「………………見合い、ですか」
 庭の鹿威しが丁度いいタイミングで鳴り響く。
 表情は変えないものの、ガトーは思いもかけない言葉に固まっていた。
「うむ。……お前も、そろそろ独り身というわけにも行くまい。男の沽券に関わる事だ」
「しかし……」
「なに、形だけの事だ。先方もそれで承知している。私とて、お前を何で女狐などに任せられようか」
「閣下! そこまでお心づくし頂くとは、このガトー生涯忘れ得る事ではございません!!」
 淡い紫色の瞳が潤み、向かい合った壮年の男と見つめ合う。
「さあ、ガトーよ、一献傾けようではないか」
「はっ! 有り難く頂戴仕ります」
 銚子を差し向けられ、ガトーは恭しく猪口を捧げ持った。
 しかし、僅かに近づき合ったその時、無粋なブザー音が二人を裂く。
 男……デラーズは小さく溜息を吐いて銚子を起き、受話器を取った。
「何か」
 ガトーは体勢を保ったまま待つ。
「うむ。了解したと先方には伝えよ。申し出をお受け頂き痛み入ると言葉を添えてな」
 受話器を置き銚子を取り直す。
「再来週の日曜に決まったぞ。私達の命運はお前に掛かっている。よいな」
「はっ!」
 猪口に満たされた酒を呷る。
 銚子を取り返し、デラーズの猪口に返礼する。なみなみと注がれた酒を呷り、デラーズは嬉しげに目を細めた。

 ぱしり、と勢いよく手にした扇子を閉じ、女は舐めるような視線でガトーを見る。
 高級料亭には似つかわしくない程柄の悪い連中が先方の後見という事で並んではいるが、その中でも風格が違う。
 艶やかで豊かな黒髪をアップにセットして、品のいい着物を着てはいるものの、どうにも険の消えない女だった。
 目の前の料理も味気なく砂を噛む様だ。自然ガトーは渋面を隠せない。
 勿論、普通の見合いの様な話題は一つも出なかった。

 デラーズは、元々軍にいた。そこを退役した後、あまり公には出来ない稼業を営んでいる。昔の人脈から実入りは悪くないものの、人手不足もあり、この度のガトーの見合い相手……シーマ・ガラハウと手を組む事にしたのだ。
 ガトーとの見合いは先方の希望であれば、取り敢えず席を設けるしかない。
 シーマは楽しげにデラーズとガトーの渋面を眺めている。
 見合いをする気がある様には見えない。ただ、男達の苦々しげな顔を眺めて嘲笑う事だけが目的の様に思えた。
 それが分かるからこそ、ガトーは益々眉間に皺を寄せる。

「こういう時には、どうするんだったかねぇ」
 すい、と動いた扇の先がガトーを示し、にいっと口角が上がる。
 これ以上ガトーの眉間には皺が入る余地もなくなっていた。
「庭にでも出ようじゃないか。年寄り交えるより話も弾むってものだろうさ」
 ガトーの頤を扇子が捉える。
 思わず顔を背けたガトーの視界に、同じ様に苦痛に満ちた表情で堪えているデラーズの姿が入る。
「くっ……」
「付き合うだろうな、ガトー?」
「……仕方……あるまい」
「あっははははははは!! いい顔をしてくれるねぇ、全く!」
 ぴたぴたとガトーの頬を叩き立ち上がる。ガトーも、渋々と立ち上がった。空かさず腕が絡んでくる。
 振り解こうにも室内の上食器の並ぶテーブルを足下にしては強く邪険にも出来ない。
 そのまま引き摺られる様にして庭へ出た。

「面白いものだな、ガトー。こんな茶番に付き合う男とも思わなかったがねぇ」
「閣下の思し召しでなければ、誰が好き好んでこの様な場に」
 吐き捨てる様な物言いに、シーマは高く笑う。
「あたしにとっても悪かぁない話さね。勿論、あんたの大切な閣下にもね」
「貴様、何を企んでいる」
「ご挨拶だね。デラーズもあたし達を利用するんだ。お互い様だろう?」
 扇子でガトーの頬をぴたぴた叩く。こんな人間でも女は女、強い反撃に出るわけにも行かず、ただ渋面で睨み付ける。
「提携は、してやるよ。あんたが首を縦に振ってくれたらね」
「……貴様もその気がない癖に、何故この様な手段に出る」
「面白いじゃないか。あんたのその仏頂面も、デラーズの悔しがる顔もねぇ。あのジジイがまさかあんたを本当に差し出すとは思わなかったが」
 扇子の先がガトーの頤を捉え、くいっと上げさせる。思わず顔を背けるガトーに、シーマはまた笑った。
 苛立って足早にその場を去ろうとする。しかし扇子が閃き、ガトーを制した。
「待ちな。いいのかい? あんたの大切な閣下を失望させても。頭数が足りないんだろ? あんたも今はただの保育園の先生だものねぇ」
「有事になれば閣下の御為に動く。私は貴様と違って義を通すからな」
「馬鹿馬鹿しい。あたしぁ、あんたみたいな男は気に入らないね」
「奇遇だな。私も貴様の様な女は好かん」
 迫力は明らかに堅気ではないものの、よく手入れされた日本庭園には大変似つかわしい二人である。遠目から見れば、落ち着きのある大人のカップルにも見えなくはなかった。
 立派な錦鯉の泳ぐ池の端に立ち、見るとはなしに見る。お互いに、相手の顔を見るよりは鯉の口を開閉する様でも眺めていた方が余程ましだ。
 しかし、そこへ。

「あーーーーー!! ガトーーー!!!!」
「な……っ…………」
 耳慣れた……しかし余りにも場に相応しくない声が何処からともなく響く。振り向く前に一瞬固まったガトーの足に、何かか勢いよく体当たりしてきた。
 動じはしないが、血の気が引く。
「ガトー、なんでここにいるの? ガトーもごはんたべにきたの? ガトー! ねえ、なんで?」
 足から離れ、今度は子犬の様に周りをぐるぐる回り始める。
 さすがのシーマも呆気に取られ、小さな生き物にじゃれつかれるガトーを眺めた。
「……な、何故……お前がここにいる……」
「ごはんたべにきた!」
 確かに、ここは料亭である。子供には他の用事もないだろう。
「誰と」
 政治家の密談などにも使われるような高級料亭には、こんな子供らしい子供は似つかわしくない。
「おとうさんと、おじいさまと、おじさんたち!」
「一人で何をしている」
「だってつまんないから、おにわであそんでいいって!」
 にこにことガトーを見上げる。
 保育園で見るよりさすがに身なりはいい。こうして見れば、それなりの家の子息に見えた。
「何だい、このガキァ」
「おばさん、だぁれ? ガトーのおねえさん?」
 悪びれもせずシーマを見上げ、小さく首を傾げる。
「おっ、お、ば……っ!!」
 激昂し過ぎて絶句する。わなわなと震え、口元の化粧に罅が入る。
「コウ! お前には関係のない事だ。早く父親の所へ戻れ!」
   さすがに、この事態は拙い。さしものガトーも青褪める。
 しかし子供な上に並以上に鈍感なコウはこの場の空気に気が付かなかった。とにかくシーマから離そうとするガトーに反し、今度はシーマの周りを回り始める。
「……癪に障るガキだねぇ……まったく!」
 扇子が閃く。
 勢いよく振り下ろされ、人の身体を打つ鋭い音が響いた。

「くっ…………」
「……ガトー?」
 コウは急に視界をガトーに覆い尽くされ、不思議そうに見上げる。
 ガトーの顔が一層険しくなり、コウを抱える様にして地面へ膝を付く。
「何だい、ガトー! あたしの邪魔ァする気かい!」
「地に落ちたものだな、シーマ・ガラハウ! 無関係の子供に手を出すなら、私にも考えがある」
 扇子が強く打ち付けた肩がじんと痺れる様な痛みを覚えている。
「ガトー?」
 コウには何が起こったのか分からない。ただ、漸くただならぬ気配だけは感じて不安げにガトーを見上げる。
「どしたの、ガトー?」
「お前には関係のない事だ。早く戻れ」
「でも」
「戻れと言っている」
 シーマから庇う様にコウを軽く突き放す。コウは数歩進んでガトーを振り返った。

「あんたの教え子かい」
「貴様には関係のない事だ」
「あるねぇ……十分に。コッセル!」
「へい!」
「あの子供を捕まえな!」
「逃げろ、コウ!」
「え!? な、なに……うわっ!」
 運動神経は悪くない。急に後ろから伸びてきた手を間一髪で躱して、ガトーの足下まで戻る。
「何故こっちに来た!」
「だ、だって!」
「ええい、しがみつくな!」
「ガトー、ここでコトは起こしたくないだろう? あたしァ構わないけどね」
 ひらり、と閉じたままの扇子が閃き、コウを捕らえようとした男達に指示を与える。
 男達が密かに、上着の下に何かを構えたのが分かった。
「…………私にどうしろと」
「仲良くしようじゃないか。取り敢えず、その口の悪いガキを渡して貰おうかねぇ」
「それはできん。貴様との見合いの件は、閣下の思し召しだ。形はどうにか承諾しようではないか。それで十分だろう」
「このあたしに向かって大した口を利いてくれた礼をさせて貰おうってだけさね」
「良く言う」
 女でなければ思うさま罵ってやれるというのに、外見だけはそれなりに女であるのが悪い。
 それに十分に騒いでいる。人が来るのも、あまりよい状況ではない。

「コウ、お前は逃げろ。いいな」
「なんで? ガトーは?」
「私はあの女と見合いをせねばならんのだ」
「みあい、ってなに?」
「……結婚をする相手を紹介して貰い、実際に結婚するかどうかを、前もって様子を伺ったり話をしてみたりする場のことだ」
「ガトー、けっこんするの!?」
 コウは目を大きく見開いて、まじまじとガトーを見た。
 ガトーは頷きはしないものの、完全に否定することも出来ず困り顔でコウを見返す。
 その表情を見て酷く顔を歪め、コウはシーマを振り返った。
「だめーーっっ!! おばさん! ガトーはあげない!!」
「んな、っ! コウ、何を!!」
 高らかな宣言にガトーの方が余程動揺する。
 シーマはその内容に気が行くより、再度の呼称にきりきりと眉を吊り上げた。
「こンのクソガキぁ!! まだ言うか!」
 ガトーを庇う様にして立ち、ガトーと同じ程高い位置にあるシーマの顔を睨む。
「よくもまぁ、あんたがそうまでガキに懐かれたものだねぇ」
 間合いを詰めてくる。
 コウはそれでも怯まず、両腕をめいっぱい広げてシーマの前に立ち塞がる。
 負けん気の強さだけは十分に鍛え上げられ、既に一端の男だった。
 多少、無謀が過ぎるが。

 その小さいながら力に溢れる身体が、ふわりと浮き上がった。
「ガトー?」
「お前なら、着地出来るな? あの男達の向こうまでお前を投げるから、逃げて家族の所まで行け」
「やだっ!」
 足を振ってガトーの腕から逃れようとし、出来ないと知るや半身を転じてガトーの首にしがみついた。
 そして、叫ぶ。

「ガトー、おばさんのおよめさんになっちゃやだ!!」

 空気が、止まる。
 ガトーのみならず、シーマも、周りの男達も、時を止めた。
 しかしその中でも胆力に優れたシーマが辛うじていち早く時を取り戻す。
「………………ガトー、あんた、このガキの先生なんだろ?」
「う……うむぅ……」
「失格じゃないのかねぇ、先生なんて。どのみちあんたのガラでもなかろうが」
 歩み寄り、コウの頬を扇子でぺちぺちと叩く。コウは少し怯えて一層ガトーに縋った。
「誰が、誰を嫁にするってんだい」
「おばさんが、ガトーを」
「あたしァ女だよ! 何で男を嫁にしなきゃいけないんだい!」
 思い切りよく頭を引っ叩く。スパーン、といい音が響く。
 コウはきょとんとした顔でシーマを見た。
 音程に痛くはない。
「ガトーおよめさんにしないの?」
「当たり前だろ!!」
「じゃあ、ぼくがガトーをおよめさんにしていい?」
「あたしに聞いてどうすんだい!…………じゃなくて!」
 シーマは完全にペースを乱され、一人激昂する。
「よくもこのあたしを虚仮にしてくれるもんだね、クソガキが」
「子供相手に張り合うな、シーマ・ガラハウ!」
 冷静さを欠いたシーマを前に、漸くガトーは余裕を取り戻してくる。
 コウのペースには、ガトーの方がまだしも慣れていた。

 シーマを横目に見ながら、ガトーは余裕の微笑を浮かべてコウと視線を合わせた。
「コウ、お前は男だな?」
「うん!」
「目上の者には「はい」と返事をせんか。で、私は男か、女か、どちらだ」
「おとこ!」
「そうだな。嫁というものは、女しかなれないのだ。男が結婚をした場合は、婿という」
「じゃあ、ガトーは「むこ」になるの?」
「ああ。お嫁さんという言葉を知っているなら、お婿さんという言葉も知っているな?」
「ああ! はい!! わかった! ガトーは、おむこさんになるんだ」
 コウはやっと納得した顔で大きく頷く。
 ガトーも頷き返し、頭を撫でてやる。
 満面に笑みが広がる様は、本当に愛らしかった。シーマに依ってささくれ立っていた気分が落ち着いていく。
「よし。分かったならいい」
「ガトーは、おばさんの、おむこさんになるの?」
「……事と次第によってはな」
「ぼくのおむこさんになって!」
「…………結婚は、普通男女で取り結ぶものだ」
「なんで?」
「男同士では、神様が子供を下さらんのだ」
「なんで? アムロせんせいとシャアさんは?」
「あの二人は結婚などしていないし、特別だ」
 子供の情操教育上、どう考えても望ましくない。あの二人……主に全くの無節操なシャアを思い浮かべると自然渋面になる。

「ウソを教えちゃあいけないねぇ、ガトー」
 二人の会話を黙って聞いていたシーマが口を挟む。
 今の様で、大体コウとガトーの関係は掴めた。にやりと笑う。
 ガトーはより眉間の皺を深めた。
「何? 何時私が嘘など吐いた」
「男同士でも、しようと思えば結婚出来るだろう。片方が嫁になることもね」
「子供に馬鹿なことを吹き込むな!」
「ほんと!? できるの?」
 吐き捨てるガトーに対して、コウは黒目がちの瞳をきらきらと輝かせてシーマを見た。そのあまりの純粋さにさしものシーマも一瞬たじろぐが、直ぐににいっと口角を上げる。
「出来るともさ、大きくなったらね。片方が嫁になることも出来る」
 猫撫で声がガトーの顔を歪ませる。しかし、コウはひまわりが花開いた様な笑みを浮かべた。
「じゃあ、ぼくがガトーをおよめさんにできる?」
「ガトー次第さぁね、それは」
「ガトー!!」
「っ!」
 きらきらと……本当にきらきらとした期待に満ちた目でガトーを振り返る。
 ガトーはひどく困って、目を反らせた。
 自分の言ったことは間違っていないが、シーマもまた、嘘は言っていない。
 ただ、唸る。

「シーマ……貴様……自分の見合いの席で何故相手に他の人間を焚き付けようとする……」
 そう言う問題ではないだろう。
 咄嗟に出てきた台詞に、シーマの部下達は激しく突っ込みを入れたくなった。
 表情は変わらないながら、ガトーが余程に混乱しているのが分かる。
「おや、あんただってあたしよりそのガキの方が幾らかいいんだろうに」
「それとこれとは話が別だ!」
「あたしァ、あんたの困る顔が見られたんで今日のところは引き下がってやるよ。もう少しあの年寄りを焦らすのも面白い。なぁ、クソガキ」
「???」
 コウには何の話だかさっぱり分からない。
「貴様……」
 ぎり、と歯軋りをする音が耳元でして、コウは小さく身体を震わせた。
「あんたの弱みが分かったってことさ。閣下の他にねぇ」
 扇子の先でガトーの胸元を小突く。
 シーマに対してだけは貫こうとしていた怒りの顔が微かに青褪めたのが分かり、シーマは勝ち誇った様に高笑いを上げた。
「あっははははははははは!! 本当にいい顔だよ、ガトー。坊や、あんたへの仮は、またいずれ返させて貰おうさ。ガトーの所の園児なんだろ? 時間は、たっぷりとあるからねぇ」
「関係ない子供を巻き込もうとは、貴様は、何処まで性根が腐っているのだ!」
「甘いねぇ。使えるものは何でも使うのがあたしらのやり方さ。今更だろう? アナベル・ガトー。ガキ一人、それも身内でも何でもないと来れば……何処まで守れるか、見物だな」
 とてつもなく楽しそうだ。
 ガトーはそれに反して苦虫を何十匹と噛み潰した様な表情でただシーマを睨む。
 だが、機嫌良くなったシーマは全く動じなかった。
「精々気をつけるんだね、ガトー。楽しませて貰うよ」
 ぱしぱしと楽しげに幾度かガトーを叩いたかと思うと、扇子の先が閃く。
 意を察した男の一人が駆け寄り、シーマからの耳打ちを受けて下がっていく。
「何を、貴様」
「そう怒らないで貰いたいな。ゲームだよ、楽しもうじゃないか。……坊や、名前は?」
 つい、と扇子の先がコウの頤を捉える。
「コウ・ウラキです!」
「お前は黙っていろ、コウ!」
「そうかい。歳は?」
「5さい!」
「よく言えたねぇ。いい子だ」
「コウ! 黙っていろと言うに」
 こんな女に個人情報を与えては大変なことにもなりかねない。慌ててコウの口を塞ぐが、それより、コウの答えの方が早かった。
 シーマはにんまりと笑う。

 相手の方が十歳ほど年嵩で経験も豊富な分、腹芸に於いてはガトーの分が悪い。
 藻掻くコウの口元を抑えたまま、鍾馗のごとき表情でシーマを睨む。
「シーマ・ガラハウ! 今日の所は、コウを帰すと言うことでよいのだな」
「殊勝だねぇ、ガトー。あたしァ構わないが、あんたはそれでいいのかねぇ。自分の目の届かない所でさ」
「くっ……」
 コウを強く腕の中へ閉じこめる。
「んー、んーっ」
 苦しくなってコウは一層藻掻いたが、ガトーは離さない。シーマに渡すわけにはいかなかった。
 ガトーの腕を叩くがいっこうに緩まない。
 そのうちに、コウは大人しくなった。
「ガトー…………あんたの方が、あたしより危ない気がするがねぇ」
 扇子の先でコウを示す。
 見れば顔が真っ赤になり、ぐったりとしていた。
「コウ! 軟弱な!!」
「あんたの力が強いんだろうさ。厭だねぇ……」
 必死のガトーが面白くて仕方がない。
 こんなたかが園児一人に躍起になるとは、大の大人の行動でもないだろう。
 大慌てでコウの服を寛げ、頬を叩く姿はある意味微笑ましかった。
「面白いねぇ、全く……」
 喉奥で笑い、扇子をはらりと広げる。
「そのガキが可愛いなら、精々手元に置いておくんだねぇ」

 悔しげに地面へガトーは膝を付いた。
 屈辱だ。しかし、担当している園児の中でも特に自分に懐いているコウが可愛くない筈もない。
 その時。
「コウー! そろそろ帰るぞー!!」
 離れの個室の方から男の声が聞こえてくる。
 そういえば、家族と来ている筈だった。
 慌ててコウを揺さぶる。
「起きろ、コウ!」
「……んー……だいじょーぶ……ガトー……?」
「大丈夫ではないのはお前だろうが!!」
「だいじょうぶだよー……ちょっとくるしかったけど」
 目は開けずにガトーに擦り寄る。
「ご家族が呼んでいる。行けるか?」
「うん。ガトーもいっしょにおいでよ」
 ぱちりと開いた目は何処か潤んで赤い。苦しかった所為だろう。
「私はこの女と用事があるのだ。お前は家族の所へ行け。もう……邪魔はさせん」
「おばさん! ガトーはあげない!」
 ぎゅっとガトーを抱き締める。多少苦しいが、所詮は子供の力だ。
「コウ、何処だー」
 庭を周り声が近付いてくる。
「おじさんだ!」
 コウはぱっとガトーから離れ、その膝から飛び降りた。
「おじさーん! こっちだよー!!」
 声のした方へ走っていく。
 漸く、ガトーは胸を撫で下ろした。

「おじさん、あのね、ガトーがいたの!」
「ガトー? 保育園の先生だったか? 何処かで聞いた名前なんだがなぁ……」
 談笑しつつ、コウを抱き上げた男が歩いてくる。
 何故こっちに来る、と叫びたかったが、今ガトー達がいる辺りは庭の中心で、池や端のある辺りである。
 人はこう言う時、広い方へ行きたがるものだ。
「ガトー!」
「コウ、帰るのではなかったのか!!」
「貴方が、ガトー先生で。……ん? き、貴様!!」
 コウとはとても血の繋がりがある様には見えない浅黒い肌に金髪の男は、ガトーを見、そしてその向こうに立つシーマを見て顔色を変えた。
「シーマ・ガラハウ!!」
「なんだい、あたしも有名なのかね」
「手配書が回っているぞ! 銃刀法違反、恐喝、公文書偽造に詐欺!」
 コウを腕から下ろし、男はシーマに詰め寄る。
 シーマの手下の男達が行く手を阻んでいる間に、シーマはさっさと逃げていく。
「ガトー、今日は日が悪いようだねぇ。閣下にもその様にな!」
 捨て台詞だけは残していく。
 コウの伯父は後を追おうとしたが、シーマの方が一枚上手だった。
 伯父から離れて再びガトーの所へ戻り、足によじ登るコウに尋ねる。
「……コウ、おじ上のお仕事は、何だ」
「おまわりさん!」
「ほう……」
 目を細める。
 確かに、シーマや……ひいてはデラーズとも、相性が悪そうだ。

「ちいっ……今日が非番でなかったら、一発土手っ腹に穴でも開けてやるものを……」
「おじさん!」
 戻ってきた伯父の方へと飛び移る。
 伯父も満更ではない様子でコウの頭をぐりぐりと撫でた。
「うちのガキがお世話になっているそうで」
「それは、こちらこそ」
「あまり宜しくないお付き合いがあるようですな」
「ええ、最悪なことに。出来ることなら関わりたくなどありませんが」
「それがいいでしょうな。コウ、帰るぞ」
「えー、ガトーと遊ぶー!!」
 腕の中で藻掻いてガトーに手を伸ばす。
 伯父は動じずコウを抱え直した。
「おじいさまが待ってるぞ。先生にも先生の都合があるだろう」
「……はぁーい。ガトー! また明日ね!!」
 軽く口を尖らせながらも、家族で来ていることを思い出したらしい。
 ぶんぶんと手を振るコウに苦笑しながらも、ガトーは保育士の役割を思い出した。
「お帰りの挨拶は、何だった?」
「せんせい、さよーなら!!」
「うむ。よく言えたな。ではまた明日、元気で保育園に来るのだぞ」
「はーい!!」
「では、失礼」
「こちらこそ」
 大人の対応が出来るというのは有り難いものである。
 軽く会釈を交わして、別れた。

「おお、ガトー、無事であったか!!」
 ともかくもデラーズの下へ戻ると、シーマ達は既に帰った後だった。
「シーマ・ガラハウ達は、如何なさいました」
「用を思い出したとかで、先に帰った。焦っていたが、機嫌は良かったな。お前のお陰であろう」
「いえ……私ごときの力など僅かなものです。全ては、閣下のご人徳と拝します」
「うむ。……シーマめ、足下を見おって、また後日再びの席を設けたいと言って来おったわ」
 促されてデラーズの向かいへ座る。
 茶を勧められて、一口二口と口に含んだ。
 デラーズは酒を嗜んでいる。
「本日は邪魔が入りまして……私としても、日を改めた方が宜しいかと存じます」
「そうか。邪魔とは?」
「シーマが警察に手配されているらしく、手配書にて顔を見知っていたらしい非番の警官と庭で顔を合わせまして」
 嘘は吐いていない。
 シーマもああは言ったが、コウの身内がアレでは分が悪いことも分かるだろう。
 デラーズに話すことでもない。自分を乱すだけの一介の子供など。
「ふむ……そうか。それは災難であったな」
 デラーズは深く頷き、自分が手にしていた猪口をガトーに差し向ける。
 ガトーはそれを恭しく押し頂いた。酒が、満たされる。
「次はこちらから膳を整えよう。ガトー、よいな」
「閣下の思し召しとあらば、このガトー、我が身に代えましても必ずや」
「お前の代わりになるものなど何もない。シーマのことは、最終的には私に任せていればよいのだ、ガトーよ」
「閣下のお言葉、感涙に堪えません」
 頂いた酒に口を付ける。
 デラーズから受けた杯は、例えようもない美酒だった。



作 蒼下 綸

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