カミーユは、その日が来るのが待ち遠しくて仕方がなかった。
 アムロの家に泊まることが決まって直ぐに、お泊まりグッズ一式の準備に取りかかったくらいには。
 まあ、シャアの存在があるにせよ、それを上回って尚、余りあった。
 思えば、生まれたこの方、実の両親と過ごした時間よりアムロ達保育園の先生達と過ごした時間の方がずっと長い様な気がする。
 はっきり言って、全く側にいてくれない実の親より、はるかにアムロのことが好きだった。

「カミーユ、帰るお支度できたかな? もうすぐシャアがお迎えに来てくれるからね」
 延長保育の後片付けも終わり、後は最後の戸締まりを残すだけだ。既に、カミーユがいたこともない時間になっている。
「カミーユ、良かったな。アムロ先生の所にお泊まりできるなんて」
 アムロと同じく、延長保育の当番だったキンケドゥは、カミーユの頭をわしゃわしゃと掻き混ぜるように撫でた。
「どんなお家か、あとでオレにも教えてくれよ」
「キンケドゥせんせいは、いったことないの?
「ないなぁ……先生達で行ったことがあるのは、多分、セイラ先生と園長先生だけだぞ。ははっ。凄いな、カミーユ」
 軽々とカミーユを高く抱き上げる。
「本当はねぇ……うちに泊まるのは、情操教育上、あんまりよくはないんだけど……シャアもかなりあっさり納得してくれたしね」
「大丈夫ですか? あのシャアさんでしょう?」
「大丈夫。今回は脅しても騙してもないし。あいつ、案外子供嫌いじゃないしね」
 キンケドゥの腕からカミーユを抱き取って、にこりと微笑む。

 その時、園庭で派手にクラクションが鳴った。
 窓から見ると、見慣れない白のセダンと、見慣れた美丈夫の姿がある。
「来たみたいだね。行こうか、カミーユ」
「あれ……車変えたんですか? 赤くない……。毎朝先生を送ってくる車とは違うみたいですけど」
 毎朝毎晩欠かさずシャアはアムロの送り迎えをしているが、その時は、真っ赤な動く不動産と呼ばれるレベルのスポーツカーだった筈だ。
「レンタカーだよ。シャアの車、2シーターだし、チャイルドシートもないし。まとめて借りてきて貰ったんだ」
 カミーユを床に降ろし、その背を軽く叩く。それを受けて、カミーユは荷物を取りに走って行った。
「カミーユ、嬉しそうですね」
「うん。……本当は寂しいだろうけど……」
 もう一度、クラクションが鳴る。
「呼んでますね。後の戸締まりは任せてください」
「そうだね。じゃあ、後、頼むね。カミーユ、行くよ」
「はぁーい」

「お帰り、アムロ」
 微笑んで迎え、頬を合わせる。いつもなら深いキスの一つも交わすが、カミーユの手前控えたらしい。さすがに、それなりの分別というものはあるらしい。
 ごく自然にアムロの手から荷物を取り、トランクに入れる。
「カミーユ、君の荷物も入れておこうね」
「はい」
「カミーユ、君の席は後ろだ。乗りたまえ」
「はい。……えっと……よろしくおねがいします」
 アムロとシャアが一緒に住んでいることは周知の事実である。いつもの喧嘩相手に頭を下げることに何となく不思議な感覚を覚えながらも、カミーユは母親に言い含められたとおりに礼をした。
 シャアが開けてやった後部座席のチャイルドシートに座り、シートベルトを締めて貰う。
 その隣にアムロが乗り込んだが、シャアは何も言わなかった。運転中にアムロの顔を伺うのが楽しみではあるが、慣れぬ子供を一人で乗せるわけにも行かない。
「車、酔わない?」
「たぶん……だいじょうぶです」
「1時間はかからないけど……少し遠いからね」
「まあ、私の運転技術を信じたまえよ」
「……俺の方が上手いじゃん」
「う゛っ……」
 アムロの一言に、シャアはあっさり引き下がった。事実らしい。
「3倍速とか言って飛ばすなよ」
「分かっている」
 車はスムーズに滑り出した。

 小一時間ほどして、車は市街地のほぼ中心に建つ高層マンションに着いた。保育園は郊外に広めの敷地を以て建てられているため、少しばかりの距離になる。
 通常の一戸建てを買うのとそう変わらない値の、いわゆる高級マンションだった。
 その地下の、一目で相場の知れる外国車の並んだ駐車場の一角に止められた国産のセダンは、ひどく浮いていた。

「カミーユ、エレベーター、外が見えるよ」
 お泊まりセットの入ったリュックサックを背負ったカミーユを抱き上げる。カミーユの身長ではあまり外が見えないことを考えては珍しいことではない。が、しかし、抱き上げたのはシャアだった。
 カミーユはアムロとは違う更に大きな手に戸惑い、ガラス越しの夜景よりシャアの顔を注視した。
 シャアとしては、アムロに重いものを持たせたくないだけだったりはするのだが、カミーユにはシャアの真意を測りかねて緊張した顔になる。
「カミーユ、大丈夫だよ。シャアだって、別にいつも喧嘩腰ってわけじゃないんだから」
「取って食いはせんよ」
「は……はい。えっと……ありがとうございます。……うわぁ…………すごくたかい」
 シャアが見たこともない表情で微笑んだのを見て、やっと息を吐く。そして、ガラスの外を見た。
 地上40階建ての39階へ向けて、スムーズに上がっていく。高所恐怖症以外で高いところが嫌いな子供はそういない。カミーユも例に洩れず、広がる夜景に目を奪われた。

 小さなベルの音と共にエレベーターのドアが開く。
 その階には、ドアは一つしかなかった。
 ここは39階ではあるのだが、上二階がまるまるペントハウスとなっているため、この階が玄関となっていた。

「ようこそ、小さいお客様」
 ドアを開け、ひどく丁寧に、けれども茶化すように、シャアは恭しくお辞儀をした。
「おじゃま……します……」
 玄関……といっても、カミーユ達一般的な感覚のそれとはまったく異質な、エントランスホールとしか呼びようのないそこへ、カミーユは踏み込んだ。
「もう……シャア、やりすぎだよ」
「あまり来客などないのだから、たまには構わんだろう?」
「はいはい。カミーユ。こんなバカは放っておいていいからね」
 軽妙なシャアとアムロの会話に、引きずられるようにしてカミーユは微笑んだ。
 何だか、楽しい夜になりそうだった。

「アムロ、オカエリ、アムロ」
「ハロだ!!」
 奥からころりと転がって来たライトグリーンの球体に、カミーユの目が輝く。
「ただいま、ハロ。何もなかったかい?」
「ハロ、リョウコウ、ブジ、ブジ」
「そう、それは良かった」
 アムロは屈んでハロをぱかりと開き、来客などのデータ一覧を表示させた。何事もなかったようだ。
「せんせい、なんでハロがいるの?」
 園には何体かのハロが転がっているが、アムロが作って持ち込んだものだと知る者は大人しかいない。
「ハロは僕が作った子だからね。この子が一番初めに作られたんだよ。ハロ、カミーユにごあいさつは?」
「カミーユ、カミーユ、ナマエ、トウロク。トウロクカンリョウ。カミーユ、カミーユ、ゲンキカ、カミーユ」
 耳のように球体の両頭側部を開け、ぱたぱたと宙に浮かぶ。そして、カミーユの腕の中に飛び込んだ。
 まだ小さなカミーユの身体には余り、蹌踉めいたところを後ろから来ていたシャアが支える。
「こらこら、ハロ。僕にするのと同じ様じゃ、カミーユには大変なんだよ」
「……ゴメン、ゴメン、カミーユ、ゴメン」
「いいよ。ハロ」
 園でもハロは子供達に大人気だ。知った友達がいることを知って、カミーユの緊張が少し解れる。

「カミーユ、ソファにお荷物を置いたら、シャアとお風呂に入ってきてね。その間に晩ご飯、作るから」
「あ、はい……でも……ひとりで、はいれます」
 廊下の先のリビングもだだっ広い。別にカミーユの家とて貧しいわけでもなく、中の上、もしくは上流の端っこくらいには引っかかっている家の筈なのだが、世界が違いすぎた。
 カミーユにはよく分からないが、全体的にアンティークもので纏められた室内は、大変に優雅で落ちつける空間になっている。
 猫足のソファに、言われたとおり荷物を置いて、カミーユは物珍しげに室内を見回した。
「一人で入りたい?」
 その一言に、はっとしてカミーユはアムロを振り返った。
 アムロは優しく笑いかけている。しかし、少し茶色がかった瞳は、何でも見通しているようだった。
 カミーユは俯き、暫くして、小さく首を横に振った。
「シャア、頼むね。……ごめんね、僕が一緒に入ってあげられなくて。でも、カミーユもお腹空いたでしょう? シャアじゃ、ご飯、作れないから」
「はい」

 浴室も、とてもマンションだとは思えない作りだった。浴槽も、洗い場も、大人の男が二、三人ずつ入ってもまだ余裕がありそうだ。
 脱衣所でも丁寧に脱いだ服をたたみ、俯き加減の侭シャアに続いて浴室に入ったカミーユに、シャアは何か少し不愉快な気分になるのを感じた。
 礼儀も、躾も行き届いている風なのに、何が気に障るのか、自分でもよく分からない。
「大人しいのだな。保育園ではあんなに元気だというのに」
「……いえでさわぐのは、わるいこだから」
 シャアを置いて、さっさと身体を洗い始める。
「せっかく一緒に入っているのだ。私の背中を洗ってくれないか。君のも洗ってあげよう」
 頑なすぎるカミーユの様子に苛々しながら、シャアはカミーユからスポンジを取り上げた。
「いいですっ!…………?………………」
 スポンジを取り返そうとシャアを振り返り、ある一点で目が留まる。
 小さく首を傾げて自分の下を伺い、もう一度、シャアのそれを見る。
「…………そんなに見ないでくれないか」
 さすがに決まり悪くなって、少し照れたようにシャアが言う。
「……なんか、ぼくのとちがう……」
 不思議そうに、シャアの逸物を見詰める。当然、子供のそれとは比べても仕方がない。しかも、並の大人のものと比べても、なかなかに立派なものである。
「君のお父上のと、そうは変わるまいよ」
「……おとうさんと、おふろになんてはいったことない」
「ああ……それは失敬。いつも母上となのだな」
 カミーユはシャアのそれから視線を外し、ふるふると首を横に振った。口がへの字に曲げられている。
「……すまない。それで、一人で入れるのだな」
「おかあさんのじゃまをするのは、わるいこだから」

 二人の間に妙な沈黙が流れた。
 シャアは、例えようもなくカミーユを持て余している。
 「悪い子」というフレーズが気に障って仕方がない。

「二人ともー、タオル、籠の中に入れておくからね」
 気まずい二人の沈黙を打ち破ったのは、柔らかなアムロの声だった。
 カミーユもシャアも、縋るような視線を浴室のドアに向けた。
 調子よく返事が返ってこないことを気にかけて、アムロはドアを開ける。さっと、涼しい空気が浴室内を撫でた。

「どうしたの? のぼせた?」
「い、いや……」
「そう? ああ、カミーユ、はい。これ、あげる。この間入浴剤のおまけで付いてたんだ。シャアに遊んで貰うといいよ。気分が悪くならない程度にね」
 差し出されたのは、ネジを巻いて水に浮かべると、カタカタと前進するひよこのおもちゃだった。更には、中に水を入れると水鉄砲にもなる。
 カミーユは怖ず怖ずと小さな手でそれを受け取り、困った顔でアムロを見上げた。
「おふろで……おもちゃであそぶのは、わるいこだって……」
「お、大人と一緒に入った時はよいのだ!!」
 アムロが何かを言う前に、シャアが先を制した。

「子供が一人で入って、おもちゃで遊んでいては、時間を忘れてのぼせ、気分を悪くしたり、倒れたりしてしまう危険性がある。だから、おもちゃで遊ぶのは良くないとされる。しかしだな、私や、その他大人と一緒に入った場合、時間の管理の責任は大人にある。倒れる危険性もずっと小さくなるだろう。だから、今、君は私という大人と入っている以上、君が安全に遊べるように取りはからう義務と責任は私にある。その私が構わないと言っているのだから、何の問題もない。そうだな、アムロ?」

「え? う、うん……まぁ、そうだねぇ……シャアの言うとおりだけど……」
 何故急にシャアがそこまで大袈裟な長口舌を繰り広げたのか、今一つ意図が掴めない。
「それより、カミーユ。君は、人から物を貰ったときに言う言葉を知っているかな?」
「……あ、はい。アムロせんせい、ありがとうございます!」
「どういたしまして。……ねぇ、シャア、何かあったの?
……いや、何も……さぁ、では早く身体を洗って湯船に入ろう」
 シャアは案外素直なカミーユの行動と、良い子であろうとする姿勢とが、堪らなく愛おしくなっていた。
 極力良い子であろうとする姿は、酷く痛々しい物に見え、更には、幼い頃の自分を見る思いもした。
 シャアの気遣いは、何となくだがカミーユにも伝わった。今度は大人しく、スポンジを持ったシャアに背を向ける。
「……まあ、いいけど。カミーユをいじめるなよ」
「そんなことは、断じてしていないぞ! なぁ、カミーユ」

 急に振られ、カミーユはきょとんとした顔でシャアと、それからアムロを見上げた。
 それから、ゆっくりと頷く。
 いつも保育園では喧嘩腰で、そんな姿しか見たことがなかったのに、今日のシャアは不気味なほど優しい。更に、それが何故か心地よいことが不思議だ。

「そう? カミーユがいいなら、いいんだけど……。晩ご飯、ハンバーグだからね。遊びすぎないで上がりなよ」
 アムロの口調はすっかり、ちょっと過保護で優しいお母さんである。
「寒いね。ごめんね。……シャア、ほんとに頼むよ」
「……私は本当に信用されていないのだな……」
「その台詞、信用される人間になってから言えよ……」
「何故君は、私と話すときとカミーユと話すときで、声音も口調もそんなに違うのかね?」
「決まってるじゃない。カミーユの方が遥かに可愛くていとおしいもの」
 シャアの完敗。
 シャアはがっくりと項垂れて、いじいじとカミーユの背をスポンジで擦り始めた。
「子供と比べたって仕方ないじゃないか。貴方にだって、貴方なりのいいところがある……筈だろう?」
 そう言って、じっとシャアを眺める。頭の先から足の先まで。白金髪は濡れて少し色味が増して見える。まあ、とりあえず、見た目としては水も滴るいい男だ。
「うん。たとえば、顔とか……身体……とか……」
 それだけ言って言葉が続かない。
「ああ、もう! カミーユが風邪引いちゃうね。ちゃんと温もるんだよ」
 カミーユの頭を優しく撫でて、アムロは浴室から出て行った。もとい、逃げ出した。

 それから二人は、そこそこ仲良く背中を洗い合い、湯船に身を沈めた。

 風呂から上がった二人を待っていたのは、素晴らしく美味しそうな夕食だった。
 カミーユはアムロの隣に設えられた席に着き、きょろきょろと落ち着かなげにテーブルを見回した。
 シャアはアムロの目の前と言うよりは二人の丁度中間の向かいに座っている。こうして複数で食卓を囲むということは保育園外では経験がない。カミーユはひどく戸惑っていたが、嫌なわけではなく、むしろ何故か嬉しくて楽しい気分になった。
「頂きます」
「いただきまーす」
「はい、どうぞ」
 ハンバーグが嫌いな子どもはそういない。カミーユも大多数に洩れなかった。ただ……付け合わせにフォークが止まる。
 ドミグラスソースのかかったハンバーグ。人参のグラッセ。炒めた玉葱。コーン。そして……ピーマンのソテー。
 ちゃんとレストランばりに綺麗に盛りつけてある。
 人参も玉葱もコーンも比較的好きな方だ。甘いものは基本的に大丈夫なのだが……どうにも、苦味とアクの強いピーマンは少し苦手だ。
 しかし、カミーユが何かアクションを起こす前に、シャアが口を開いた。

「……アムロ、これは虐めかね?」
「何が? 子どもの前で大人が好き嫌いするなよ」
「私が炒めた玉葱が好きではないことを知らない君ではなかろう!」
「よく火は通ってるよ。カレーに入れる程じゃないけど。ねぇ、食べられるよね、カミーユは。玉葱」
「はい」
「くっ……」
 ぱくり、と玉葱を口に入れてみせる。シャアは悔しそうに顔を歪めた。
「偉いね、カミーユは。……それに比べて大人のくせに……ねぇ」
 好き嫌いを言うのは悪い子だと、常に母親に言われ続け、ただその為だけに苦手なものも頑張って食べていたカミーユにとって、アムロの一言はなかなかに鮮烈だった。
 ただ怒られない為に……ものを食べただけで、誉められたことなどない。

「情けないよ、シャア…………ほら、食べて」
 シャアの皿に手を伸ばし、玉葱を幾つかフォークに刺してシャアの口元に差し出す。
「…………ホント、子どもだよね……はい、アーン」
「ん……」
 アムロにそうされると、渋々にでも口を開いてしまう。やはり、シャアはかなり単純だった。
 皿の玉葱をきれいに片づけさせて、アムロはカミーユに視線を移した。
 ちょこちょこと皿のものは減っているが、なかなかなくならないものがある。
 アムロはシャアにそうしたように、カミーユの皿のピーマンをフォークに刺した。
「はい、お口開けて」
 アムロは主任でクラス担任ではないので、普段園児と昼食を取ったりしない。担任のファは行儀の良いカミーユは二の次になるし、家でだって母親にこんな事をして貰った記憶はない。
 カミーユは驚いた表情でアムロを見つめ、暫く戸惑った後、そっと口を開いた。
 大人のシャアだってして貰っていたのだと思えば、カミーユのプライドも傷つかない。
 口の中に入ったピーマンを噛み砕いて飲み込む。

 何だか、いつもと違う味がした。あまり苦く感じない。

「はい、よく食べました!」
 にっこり笑うアムロにつられて、カミーユも微笑む。笑うと、とてつもなく美しく、可愛らしく見える。
 愛しさに任せてカミーユの頭を撫でながら、シャアに目を移して再び笑ってみせる。
「…………まったく……私はいいダシだな」
「いいじゃない。美味しかっただろ?」
「口移しが良かった」
「馬鹿!」

 食後、カミーユはリビングでハロと遊んだ。
 続きになっているダイニングキッチンでは、アムロは洗いあけを、シャアはまぁ、食後の一杯を楽しんでいる。
 微笑ましくハロと戯れるカミーユを眺めながら、シャアがぽつりと呟いた。
「子供を持つのも……悪くはないな」
 アムロが対面式のシンクから怖い表情で顔を上げる。
「……それ、ものすごく聞き捨てならないんだけど」
「君の子どもが欲しい。セイラとでも作ってみないか? そうすれば、かなり私達の子に近い子供が出来る」
「浮気を奨励するのか?」
「そうではないが……子供とは、可愛いものだな」

 カミーユは大人しくハロと遊んでいる。まだハロが単品でアムロにでもじゃれている時の方が余程騒がしい程だ。
「…………悪い子、か」
 殆ど口の中だけで呟く。
 こうしてみると、カミーユはかなり「良い子」だろう。「悪い子だから」と繰り返す言葉がひどく切ない。

「何?」
「……いや。カミーユはいい子だな」
「いい子だよ、とても……その為に、ものすごく努力してる」
 洗い物を終え、タオルで手を拭きながらシャアの向かいに座る。
 側の棚からグラスを取り、シャアの前に置かれていた氷と酒を少し注ぎ入れる。
「『悪い子』になることを、とても恐れてる……」
 舐めるようにグラスに口を付け、目を伏せる。
「子供はみんな、それぞれにいい子なんだから、そうあるようになんて考えなくていいのに……」
「……そこが尚更いとおしい?」
「うん……俺達保育士が何を言ったって、結局子供達にとっては何よりも親が絶対者なんだよ。だから、子供は盲目的に親に従うしかない。親に背かれることは、子供にとってすぐさま命の危険を表すものだから……」
 シャアはそっと立ち上がってテーブルを回り、アムロの隣に座った。優しく肩を抱き寄せる。
 アムロもシャアの優しさを酌んで肩口に擦り寄る。
「完全な虐待なら、まだ助けてあげられるんだけど……ご飯を食べさせて、清潔にして……お金で買えるものは何不自由なく与えられているから、俺には、今以上のことなんてしてあげられない……」
「しかしカミーユはとてもいい子だ。親が与えるものが金や物質的なものでしかなくともな。それは、君たち保育士が愛情を持ってカミーユに接してきたからこその結果だろう。なら、君だって、もう少し自信を持ちたまえよ。君は、カミーユに十分なことをしてあげられている」

「貴方、ホントに今日は優しいね……」
 アムロのふわふわとしたくせ毛を撫で付けながら苦笑する。
「私はいつも優しいつもりだが?」
「……そうでした。いつも無駄なくらい、俺にだけは優しいよね」
 シャアのコロンの香りが甘く優しい。朝風呂の後はいかにもメンズのクールな香りを身に纏うシャアだが、夜のシャワー後はアムロに合わせたように甘やかな香りとなる。その、夜だけのとっておきが自分の為だと知っているからか、アムロはこの香りがかなり気に入っていた。
「……今日はお預けだから……キスだけならいいよ……」
「君が誘ってくれるとは思わなかった。……カミーユに感謝せねばな」
 しかし、喜んだのもつかの間だった。
「カミーユにもしてあげてね」
「……………………………………は?」
「おやすみのキス!!」
 そう言いつつ素早くシャアの頬に軽いキスを送り、アムロは立ち上がった。
「カミーユが眠そうだったらベッドに連れて行ってあげてね。俺、お風呂入ってくるから」
 少し身を屈める形で再び軽く額にキスをして、アムロはさっさと浴室へ行ってしまった。
「…………………………………………はぁ……」
 まあ、良しとしよう。
 シャアは苦笑を洩らした。額に口付けをくれた時のアムロの頬が微紅に染まっていたのを確認できただけでも、それなりの僥倖だった。
 照れ隠しに逃げたのだと言うことは分かる。注いだばかりのグラスには、まだアムロにとっては十分に酒が残っていた。指先で軽く弾くと、氷がからりと涼しげな音を立てる。
 そうして、感傷に浸りつつカミーユを眺めた。

 カミーユはそろそろハロと遊ぶのにも飽きて、部屋をきょろきょろ見回していた。それでも、動き回ったり、飛び跳ねたり、辺りの物に手を出したりしないところは、さすが、不必要なまでに躾が行き届いているだけのことはある。
 何か他にカミーユが遊べる物はないかと考えてみるが、大人の二人暮らしではそうそう子供の玩具などある筈もない。
 アムロのプライベートルームにならばTVゲームやPCゲームの類も揃っているが、本人の了承なしに入れはしない。
 かといって自分のプライベートルームには精々本くらいしかなく、それも勿論、幾ら頭が良いといっても子供に読める物などなかった。後はトランプくらいの物だが、それも、二人で楽しめそうなゲームは、賭け事系しか浮かばない。

 ぼーっと考えながらカミーユを何となく見ていると、ふと、カミーユはハロを抱えたまま立ち上がり、そっと窓辺に寄った。
 リビングは採光性と景観のため、片側の壁がほぼ一面ガラス張りになっている。高層故に開くところは殆どないが、今の時間ならば素晴らしい夜景が楽しめる。
 一応カーテンもあるが、家具やフローリングの日焼けを防ぐ目的以外で閉めることはあまりない。
「エレベーターより良い眺めだろう」
「はい……」
 側に寄って、窓ガラスに手を当てる。それを見て、カミーユももう少し窓に近寄り、顔を近付けて小さな手をぴたりとガラスに当てた。家主が触れているのだから良いと判断したのだろう。ガラスに触れるのは、母親から厳しく駄目だと言われていた。 ころんと足下にハロが転がる。

「ここからおちたら……しんじゃいますよね」
 下を見ると、立ちくらみがしそうな程地面が遠い。しかし、カミーユは何処かうっとりとして呟いた。
「そんな事など、考えた事もないな。それより、これだけ空が近いと、飛べそうな気にならないか?」
「ひとには、はねなんてないもの」
 足下のハロをこつりと蹴る。
「飛んでみたいか?」
「ううん。はねなんていらない。じめんにいたい」
「君だけを宙に浮かせてみせることは出来んが……君を大空へ連れて行くことは出来るぞ」
「ひこうき? それとも、ヘリコプター?」
 先に言われて、シャアは答えに詰まった。
 このマンションの屋上にはヘリポートがある。非常用ではあるが、シャアもアムロも、それから彼らの友人知人達にも、乗り物を乗り回すのが趣味だという人間が多いので、休日には大抵誰かが利用していた。
「ヘリだな。私も所有しているし、友人も何人か持っている。頼めば乗せて貰える。飛行機もあるが……それは、ここではなく、飛行場まで行かねばならんからな。少し遠い」
 カミーユの瞳が輝く。ヘリも飛行機も、やはり男の子にとっては憧れの的である。
「空は気持ちがいいぞ」
「ほんとに、のせてくれるんですか?」
「ああ。今度は、天気の良い休みの日の昼間に来るといい」
「…………また……きていいんですか?」
「勿論だとも。またいつでも遊びに来るといい」
「はい!」
 気前の良いシャアの言葉に、カミーユは全開の笑顔で応えた。
 こう素直に表情を表すと、とてつもなく可愛らしい。緊張して表情のない時には可愛げのない、ただ冷たい美貌という印象だったものが本当に愛おしく、守らねばならないものの様な気がしてくる。

「ああ……でも……」
 急に笑顔が翳り俯く。もう一度、ハロを軽く蹴る。
「おかあさん……いいって、いってくれるかな……」
「なに、アムロが一緒だと言えば大丈夫だ。アムロは君の母上からも、とても信頼されている。心配することは無かろう。もし不安なら、私から君の母上に頼んでやってもいい」
 よしよしと頭を撫でてやる。幼い子供の髪らしく、ひどく柔らかで繊細な手触りだった。
 撫でられて安心したのか、カミーユはぱふっ、とシャアの足に寄りかかった。二人の身長差ではカミーユの頭はそこそこ妖しげな位置に来る。それとなく逸らして、シャアはカミーユを抱き上げた。
「今まであまり仲良くはしてこなかったが、どうやら私は君のことが嫌いではないらしい。どうだろう、この辺りで一つ、友人にはなれないだろうか」
「……あなたが、アムロせんせいのいやがることをしないなら」
 小賢しい。けれど、それでもシャアは顔に笑みを張り付けた。
「まあ、善処しよう」
「ぜんしょ?」
「君の言うとおりに出来るように頑張る、ということだ」
「…………わかりました。ぼほくも……あなたのこと、そんなにきらいじゃありませんから。…………おかあさんより……おとうさんより……すき……かも…………」
 シャアはカミーユの唇に人差し指を押し当て、言葉を遮った。子供の素直さ、率直さは美徳だが、言ってはならない言葉もある。

「しかし……翼はいらないのではなかったか?」
「…………だって……じゆうにはなりたくないもの……」
「……?」
 カミーユの言いたいことが分からない。
 シャアは素直に首を傾げた。
「じゆうって……ひとりになる、ってことでしょ。だから」
「私は自由だが……一人ではないな。アムロがいる」
「だって、あなたはおとなだもの」
「……随分哲学的だな」
「てつがく……ってなに?」
「難しいことを言うから、私には良く分からん、と言ったのだよ。自由になるというのは、確かに一人で立つということだが……一人っきりになって寂しくなるのとは、また少し違う。まあ、確かに、働いてお金を貰っている大人でなくては、自由になることは難しいな。君にも、まだ早い」

 やはり、子供も悪いものではない。
 今までの……アムロと同棲を始める前などは特に、いつ身に覚えのない子供が出てくるかと気が気ではなかったものだが、身辺が綺麗なら、なかなか良いものだとさえ思える。
 アムロとの子供……というのは実際問題として無理だが、自分の子供ではなく、アムロの子供なら、ただそれだけで愛せそうな気がする。

「さて、ここで立ち話も冷える。そろそろ寝室へ行こうか」
「はい」
「来たまえ、ハロ」
「え?」
 カミーユを抱っこしたままリビングを後にしようとしたシャアの足下に転がりながらついてくるハロに、カミーユは怪訝な顔をした。
「ハロはおもちゃですよね」
「ハロは目覚まし時計だ」
 カミーユの言いたいことは、既に大体読める。シャアはきっぱりと言い放った。
「確かに、寝室やベッドの中に玩具を持ち込むのはあまり感心できることではない。しかし、ハロは毎朝私達を起こしてくれる優秀な目覚まし時計だ。たとえアラームで起きなくとも、あの手この手で必ず起こしてくれる。朝正しく起きられないことの方が余程問題だと思うが、どうかね? なぁ、ハロ。君は私達の目覚まし時計だな?」
「ハロ、ハロ。ハロ、アムロ、オコス。シャアモ、オコス。アムロ、ネオキ、ワルイ。アシタ、カミーユモ、オコスカ?」
 パタタと羽ばたくように宙に浮かび上がりながら、ハロはカミーユの周りを回った。
「ハロってめざましだったんだ……」
「目覚まし時計は寝室にあって然るべきものだよ」
「はい!」

 カミーユにとってこの家はイレギュラーな事だらけだったが、それがとても嬉しい。
 何より、自分が肯定されている。自分の考えや、本音が、全て。
 子供扱いもされないが、なのにちゃんと目線を合わせてくれている。その事がはっきりと分かるとまでは言わないものの、とても心地いい。
 何より、「家」にいて圧迫感や閉塞感、息苦しさを感じないのが不思議で、思わず頬が弛むほど嬉しいのだ。

「ハロ、ちゃんとおこしてね」
「リョウカイ、カミーユ。ハロ、カミーユ、オコス」
 カミーユが両手を伸ばすと、その腕の中に飛び込んでくる。
「君はハロが好きなのだな」
「はい! いいなぁ……おうちにハロがいるなんて」
「作ってくれるよう頼んでもよいが……しかし、君の他にも欲しがる人間はいるだろうからな。難しいな。……だから、うちの社で製品化すればよいと言うのだ」
「べつにいいです……ほいくえんにいったら、ハロ、いるから」
 すり、と甘えるようにハロを抱き寄せて、カミーユは目を閉じた。軟性合金で作られているためか、他の金属よりずっと手触りは優しいし暖かみがある。
 擦り寄ったまま眠ってしまいそうな気配を感じて、シャアはカミーユを抱え直した。
「ハロ、今何時かね」
「22ジ50フン41ビョウ。22ジ50フン42ビョウ。22ジ50フ、」
「了解した」
 音声認識も大したものだ。
 23時前とは、幼子にはかなり過ぎた時間だろう。
 シャアはリビングを出、階段を上がって二階に行った。二階が主に、プライベートルームと寝室になっている。
 その前にまあ、洗面台へ行って歯を磨かねばならなかったが。

 キングサイズのベッドの上にカミーユとハロを降ろす。そして自分もベッドに腰掛けた。
「おっきい……」
「それはな……。二人で寝るならこれくらいのサイズでなくてはな。今宵は三人だが……まあ、君は小柄だから、寝られないということはないだろう」
「ぼくも、ここで?」
「客室で一人で寝たいか?」
「……ひとりでねられます」
「寝られるかどうかではなく、寝たいかどうかを聞いている」
「…………いやです」
「だろう?」
 風呂に入る前の、アムロとカミーユのやりとりを思い出す。
「まあ、もうすぐアムロも風呂から上がってくる。ベッドに入って待っていたまえ」
「はい」
 ふぁ、と大きな欠伸をする。そして、ごそごそと布団の間に潜り込んだ。掛け布団を口の辺りまで引き上げる。
「眠ければ、先に眠っていて構わないのだぞ?」
「アムロせんせいをまちます」
「そうか……無理はしないようにな」
 滲むような微笑みを見せて、小さな額と頬にキスを落とす。
「おやすみ、カミーユ」
 アムロに言われたことなど関係なく、この幼子に限りないキスを与えてやりたいと願う。

 心地良さそうに目を閉じるカミーユを暫らく見詰め、その呼吸が健やかな寝息に変わったのを機にベッドから立ち上がる。
「ん……」
 直ぐにカミーユはむずかる様な声を上げ、薄く目を開いた。
「あぁ……すまない。起こしてしまったか」
 カミーユは少し寝呆けたような表情で緩く首を振った。
「アムロを待つ間、私も少し横になっていよう」
 微かなべっどの軋みでさえも彼の睡眠を妨げるのなら。
 シャアはカミーユの隣に身体を滑り込ませた。子供の体温は高く、いつもよりずっと暖かい。
 カミーユを抱き込んで、シャアは目を閉じた。

「……もう……」
 肩にタオルをかけたまま寝室に入ったアムロは、ベッドの上を見て思わず苦笑を洩らした。

 枕と布団に埋もれる様にして、天使の寝顔が二つ並んでいる。
 カミーユは勿論のこと、シャアも眠るとひどくあどけない顔になる。
 タオルを側のチェアの背にかけて、カミーユをシャアと挟むようにしてベッドに入る。
「ハロ、朝7時ね」
「リョウカイ」
 手元のスイッチで部屋の明かりを消し、しかし、夜中急にカミーユの目が覚めても良いように、いつもは付けないサイドテーブルのランプを点ける。
「ん……せんせ……?」
 物音と声で、またカミーユの目が覚める。
 そういえば、お昼寝の時間にも寝付きは悪いし直ぐに目の覚める子だったことを思いだして、アムロは優しくカミーユの頭を撫でた。
「ごめんね。起きちゃった?」
「おきてました。……おやすみなさい」
「おやすみ、カミーユ。いい夢をね。シャアは君におやすみを言ってくれたかい?」
「はい。キスも……」
「そう……おやすみ」
 シャアと同じように、額と頬に口付けを与える。
 カミーユは微笑んで目を閉じ、アムロの胸に顔を埋めた。身体はシャアに抱かれたままなので、少し体勢が苦しい。
「シャアったら……相変わらず、寝てる時子供の侭なんだから……」
 そっと腕を解かせ、カミーユを自由にする。そして少し首を伸ばすようにして、シャアの額に口付けた。
「おやすみ、シャア」
 いつも以上の温もりの中で、アムロもそっと、目を閉ざした。


作  蒼下 綸


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