今日も一日が終わる。
 いつも延長保育の最後まで残るカミーユの母親が来て、やっと仕事終了だ。

「いつもお世話になります」
「いえ。カミーユ、また明日ね」
「あの……不躾に申し訳ないのですが、お伺いしたいことがありますの」
「は……何でしょう?」
 離れようとしないカミーユの手をゆっくり開かせながら、カミーユの母親の顔を見る。滅多に会話などしたことがない。
「この辺りに、24時間保育の託児所はありませんかしら。いえ……園を変えよういうわけではありませんのよ。ただ、夜通し預かっていただけるところはありませんかしら?」
「……この辺りでは聞いたことがありませんが……家を空けられるんですか?」
 きゅっとアムロの服の裾を握るカミーユの手に力が入る。
「ええ、一週間後。夫も私も別々の場所で学会がありまして……子どもを連れていける場ではありませんし、親類も友人も近くにはないものですから……」
 カミーユはずっと俯いて、顔を上げようとしない。小さな手が必死でアムロに縋っているようで、アムロはカミーユの手を離させることをやめた。
「失礼なことをお伺いして申し訳ありませんでした。もう少し探してみますわ。ほら、カミーユ。帰りますよ」
 カミーユの様子など何も見ていない母親は、アムロに縋っていない方の手をぐいっと引っ張った。名残惜しげに、ゆっくりとアムロから手が離れる。

「あのっ……ええと…………僕でよければ……園でお預かりすることはできませんが、僕個人で……お預かりしましょうか?」
 反射的にそう言ってしまっていた。言った後でちらりと脳裏をシャアの顔がよぎったが、カミーユに目を移した途端すぐにかき消える。
 カミーユは、目を大きく見開いてアムロを見上げていた。
「一晩でも親御さんと離れるのは、この年のお子さんにとってはかなりのストレスになります。ましてや、見ず知らずの人と一晩過ごすのは……それなら、僕の方がまだ、乳児の頃からお世話させて頂いていますし、まだ少しは良いのではないかと思うのですが」
 カミーユは期待に満ちた目で、交互にアムロと母親の顔を見比べた。
 母親の表情は、あからさまにほっとしていた。

 アムロの評判はとてつもなくよい。ブライトの教育方針とアムロの存在がこの保育園の二枚看板である。入園希望者は後を絶たず、何人もの入園待ちが出ている。
 まあ、昨今、何処の保育園も定員いっぱいで入園できる人数は限られているが、この保育園に入れるために越してきたという家族までいるほどだった。別に、お受験に関わるわけでもないのに、である。
 一晩のこととは言えこれから突発で探すような所に預けるより、もう4年も通わせている保育園の信頼している保育士に預ける方が、余程安心できるのも道理だろう。

「まぁ…………それは、願ってもないことですけれど、ご迷惑ではありませんか?」
「いえ、カミーユ君とは仲良くさせて貰っていますし。……ねぇ、カミーユ。お父さんとお母さんがいない間、僕と一緒にお留守番できるかな?」
「できます!!」
 ぎゅっとアムロに抱きつく。アムロは微笑んでカミーユの頭を撫でた。
「お母さんがいなくても、夜寝られるかな?」
「大丈夫です!」
「カミーユ君もこう言っていますし、いかがですか?」
 にっこりと笑って言う。その笑顔に逆らえる者など、いよう筈もなかった。
「これは僕個人のことですし、園には関係のないことですから、遠慮なさらないで下さい」

 アムロは知っていた。
 カミーユが、どんな表情で誰よりも早く園に預けられ、誰よりも遅く引き取られていくのか。
 そもそも、カミーユは人慣れしにくい質だし、そうでなくても24時間営業の託児所に預けることができない可能性だってある。そうなったら、大して親しくもしていないであろう隣家に預けられたり、最悪、一晩一人っきりだなんて事だって、あり得ない話ではないのだ。
 放っておける筈がなかった。
 アムロにも覚えがあるから尚更だ。

 幼い頃、アムロの家も、カミーユの所とそう変わらなかった。
 父親は工学畑の研究者で仕事にかかりきりだったし、そんな生活に嫌気の差した母親は5歳の時に出ていったきり音沙汰もない。
 放って置かれる子どもの気持ちは、誰よりもよく分かっているつもりだ。だから、尚のことカミーユを放っておけない。

「……では……お願いできますかしら」
「ええ。……ええと、一週間後、ですね。朝は、こちらには連れて来て頂けるんですか?」
「ええ、それは。空港までの道すがらですから」
「分かりました。カミーユ、僕のお家で一緒にお母さん達のお帰りを待っていようね」

「って訳だから。協力してよね」
「嫌だ」
 まるっきり子どもと同じ仕草でぷいっとそっぽうを向く。少なくとも、いい年をした男が、上等なガウンに身を包み、ブランデーグラスを片手にする仕草ではあり得ない。
「……貴方、そんなに人でなしだったの? まだたった4歳の子が、全然知らないところに置き去りにされようとしてるんだよ? 可哀想だとか思わない?」
 窘めるようにアムロはシャアが座ったソファの後ろに廻り、肩越しに両腕を伸ばしてシャアを抱き締めた。上げ気味だった顔の額に刻まれた傷跡にそっと口付けを落とす。

「私は、私自身の君との生活の方が余程大切だ。大体、カミーユとは、私を目の敵にしているあの子どもだろう!? 何故私が協力せねばならん!」
「……独りで置き去りにされる子どもの気持ちなんて、貴方には分からないものね……」
「分からん訳ではない。だがな……」
「貴方には、そんな経験無かったんだろうけどさ。ちょっとは想像してみてくれてもいいじゃないか」
「分からん訳ではない、と言ったろう。私だって、子どもの頃、両親が傍にいた記憶などない。母は身体が弱くてベッドの上の姿しか覚えていないし、死んだのは私が5歳の時だった。父はその前から多忙だった上、亡くなったのは11歳の時だ。だが、私は何処かに預けられた記憶などもないぞ。ベビーシッターを頼むなりなんなり、他に方法はあるだろう。親の愛情の問題ではないのか? そもそも、何故学会に子どもを連れて行けない。騒いではならないという躾さえも出来ない親なのか?」
「まだ4歳だからねぇ……そこまでしっかりした分別を求めても仕方がないけど……まあ、カミーユは場の空気の読める子だし、そもそも、そんなに騒ぐ子でもないよ。シャアといるときは例外中の例外。本でも何冊か渡して、ロビーに座らせているだけで十分大人しく待つことの出来る子ではあるんだけど……」
「ほらみろ。わざわざ預かる必要はないではないか」
 ぷくーっと頬を膨らませ、口を尖らせる。「いったい幾つだこの野郎」という台詞が喉元まで出かかったが、何とか飲み込んだ。そんなことより、今は結構重大な話し合いの最中だ。
「うん……でも……」
「何だ。他に何か問題でもあるのか」
「うん…………あんまり、吹聴しちゃいけないことなんだけど…………一回、何年か前の事ではあるんだけど、聞いちゃった言葉があって……そのころから、全然変わってないように見えるから……」
「何だ?」
 アムロの表情が暗く沈む。
 ひどく躊躇って、何度か言葉を探すように口を開閉させた。そして。

「………………子どもなんて、産むんじゃなかった」

 言い難そうにアムロがぽつりと呟いた瞬間に、シャアの顔色が変わる。
「気の所為だと思いたかったんだけど……ブライトも一緒に聞いてたからね……多分、カミーユにも聞こえてたと思うし。だから、連れて行けないんじゃなくて、連れて行きたくないんだと思うんだ……」
 自分で言っていることに堪えられず、アムロはシャアの額や瞼、髪にキスを繰り返した。
 その顔を引き寄せて、シャアは自ら深く唇を奪う。甘い唾液を吸って、嚥下する。

「っ……はぁ……」
「…………了解した。カミーユをここに泊めてやろう」
 自分は姑息な真似も卑怯なこともそこそこやってのけるが、シャアは意外に正義感の強い質だった。そして、思いの外子どもが嫌いではなかった。まあ、アムロとの恋路を邪魔しないなら、という条件付きではあったが。
「ありがと。……貴方ならきっと、同意してくれると思ってた」
 もう一度軽く唇を寄せ合い、アムロはシャアからブランデーグラスを取り上げた。
「カミーユがいるときだけは、おあずけだからね」
「分かっている。子どもに見せるほど、無粋ではないさ」
「だといいけど」

 その後、一週間はなかなか早く過ぎて行った。


作  蒼下 綸


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