、自分の想像に傷付いたところで、状況が変わるわけではない」
「分かってる……けど…………」
「できない、という顔だな。ふむ…………」
 するりとブランケットの中にシャアの手が滑り込む。
 手探りにもかかわらず、その手は的確にアムロの胸を這い、突起に指を引っかけた。
「っ!」
「考えられなくなればいいのだろう?」
「……………………うん……」
 返答にシャアは目を細めた。
 今日のアムロは本当に尋常ではない。そんなアムロにしてやれることは…………この場合、ただ一つだけ。

 シャワーを浴びた後、意識のないアムロの身体を濡れタオルで清め、シャアは暫くぼうっとアムロの顔を眺めていた。
 そっと前髪を梳いてやる。こうして目を閉ざしていると、出会った頃の侭、ひどく幼く見えた。
 この幼げで柔和な、美しい顔を苦しみに歪ませたくない。
 アムロを苦しめる全てのものから守ってやりたいと願う。たとえ、どの様に己の手を汚したとしても。
 少し低めの鼻に、そっと口付ける。
 額にもそれを繰り返そうとしたその時、

Turururururu……………Trurururururu……………

 アムロの携帯が鳴った。
 取り立てて音楽などに興味もないアムロは、着信音はデフォルトのままだった。まあこの時勢、その方が却って自分のものだと分かり易い。

 ふと時計を見ると、午前2時を過ぎていた。
 そのあまりに非常識な時間に、酷く嫌な予感がする。
 アムロ程ではないが、シャアもそれなりに勘の鋭い方ではあった。
 勝手に携帯を取る。番号は非通知だった。

「はい、どちら様かな」
『……ああ! よかった、繋がった。夜分遅くに申し訳ありません。こちらは、△△町○○交番です。私は当直のキースロン巡査と申します。アムロ・レイさんでいらっしゃいますか』
 交番という言葉に、思わず居住まいを正す。
「いや、アムロは休んでいるが」
『ああ、ええと……シャア……え? シャア・アズナブル、ってあの』
「シャアは私だが……何の用だ」
 どの、だかは知らないが、雑誌やテレビにも顔を出している御陰か知名度は高いようだ。
『すみません、先程子供を一人保護しまして、本人がファミリーネームも住所も教えてくれないものですから……身元の分かりそうな所持品が、アムロさんとシャアさんの携帯電話の番号を記したメモだけだったのでお電話した次第なんですが』
「子供……カミーユか!?」
『そうです。ファーストネームは教えてくれたんですが』
「少し代わってくれたまえ」
『はい。カミーユ君

『…………シャアさん……?』
 暫しごそごそと音がした後、酷く頼りない声が聞こえてくる。
「カミーユ、無事か!?」
『……はい……あの…………』
「怪我などもないな? すぐにアムロと迎えに行くから、安心したまえよ」
『はい…………ごめんなさい……僕……』
「無事ならばよいのだよ。声を聞けて何よりだ。話は直接会ってからしよう。なに、本当にすぐに行くからね。私の車はとても速く走る。君も、出来るだけ早くアムロの顔を見たいだろう? すまないが、お巡りさんに代わって貰えるかな? その交番の場所を聞かなくてはね」
 シャアとても気が逸らないわけではない。しかしカミーユを安心させるためにも、極力落ち着いて言葉を選ぶ。
『はい』
 またごそごそと音がする。
 どうやらこの交番は、未だ、有線式の電話機のようだった。
『はい、代わりました』
「そちらの交番の場所を詳しく教えてくれたまえ。すぐにこちらから迎えに行く」
『はい、こちらは────────』

「アムロ、起きろ!!」
 電話を切るなり、アムロがくるまったブランケットを剥ぎ取り、頬を軽く叩く。
 微かに眉根が寄り、薄く目が開く。
「カミーユが大変なのだ。寝惚けていないで目を覚ましたまえ」
「……カミ……ユ…………?…………!! 何、カミーユがどうしたって!!?」
 寝惚けた頭に名前が入るや否や、勢いよく起き上がる。
「カミーユのことになると寝起きも良いものだな……。カミーユが家を出た。今、交番で保護されている。行くぞ」
「カミーユが…………分かった」
 脱ぎ散らかしていた服を急いで身に纏う。シャアが身体を清めてくれていたのは幸いだった。
 シャアもスラックスを穿き、シャツを羽織って二、三個ボタンを嵌める。

 そのままスタスタと玄関に向かう。足のリーチの差から、シャアの方が辿り着くのは早かった。
「俺が運転する」
 車のキーを取ったところでアムロの制止が入る。シャアのキーの隣にかかっていたアムロのキーに手が伸びたが、寸での所でシャアに止められた。
「やめたまえ。今の君では危ない」
「あんたの運転じゃ遅い」
「公道でどれ程飛ばす気だ」
 アムロのキーをぽいと部屋の奥の方へ放り、アムロより先に部屋を出る。
 アムロは舌打ちをしてその後を追った。

 二人、競うようにしてエレベーターに乗り込む。
 下っていく間が惜しい。
「貴方の車も貴方の運転も遅すぎるだろ!」
「少し落ちつけ。カミーユに合う前に怪我をしたのでは意味がないのだぞ?」
「貴方じゃないんだから、事故なんか起こすかよ」
「カミーユを保護した後どうするつもりだ。私に君の車は運転出来んぞ」
「…………………………………あ」
 シャアの車もアムロの車も2シーターで、安全にカミーユを保護しようと思うなら、どのみちタクシーを利用する他ない。
 そして、アムロの車は、アムロの趣味に基づき心行くまで改造してある。まさに「アムロ専用車」であって、非常な慣れとテクニックを要する車体だった。深夜で車通りが少ないとはいえ、とてもシャアに操縦できるものではない。
「理解したな? まさか、私とカミーユという組み合わせで帰らせるつもりではないだろう?」
「……うん」
「大丈夫だ。警察できちんと保護してくれている。カミーユも考えたらしくてな。ファーストネームと我々の携帯番号しか教えていないらしい。君に迎えに来て貰いたいのだよ、カミーユは。君に、側にいて欲しいのだ」
「……分かった……」

 まだ半分程しか下っていないエレベーターの中で、アムロはシャアに凭れかかった。
 シャアもそれを許し、そっと髪を撫でてやる。
「昼の窶れようからすると、まずは病院だろうな」
「うん。でも、これで……また少し動ける」
「無事に保護されてよかったな」
「本当にね。……怪我とかしてなければいいけど……」
「本人は怪我はないと言っていたが……」
 アムロの手を取り、車のキーを握らせる。
「行きは君が運転したまえ。酔いは醒めているな?」
「うん」
 それから地下駐車場に着くまで、深夜であるのをいいことに二人は唇を重ね合わせ続けた。

 深夜の一般道は、殆ど人気がなかった。
 幹線道路からは外れた道を選べば、ほぼ無人状態で街中を突っ切ることが出来る。スピード違反も甚だしいが、冴えるアムロの勘では交番の位置もカメラの位置も無意味だ。
 細やかなハンドルやペダルの捌きに依り、通常考えられ得る半分ほどの時間で、目的地の交番に辿り着いた。

 さすがに交番の前では速度を落とし、ぴたりと入り口の真ん前に横付けする。
 キーを抜くや否やそれをシャアに放り、アムロは交番に駆け込んだ。

「カミーユ!!」
「先生!!?」
 警官など視界に入らない。
 アムロはすぐさまカミーユの姿を捉え、駆け寄って抱き締めた。
「怪我はない? 大丈夫? 痛いところとか、」
「だいじょうぶです。…………せんせい……ほんとうに、きてくれたんですね」
 カミーユの双眸から涙が溢れ出す。
 アムロはそんなカミーユの頬に頬摺りをして、更に強く抱き締める。その瞳にも涙が滲む。
「……よかった……無事で……本当に……」
 他に言葉が出て来ない。
「…………ごめんなさい……」
「こんな所まで、一人で来たのかい?」
「……はい」
「先生、カミーユが呼んでくれたらすぐにお迎えに行ってあげたのに。どうしてお電話してくれなかったの?」
「ごめんなさい」
「……怒ってるんじゃないんだよ。カミーユが怪我でもしたら大変だもの。でも……無事で良かった……」
 強く抱いたままカミーユを抱き上げ、やっと振り返る。
 後ろでは、シャアが警官と話し込んでいた。

「……では、私達が彼を引き取ることは出来ないと言うのだな」
「やはり正式に保護者でなくては……」
「保護者と連絡を取れるというのなら、そうしたまえよ。家の電話も、職場の電話も、両親の携帯電話も、全て番号を教えよう。しかし、その前に、彼を病院に運ぶのが当然の義務だろう。彼の窶れ様を見て、尋常ではないと思わないのか!?」
「は、はい……」
 自分の携帯を取り出し、カミーユの両親と連絡の取れそうな番号を側のメモ用紙に殴り書く。
 そして続いて携帯のボタンを押し、タクシー会社にかける。続いて、夜間診療のある小児科をチェックする。
 一連を素早く処理し、シャアはカミーユ諸共アムロを抱き寄せた。
「カミーユ、君は少しばかりお腹が空き過ぎているだろう? それはとても身体に良くないことだ。一度病院に行って、医者に診て貰わねばならん。なに、私もアムロもずっと側にいるからね。心配はいらない。そうだな、アムロ?」
「うん。大丈夫だね?」
「……はい」

 カミーユは気が抜けて、既にまともに立っていることすら出来ないようで、アムロに身体の全てを預けている。
 そもそも、カミーユの自宅からこの交番までは、大人の足でも30分近くかかる。
 ここまで歩いてこられたことすら奇跡のようなものだ。
「カミーユ、もうちょっとでタクシーが来るからね」
 この交番では、何かを食べさせることも出来ない。少しばかり置いてある食料も、非常な空腹時に幼児に与えられるものはない。
 アムロは繰り返しカミーユの髪を撫で付け、ぎゅっと身体を押し付けた。
「……だいじょうぶです……せんせい……しんぱいしないで……」

 身体は辛いが、精神的にはアムロに会えてすっかり落ち着いている。
 アムロの方が余程心が辛くなっているのを、カミーユははっきりと感じ取っていた。
 それが自分の所為であることも分かる。
 カミーユは、精一杯微笑んで見せた。
 笑うと、両親以外なら周りの誰もが嬉しそうな顔をしてくれる。
 しかし、今は……。
 カミーユの笑顔を見たアムロも、シャアも、巡査も、皆一様にひどく悲しそうな表情になった。
 思惑が外れ、カミーユは小さく首を傾げる。

「……せんせい……?」
 悲しそうなアムロの顔なんて見たくない。
 しかし、どうすればアムロが笑ってくれるのか、今のカミーユには全く分からなかった。
「……カミーユ……無理をしなくていいんだからね」
「……むりなんてしてないです。ぼく、せんせいがちゃんときてくれて、ほんとうに……うれしかった……」
「カミーユが呼んだらすぐに来てあげるって、お約束、したでしょう? 先生はカミーユとのお約束、破ったことないよね?」
「はい!」
「よく……お家を出て来られたね」
 カミーユを抱き上げ、側の椅子に腰を下ろす。額をカミーユと合わせ、アムロは精一杯の気分で微笑んだ。

 カミーユ程、家や家庭に固執している子もいない。それが、一人で外に出るには、どれ程の勇気と決断が必要だっただろう。
 それを考えるだけでも、胸が締め付けられる思いだ。

「……たべるもの……さがしてたら、おうちのかぎをみつけたんです」
 ごそごそとポケットを漁り、銀色の鍵を取りだしてみせる。
「おそとにいくとき、おうちにだれもいなかったら、かぎをしなくちゃいけないでしょう?」
「……うん…………うん、そうだね……」
「おうちにかぎをかけたら、ひとりでも、おそとにでてもいいとおもって……それで、ぼく……」
 既にはっきりと声を出すことすら危うくなっている。
 気力の限界も近い様だ。
 アムロは鍵を持ったカミーユの手を握り、また強く抱き締めた。

「ねぇ、カミーユ、一番最近は、いつ、何を食べたか教えてくれるかな?」
 最後に抱き締めたときより、かなり感触が頼りなくなっている。
「…………きのう、おこめ、たべました……」
「ご飯じゃなくて、お米?」
 微かな頷きが返る。
「じゃあ、その前は?」
「きのうのまえのひに……スパゲッティをたべました」
「茹でてあったの?」
 首が横に振られる。茹でる前の固いものをそのまま口にしたらしい。
「あと、ちょっとだけ、マヨネーズとか、ケチャップとか、なめたから……」
「……本当に……よく頑張ったね……」

 アムロの双眸からは、抑えることも出来ない涙が止め処なく溢れ、カミーユの髪や肩を濡らす。
 そうしているうちに、深夜の道路にエンジン音が響く。タクシーが交番の前に止まった。

 後部座席のチャイルドシートにカミーユを座らせてシートベルトをかける。
「せんせい……」
 カミーユは、アムロの服の袖を掴んで離さなかった。
「大丈夫だよ。先生も一緒に付いて行くからね」
 その手を無理に開かせることはなく、カミーユの隣に乗り込む。
 シャアは乗り込まず、顔だけを突っ込んで運転手に行き先を告げた。
「ご両親への連絡は先程の巡査に任せてきた。現地で会おう」
「うん。カミーユ、心配しなくていいからね」
「……はい…………」
 カミーユは不安でいっぱいだったが、アムロがいてくれるだけで随分心持ちが楽になる。
「シャア、貴方も気を付けて」
「ああ」
 軽く頬を合わせ、シャアは身を引いてタクシーのドアを閉めた。

 病院は、案外近くだった。
 ほっとしながら下りると、既にシャアは到着して二人を待っていた。
 支払いはシャアに任せ、カミーユを抱いて病院に駆け込む。
 今夜は比較的平和な夜だったらしく、カミーユの他は数人の患者だけだった。
 なかなかに立派な口髭を生やした担当の医師は、カミーユを見るなり気の毒そうに眉根を寄せた。
 そして、胡散臭いものを見る目でアムロとシャアを眺める。
「どちらか親御さんですか」
「いいえ。僕はこの子の通う保育園の保育士で、こちらは同居人です。……この子の診断書、詳細にお願いします」
 アムロの言い方で大体を察した医師は、アムロのことも気の毒そうな目で見た。
「分かりました。カミーユ君、服を脱げるかな。怪我がないか見せて欲しいんだ」
「……はい」
 目立った外傷はない。指先の切り傷くらいのものだ。
 痣も打撲痕などもない。ただ、虚ろな視線と痩けた頬、細すぎる手足が痛々しい。
「この子のご両親は」
「今警察から連絡を取って貰っていますが……連絡が付くか分かりません」
「保険や治療費の方は」
「この子の保険証は持ち合わせていません。治療費は、もし両親と連絡が取れなかった場合は、全て僕が請け負います」
「…………分かりました」
 検尿と採血を経て、カミーユは短期入院が決まる。

 この病院では基本的に夜間の付き添いは出来なかったが、特別な計らいでアムロはカミーユの側に一晩泊まれることになった。
 小児科ならではの計らいである。
 腕から栄養剤の点滴を受けながら、カミーユはアムロに手を握られてすぐに寝入った。
 時間は既に午前4時を回ろうとしている。睡魔も気力も限界だったのだろう。
 さすがに付いていられるのは一名だけで、シャアは帰らざるを得なかった。それがアムロには少々辛かった。

 この場で酒や快楽に逃げることは出来ない。
 手から伝わるカミーユの体温がたまらなく心苦しい。
 もっと早く、何故動けなかったのか。
 一週間も放って置いて、今更……自分が許せない。
 ベッドに軽く伏し、カミーユの手の甲を頬に当てる。
 遅すぎたのだ。もっと早く動く術はあった筈だ。
 今更後悔しても先には立たないが、もし、カミーユが無断欠席をしたその日に様子を見に行っていたら。
 カミーユがここまで弱る前に助け出せた。
 しかし「もし」の世界は二度と取り戻せはしない。
 カミーユの額にかかる髪をそっと避けてやりながら、アムロは薄暗い中カミーユの寝顔をじっと見詰めた。

 カミーユの両親は、この寝顔を知っているのだろうか。
 知らないとすれば、それは何と不幸なことだろう。
 園児の昼寝を眺めるだけでも、アムロはとてつもなく幸福な気持ちになれるというのに。それが、我が子だったら…………。
 シャアと今のような関係を続ける限り自分の子供というものは有り得ないが、それでも偶には夢想してみたくもなる。
 他人の子ですらこんなに愛おしく思えるのなら、自分の血を分けた子供はどんなに可愛いことだろう。
 それを愛おしく思えないとしたら、それはどんなに不幸なことだろうか。

 落ち着いたカミーユの寝顔を眺めながら、アムロはまんじりともせず一夜を明かした。

続く

作 蒼下 綸

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