何となく瞼の裏が明るくなって、覚醒が促される。
 いつもの様な小鳥の囀りは聞こえないし、ましてや目覚まし時計のアラームも聞こえない。けれども、いつもよりずっと暖かい布団の中がとても不思議で、カミーユは薄く目を開けた。

「……ぅわ……」

 真っ先に視界に入ってきたのは、とても綺麗で幸せそうな寝顔だった。
 額を被う赤茶けた髪が、呼吸の度に微かに揺れている。
 理由も分からないまま、ドキドキする。
 思わず顔を背けて寝返りを打つと、更にキラキラしい顔がアップで迫った。
 起きているときにはきれいに撫で付けてあるが、寝ている時までそうというわけにもいかない。少し乱れた白金髪が、朝の光で眩しい程に輝いている。
 起きた時に傍らに誰かが居てくれる、それだけで何だか幸せな気分になる。
 アムロの胸元に潜り込もうとして、身体が動かないことに気が付く。
 よく見ると、両側から二人に抱き締められていて、身動きが取れなくなっていた。
 人肌の温もりが、どうしようもなく優しくて嬉しい。
 少し窮屈だが、その事さえも嬉しく思える。
 朝起きて、誰か側にいてくれた事などあっただろうか。

「どうしよう……」
 ぶわっと溢れた涙で視界が揺れる。
 泣くのは、悪い子のする事だ。そう思っても、止める事が出来ない。
「うっ……ひっく…………」
 帰りたくない。この暖かさを一晩限りのものとはしたくない。

「ぅ……ん……」
 微かな泣き声を聞いて、シャアが唸る。
 カミーユはびくっとして瞬時に泣きやんだ。そっとシャアを振り返る。
 シャアは眉根を寄せて暫くぎゅっと目を瞑っていたが、少しして薄く目を開いた。
「ぁ…………ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声で謝る。すると、シャアの目がぱっちりと開かれた。
「あ……ああ……そうか。昨夜は君が泊まったのだったな」
「おこしちゃって、ごめんなさい……」
「いや……ああ、もう6時半か。まあ起きる時間だ。…………その前に、おはよう、カミーユ」
 側のテーブルに置かれた置き時計に目を遣って時間を確かめ、朝の挨拶をしながらカミーユの額にキスをする。
「お、おはようございます……」
「泣いていたのか……?」
「いいえ……」
「目が赤い。それに、頬が濡れている」
 手で軽くカミーユの頬を拭ってやる。そこはまだ乾いておらず、冷たかった。
「アムロもそのうち起きる。朝食を作ろう。君は顔を洗ってきたまえ。洗面所は分かるな?」
「はい」
 シャアはさっさとベッドから降りた。カミーユも続いてごそごそとベッドから這い出した。

「まあ、そこに座っていたまえ」
 顔を洗ってダイニングに来たカミーユをテーブルに座らせ、シャアはパジャマの上からエプロンを着けた。何となくそのエプロンに見覚えがある気がして、カミーユは首を傾げる。
 白地に大柄な赤のチェック。両サイドに付いた大きめのポケットにはヒヨコのアップリケ。……著しく、シャアには似合わない。
 視線に気が付いて自分の出で立ちをかえり見、何となくを察する。
「ん?……ああ、これはアムロと色違いのお揃いなのだ。見たことがある気がしたのだろう? アムロは保育園で使っているからな。家で着させようとしたら嫌がられてしまってな……」
 要するに、お揃いでシャアが買ってきたらしい。
「にあいませんね」
 子供の言葉は率直だった。
「……そうはっきり言ってくれるな。アムロにも言われた」

 冷蔵庫から様々取り出して調理台に並べる。
「おりょうり、できるんですか?」
「朝食くらいはな。朝は早く起きた方が作ることになっている。まあ、圧倒的にアムロが作る方が多いがな。さて、君はピーマンが苦手のようだったな……」
「あなたのたまねぎほどじゃないです」
「なに、私だって、炒めたものでさえなければ好きだよ。では……入れてしまおう」
 赤いピーマンを一つ、適当に千切り種をのけてミキサーに。他にも、スライサーにかけたリンゴだの人参だのセロリだのトマトだの…………何を作るつもりなのか分からない感じにぽいぽい放り込んでいく。最後に少しだけ水が入った。
「なんですか、それ」
「ミックスジュースだ」
「…………え゙?」
「目覚めはこれに限る」
 パチとスイッチを入れる。ミキサーは派手な音を立てて回り始めた。
 その間に、なかなかの手つきでボゥルに卵を割り入れていく。……幾つか崩れたようではあったが。
「スクランブルエッグは、砂糖醤油と塩胡椒、どちらが好きかね」
「ん……と……しおこしょう」
「気が合うな。ではそうしよう。アムロは甘辛いのが好きだが、多数決だな」
 その前に、とミキサーを止める。そして、ボゥルに塩と胡椒を振り入れ菜箸で混ぜた。……菜箸も似合わない。
 混ぜた後はそれを横へ除けておいて、レタスやエンダイブ、ルッコラ、チコリと、適当に水洗いをして千切ってサラダボゥルの中へ。そこへ、売っている時点で既に千切りになっているハムを散らす。
 後は、食パンをトースターに入れてスイッチを入れ、コーヒーメーカーにコーヒーの粉をセットして水を張り、これもまたスイッチを入れる。
「よし、あとはアムロが起きてから卵を炒めるだけだ」
「………………えぇ?」

 一連のシャアの動きを眺めていて、何となくカミーユは気付いてしまった。
 …………シャアは、一度も包丁を握っていない!

 そう言えば昨晩、アムロが言っていたではないか。「シャアではご飯を作れない」と。
 きっとこれがシャアに出来るぎりぎりなのだろう。

 ……と、急に階上が賑やかになる。
 バインバインとハロが跳ねるときの独特の音と、盛大なアラーム。ベル音。
 カミーユは驚いて、不安げにシャアを見た。
   シャアはそれにくすりと笑って応える。
「あと少しでアムロのお目覚めだ」
「…………あれ、ハロです……か?」
「そうだ。セットした時間には起き上がれるように起こしてくれる」
 ……ハロは大変優秀な目覚まし時計だった。何せ、対象者の脳波を計りながら、セットした時間にはほぼ覚醒するように起こしてくれる。
 今はまだ、6時50分だった。
「便利だろう?」
「はぁ…………」
 それでも不安げな顔のカミーユを放って、シャアは3つのグラスにミキサーの中身を注ぎ分けた。
「まあこれでも飲んで見ていたまえ」
 そう言ってグラスの一つをカミーユに渡し、自分も一つ手に取って口を付ける。 グラスの中は、何だかどろどろした液体で満たされている。しかも微妙な色合いだった。トマトや人参の赤とセロリの緑、そしてリンゴが少し変色した茶色…………その融合体が。
 そこそこ美味しそうな表情でシャアが飲み干していくのを眺めて、カミーユも意を決する。
 ……多大な決意と根性を必要とするそれに、口を付けた。

「……ん…………あ……あれ? あまい……」
「リンゴと人参が半分以上だ。思うほど苦くもないし、不味くもないものだろう?」
 あまりピーマンもセロリも分からない。調理中に部屋に入っただけでも分かる……と言うほど嫌いでもなければ、もの凄く気になる風味でもなかった。
「アムロのは特別でな。これにたっぷりと……」
 初めて包丁のご登場である。
 転がるレモンを苦心して真っ二つ…………というには少し片寄って二つに切る。
 そして丸々一個、残ったグラスに絞り入れた。
「……すっぱい……ですよね?」
「今日のはベースが十分に甘いから、思うほど酸っぱくはないと思うが」
「いつもはあまくないんですか?」
「そうだな……いつもより少し、リンゴを多めにしたな」
 最後まで自分のグラスを飲み干し、唇を軽く舐める。
「いつもシャアさんがジュースつくってるんですか?」
「そうだな……これは私が作ることの方が多いかも知れない」
 カミーユもグラスを空ける。見た目よりはずっと、飲めない味でもなかった。
「さて、アムロが降りてくるまでもう少しかかる。ここは、朝の光景もなかなかのものだぞ」
 二つのグラスをシンクに入れ、窓辺に寄る。カミーユも後に続いた。

「うむ……今日は天気がいいぞ」
 窓は南向きなので朝日はそう入ってこない。しかし、空は高く青かった。
 場所が高い御陰で、遙か彼方まで見渡せる。他に何件か同じくらい……またはそれ以上の高さの建物もあるが、殆どは遥か階下に見下ろせる。遠くの山々の色まで見ることが出来た。
「夜景も勿論美しいが、明るい陽の下に見るのもまた悪くないだろう?」
「はい!」
 夜には見えなかったものが色々見える。ビルだけではなくて、家々の屋根や、合間に見える木々の緑も。ただ、いつもの高さで見るより、ずっと不鮮明で、不思議な色に見えた。
「じめんが……きれいにみえる……」
「粗が見えないからな……しかし、美しい部分も見えにくい」
 シャアも一晩で随分とカミーユの言葉に慣れてきていた。カミーユの発想や言葉は微かにアムロに似ているようで、シャアとしても慣れれば返しの効くものだった。
 子供は意味不明のことを話すと思っていたが、その気になって聞けばそれ程理解不能なものでもない。
「シャアさん……ちょっとアムロせんせいに、はなしかたがにてる……」
「そうか? まぁ……それなりに長く一緒に暮らしているからな」
 カミーユはカミーユで、似たような、けれども正反対のことを感じていたことに驚く。
「……ちゃんと、ぼくのこえ……きこえるんですね……」
「当然だろう。ここには君と私しかいないし、他はコーヒーメーカとトースターの音しかしていない」
 的外れなシャアの返答に、カミーユは突進するかのようにシャアの足に抱き付いた。
「うわ……な、何だ、急に……」
 驚いて離そうとするが、カミーユは渾身の力で縋り付いて離れない。
 あまり手荒にするのも危なげに思えて、シャアは仕方なくそのままにすることにした。

「……………………何やってるんだ?」
 暫くそのままに、そっとカミーユの髪を撫で付けてやっていると背後から声が掛けられる。
 振り返ると起き出したそのままに、パジャマ姿のアムロが首を傾げて二人を眺めている。
「おはよう、アムロ」
「おはよう、シャア。カミーユも、おはよう」
「……おはよう……ございます……」
「朝食、後は卵を炒めるだけだぞ」
「そう。…………カミーユ、泣いてるのかい?」
 シャアには素っ気なく返事を返し、屈み込んでカミーユと視線を合わせる。
 カミーユは、緩く首を横に振った。しかし、あからさまに目元が濡れている。
「シャアに何かされたの?」
 再びふるふると首を振る。
「お母さんが恋しくなっちゃったとか」
 さっきよりずっと強く首を横に振る。
「悲しいことでもあった?」
「………………せんせいにも……シャアさんにも……ぼくのこえ、きこえてるから……」
 アムロは大きく目を開き、シャアを見上げた。シャアは軽く肩を竦める仕草でそれに応える。
 優しくカミーユの頭を撫でて、アムロはそっとカミーユの身体を抱き上げた。やっとシャアから手を離し、今度はアムロに抱き付く。渾身の力は痛いほどだったが、それよりアムロにとってはカミーユの心の方が痛い。
 シャアはカミーユをアムロに任せ、卵を炒めるために静かにキッチンへと下がった。

「カミーユ……どうして、僕やシャアに、君の声が聞こえていないんじゃないかなんて思ったの?」
 柔らかい髪を手で梳いてやりながら尋ねる。カミーユはぐずるようにアムロの肩へと顔を押し付けた。
「怒って言っているんじゃないよ。ただ……どうしてかなって。カミーユがそれで、嫌な気持ちとか、悲しい気持ちになっていたのなら、ちゃんと聞こえてなかったかも知れない僕達が悪いんだから」
「…………せんせいたちは、わるくないです」
「じゃあ、どうして……?」
「おとうさんにも、おかあさんにも、ぼくのこえなんて、きこえてないから……だから……おうちだと、ぼくのこえ、きこえないんじゃないかって……だから……」

 思わず息を飲む。
 慌てて慰めようとしたが、咄嗟にはかけてやれる言葉が見付からなかった。
 子供の前で、その親を誹謗する事は出来ない。しかし、どんな言葉で慰めようにも、親を批判してしまいそうになる。
 かと言って、「親にも声は聞こえている」とも言ってはやれなかった。ならば何故、と問い返されるだけで、それから先の答えもまた、カミーユに言ってやれる言葉がない。
「カミーユ…………今は聞こえていなくても、きっと……お父さんにも、お母さんにも……君の声が届く日は来るよ……」
「……はい…………」
 言えたことはたったそれだけ。アムロは歯痒くなって唇を噛んだ。
 ただの気休めだ。大人の目ではそれが分かるが、子供にとっては本当に……唯一のよすがとなるかも知れない言葉。言ってよい言葉だったのかどうかにも戸惑う。
「……ご飯、食べようね。そろそろ急がないと」
「はい」
 逃げる。不甲斐なさに歯噛みしても、今それ以上に出来る事がなかった。
 抱き上げたまま、シャアがセッティングしたダイニングテーブルまでカミーユを運ぶ。  クッションを積んだ椅子の上にカミーユを下ろすと、丁度良いタイミングで出来たてのスクランブルエッグが目の前に置かれる。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」

「美味しい?」
「はい」
 サラダや卵を小さな皿に取り分けてやる。
 こんなちゃんとした朝ご飯を食べるのも、カミーユは久々だった。普段の朝食は、焼いていない食パンと牛乳。買い置きがあったらチーズかヨーグルト。そんな程度だ。
 昨夜もそうだったが、温かいものや作りたてのものが食卓に並んでいるだけで嬉しくなる。
 更には、シャアもアムロも、一人で食事を摂るとき以外にテレビを付けなかったし食卓に新聞を持ち込みもしなかった。話し相手がいるのに、必要性を感じていない。
 会話のある食卓というのもやはり、昨晩に引き続いてカミーユにとっては不思議で嬉しいことだった。
 二人とも、カミーユの目から見てもとても仲良く話していたし、お互いの話をよく聞いていた。保育園で見る二人の様子とはまるで違う。
 それは、自分の両親とは正反対の姿だった。

 思わず口をついて尋ねる。
「……どうして、おうちだとなかがいいのに、ほいくえんだとけんかするんですか?」
 途端に二人の会話が止まり、カミーユは二人から見詰められた。そして、アムロの顔が朱に染まる。
「……それは……」
「アムロは照れ屋だからな。私が外で愛していることを伝えようとすると、直ぐに恥ずかしがって逃げるのだ。喧嘩をしているのではなくて、あれはアムロの愛情表現なのだよ。例え、どんなに痛い拳でも、冷たい言葉でも、っ!!」
 見事なのろけだが、子供には通用しない。素直に受け取るだけである。
 アムロはシャアの口にトーストを押し込んだ。これ以上何か話されると、例え聞いているのが子供一人でも気恥ずかしくてやっていられない。
「黙ってろ」
「たたかれたり、こわいことをいわれたりするのも、すきってことですか?」
 アムロの低い言葉は聞かなかったことにして、首を傾げて尋ねるカミーユに、シャアは口をもごもご動かしながらも頷いてみせた。

 カミーユの頭の中は混乱してぐちゃぐちゃだった。頭上に沢山のクエスチョンマークが浮かんでいる。
 毎朝喧嘩をしている姿を見るが、確かに怒っているようなのはアムロだけで、シャアがアムロに冷たく当たったり、ましてや暴力を振るったりしたところなど見たことがない。
 それにアムロも、殴ったり罵ったりしながらも、結局園児達に見せるのと同じ柔らかな苦笑を浮かべ、偶には行ってらっしゃいのキスをしたりもしている。
 好きなのに嫌いだと言ったり手を上げてしまったりする気持ちは、分からなくもない。綺麗だとか、好きだとか、散々言われると確かに気恥ずかしいし、照れ隠しに、相手に冷たく当たったりもする。
 脳裏に、ちらりとジュドーの姿が浮かんだ。

「なんとなく……だけど……わかりました……」
 シャアはとんでもなくアムロのことが好きなのだということは、昨日からずっと一緒にいてよく分かる。そして、自分がジュドーと相対しているときと似たような気持ちなのなら、アムロもまた、シャアのことが好きなのだろう。
 好きな二人同士が住む家は、こんなにも温かくて心地よいものなのか。
 ならば……自分の家は。
 考えたくもないし、考えたところで何が変わるわけでもない。ただ、信じたくなかった。
 「好き」という気持ちがどんなものなのか、カミーユだってこの年なりに、それなりに理解しているつもりだ。その必要性も。あるべきものも。

 親と暮らす家には、こんな温かいものはない。

 暮らすといっても、父親は殆ど家に寄りつきもしないし、母親だってカミーユに食事を与え、彼が寝付く前、そして起きる前に家にいるだけだ。
 来客があるときや、どこかのパーティーに招かれたときだけ、夫婦としてまた親子としての機能を果たしている、それだけだった。
 それも、他人の目がないところでは始終罵り合っているし、父親が母親に手を挙げることも珍しくはない。
 好きなもの同士でないことは、カミーユの目から見ても分かる。
 そして、自分が両親から好きだとは思われていないことも。

「シャアさん、アムロせんせいがうまれてきてくれてよかったって、おもってる?」
「勿論だ」
 やっとの思いでトーストを飲み込み、コーヒーを啜りながらシャアは即答した。
「せんせいも、シャアさんがいてくれてよかったって、おもう?」
「…………うん」
 アムロは、カミーユの質問の意図を察して、少し戸惑いながら返事を返した。
「……いいな、せんせいたち…………」

 「死んでしまえ」だとか「殺してやる」だとか……感受性が少し強過ぎるきらいのあるカミーユにとって両親の喧嘩は聞くに堪えなかったし、場の空気さえ身に凍みていた。
 子供の前では取り繕うこともなく、激しい言い争いや暴力が繰り返される、その度に、どちらからともなく必ず言うのだった。「子供なんて作るんじゃなかった」と。
 子供がいては離婚するにも余計に外聞が悪いし、何分どちらもカミーユの親権を放棄したがっていた。
 父子家庭や母子家庭になるにも、再婚するにも、子供がいては何かと今後に差し支える。
 それ以前に、お互いに上司の持ってきた見合い話による結婚だったため、なかなか離婚にまでは至れないのが現状ではあったが。それでも、子供さえいなければ、形だけの夫婦生活もそれ程苦にはならなかっただろう。

「おうちにかえりたくない……」
 実の両親より、この二人の方がずっと、自分の事を好きでいてくれている。
 カミーユは、本能的にそれを感じ取っていた。
「駄目だよ、カミーユ。お母さん達が心配するよ」
「あのひとたちが、ぼくのことなんて…………ぼくは、いらないこだから」
「カミーユ!! そんな事、言っちゃいけない」
 思わず叱る。けれど、大声を出したことにアムロは後悔して俯いた。
 カミーユの言いたいことは痛いほど分かる。だが、とても肯定できることではない。
 アムロの様子を見て取って、シャアが加勢する。
「カミーユ、そんな事を言ってはいけない。少なくとも、私やアムロが君の親だったら必ず心配すると思うがね」
「アムロせんせいも、シャアさんも、ぼくのおとうさんやおかあさんじゃないから」
「しかし、子を思わない親などいない」
「……そうでもしないと、ぼくのことをかんがえてなんて、くれませんから」
 親が考えることは世間体だけだ。カミーユにそこまでの語彙はなかったが、感覚でそう悟っていた。
「ちょっといなくなるくらい、いいんです」
「そういう考えは良くないな。親を心配させないのが子の務めだ」
「じゃあ、おとうさんやおかあさんのしごとってなんです!?」
 ヒステリックにそう叫び、カミーユは逃げる様に席を立った。
「カミーユ!!!!」
「ぼく、ほいくえんにいきません!!」
 部屋を抜け、階段を駆け上がり、行き当たった部屋に飛び込む。

「シャア、馬鹿っ!!!!」
「すまない。加減したつもりだったのだが……」
「カミーユを宥めてくるから、俺の遅刻、電話入れといて。あんたのミスだって事、伝え忘れるなよ」
「了解した。…………朝からブライトの怒声は堪えるのだが」
「なら、少しはあの子の心も考えろよ!」
「分かっている。後で私も行こう」

 カミーユは寝室のベッドに潜り込み、頭の先まですっぽりと布団を被った。
「カミーユ、ドウシタ、カミーユ、ゲンキナイ、カミーユ」
「うるさい、ハロ! あっちいけよ!!」
 がばっと起き上がり、枕をハロに投げつける。それはハロに直撃して、ハロは壁際まで転がっていった。

 シャアの言い方が尾を引いて腹立たしい。
 親を心配させないのが子供の務めであることはよく分かっている。親を怒らせないのも。とにかく、親を不快にさせないのが子供の務めだ。
 そんなこと、シャアが言うまでもなく分かっている。

「カミーユ」
「はいってこないでくださいっ!」
 ドアが開く音には気が付かなかった。優しいアムロの声だったが、今は聞きたくない。
「ごめんね。君の気持ち……分かってたはずなのに」
 ベッドが軽く沈む。アムロが腰掛けたようだ。
「ほんとに、ごめんね……君のご両親が、君をどれくらい気にかけていらっしゃるかなんて……ご両親と、君にしか計れないものなのに……」
 布団の上から、優しくアムロの手が触れる。カミーユはぴくりと震えた。
「出てきてくれないかな。カミーユ……」
「……ほいくえんなんて、やすむっていったでしょう!」
「うん。無理に連れて行こうとは思っていないから。ねぇ、出てきて」
 優しく優しくアムロに諭されては、出て行くしかない。アムロの言葉は、それだけ信用に足るものだと本能的に悟っていた。
「シャアの言う子供のお仕事なんて、カミーユほど分かっている子もいないのに……ごめんね。あいつ、考えなしで。……君は、いつだってお母さんやお父さんのことを大切にしている、本当にいい子なのに……」
 アムロの声が掠れ、震える。
 カミーユはそっと布団から頭を出して、様子を窺った。

 アムロは泣いていた。

 カミーユの心が痛い。
 それはかつて自分も持っていた孤独だ。幸い、両親はそれぞれに自分を愛してくれていたし、どちらがアムロを引き取るかで揉めはしたものの、それは、両方がアムロを手放したくなかったからだった。
 家庭を顧みない親達ではあったし両親は不仲だったが、それでも、アムロ自身は親の愛情を疑ったことはなかった。
 しかし、カミーユは……。
 アムロの脳裏に、以前聞いた「子供なんて産むんじゃなかった」という言葉が回る。

「せんせい……」
「……ごめんね……カミーユ……」
「なかないで」
「うん。駄目だよね、先生が泣いたりしちゃ……」
 カミーユは布団から這い出して、小さな手でアムロの濡れた頬を拭った。
 アムロが泣いていると、カミーユまで泣きそうになってしまう。
「せんせ……なかないで……」
 側に這い寄ってきたカミーユを抱き寄せ、抱き締める。
「君は本当にいい子だよ。お父さんのことも、お母さんのことも、とても大切にして……この家でも、ちゃんと「悪い子のすることをしない」ってお母さんのお言いつけだって守ってる……君みたいないい子なんて、そういるものじゃない」
 抱き締めてくれるアムロの腕の力が強すぎて痛い。
「だからね、カミーユ……今シャアに、言われたからって……それだけで今まで君が頑張ってきたこと……全部、なくしちゃうの? 保育園に行かなかったら…………お母さん、どう思うかな…………」

 アムロの言葉はひどく迷って揺れていた。
 カミーユが何故今まで母親の言いつけを守ってきたのかなど、想像に難くない。
 出来る事なら、そう、頑張らなくていいとどれ程言ってあげたいことか。
 カミーユの努力や思いを受け取ってやれない親の方が悪いのだと、どれ程言ってやりたいことか。
 しかし、そうは出来ない現実がある。
 カミーユが何故親の言いつけを守り続けるのか。
 家の中で無視をされても、何故親の言うことを健気にも守り続けるのか。
 親に背かれることが、イコール自分の命の危機だと本能が悟っているから……それだけではない。
 毎日、送り迎えされているカミーユを見ているアムロには分かっていた。
 カミーユは、こんな小さな身体でも、ちゃんと母親のことを想っていた。

 カミーユは、少なくとも母親のことを愛していた。

 大人の目から見れば、それはどんなに不毛なことだろうか。
 カミーユを抱き締める腕に、ますます力が入る。
「せんせ……いたい……」
「ああ……ごめんね……」
 ふ、と腕の力を抜く。そうすると、何だかアムロが崩れていってしまいそうな気がして、カミーユは咄嗟にアムロを抱き返した。

「カミーユ、大丈夫か。すまなかった」
 暫くして、電話を終えたシャアも寝室に来た。
 抱き合っている二人を見て微かに目を細め、アムロの隣に腰を下ろす。
「すまなかった。私の言葉が悪かった。機嫌を直してくれたまえ」
「……シャアさんになんて、おこってません」
「そうか。……しかし……」
「…………せんせいをちこくさせて、ごめんなさい。ほいくえん、いきます。じゃないと、おかあさん、むかえにきてくれないだろうから」
 アムロから、そっと手を離す。

「…………むかえにきてくれるかな…………」
 カミーユはいつだって不安だった。
 いつか誰も迎えに来てくれない日が来るのではなかろうかと、いつだって不安なのだ。
 殊に、こんな特別な時はより不安になる。
 自分は捨てられたのではないのか。
 本当に、一晩預けられただけなのか。
 実際に親の顔を見るまでは安心できない。

「せんせい……ごめんなさい。でも……その……ぼくが、ほいくえんにいかないっていったこと、おかあさんにはないしょにしてください」
「うん……大丈夫だよ。心配しなくていい。お母さんを心配させてしまうだけだものね」
「……そうじゃないけど……おかあさんが、ほんとうに……ぼくをきらいになっちゃったらどうしようって…………」
 ぎゅっと両手を握り締める。
 その手が微かに震えていることで、酷く力を入れていることが分かる。
 動揺している所為で咄嗟に反応できないアムロの代わりに、身を乗り出してシャアがカミーユを抱き上げた。
 膝に乗せ、自分の身体に押し付けるように腕を回しながら髪を撫でる。
 アムロほど如実にではなくとも、シャアにも十分カミーユの心が伝わる。
 そして、何となく、悟った。
 昨夜カミーユが言った「自由になんてなりたくない」という言葉の意味。

「母上の側にいたいのだな……」
「…………だって、ぼくの……おかあさんだもの…………」
「ああ……そうだな。私は、君を傷付けることを沢山言った。すまない……」
 カミーユの手がシャアのエプロンを掴む。
「いいえ……ぼくは、おかあさんといっしょにいたいけど、おかあさんは、そうはおもってくれてないとおもうから……」
 強い光を持った瞳だった。唇を引き結び、じっと見詰められてシャアは焦る。
「ほんとは……わかってます…………ぼくだって、ばかじゃないから……」
 認めたくなくても、繰り返し突きつけられる現実がそれを許さない。
 カミーユは脆さだけではなく、芯の強さも持ち合わせた子供だった。

「いきましょう、ほいくえん。せんせいのおしごと、たくさんあるでしょう?」
 まだ辛そうに身を竦ませているアムロを振り返り、きっぱりとカミーユは言い放った。
 シャアはただそんなカミーユの頭を優しく撫で、その手をアムロの背に回す。
「アムロ、カミーユがこう言っている。行くぞ」
「うん……」
 背に添えられた手が更に向こうへ周り、抱き寄せる。アムロは素直に身を預け、シャアの肩に頭を乗せた。

「シャア……」
 潤んだままの声が名前を呼ぶ。その艶めかしさにシャアの中の雄がずくりと頭を擡げる。
 どぎまぎしながらアムロを見ると、顔を上げながらも浅く目を閉じていた。
 カミーユがいることを念頭に置きながらも、自分が何より支えを求めている。
「…………カミーユ、少し目を瞑っていてくれたまえ」
 こんなシチュエーションで求められるというのは始めてで、妙に緊張する。
「…………? はい……」
 シャアの緊張が伝わり、不思議に思いながらも目を閉じる。
 それを見て取ってから、漸くシャアはアムロに口付けた。
 アムロの唇が薄く開き、シャアの舌を受け入れる。
「っ……ぅ……」
 息苦しそうな声とも音とも判別の出来ないものが聞こえ、カミーユは上を見上げようとした。しかし、気配で感じたシャアの手が目元をすっかり被ってしまう。
 何だか頭上でごそごそしているが、カミーユには二人が何をしているのかまではよく分からなかった。

「は……っ……」
 漸く濡れた音が止み、シャアの手がカミーユの顔から離れる。
 アムロは濡れた口元と目元を一様に手の甲で拭い、シャアに預けていた身体を起こす。そして、カミーユをシャアの膝から引き取った。
「ごめんね。もう大丈夫だから。お着替えして保育園に行こうね」
「はい」

 シャアの運転で保育園にたどり着く。
 いろいろあった御陰で予定より30分程遅れたが、まあそれは許容の範疇だろう。
 いつも通りのノリでキスをせがむシャアに、アムロは素直に応えた。勿論、頬に軽く唇を当てる程度だったが。

 丁度園児達は各教室でのごあいさつから軽く歌やリズムなどが終わり、園庭や教室で本格的に遊びに入ろうとしているところだった。
「いいなー、カミーユ〜〜!!!!」
「なんでアムロせんせいとくるんだよ」
 手を繋いで歩く二人の姿を見て、園児達も騒然となる。
 カミーユをファの待つ部屋まで送り届け、自分は職員室へと向かった。

「ごめんねー、ブライト……」
「全く……問題が起こるようなことを軽々しく引き受けるからだ」
 職員室に入るなり自分の机の上に突っ伏したアムロにお茶を入れてやりながら、ブライトは毒づいた。
「今後はなるべくナシだぞ。一人を贔屓するわけにもいかんし、お前の仕事に差し障りが出るようでは困る」
「うん……ごめん。今回はほんと、弁解の余地もない」
 カップを受け取りながら、アムロは力無く微笑んだ。
「お前が持たないだろう。園児一人にそこまで入れ込むな」
「分かってるよ。でも……なんかあの子、放っておけなくてさ」
 そう言われると、ブライトも口を噤むしかなかった。
 ブライトもアムロと同じく、何故だかカミーユを見ていると放っておけない気分になる。

 暫く沈黙が続いた後、急にアムロは顔だけを起こしてブライトを見上げた。
「あ、そだ。報告しとく。……カミーユ、やっぱりあの時のお母さんの言葉、聞いてた。……ってより、いつも言われてるんだと思う。まだ虐待には弱いけど……。暴行はない。少なくとも、身体には一切傷はなかった。まぁ……そういうことをしてるなら、何処にも預けないだろうけど。防止法の「児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと」っていうのには微妙だな」
「分かった。……要注意に変わりはないが……まったく、児童福祉士も手が回らないのが今の世の中というわけか」
「通告したの、何時だっけ」
「半年以上前だ。まあ……あの一言では理由付けが弱すぎたとは思うがな。形通りの家庭訪問しかしていないんだろう。初めの通告後3回くらいは再度通告したんだが」
「両親とも家にいなかった可能性も高いからな。連絡帳でお話し合いの要請もしたけど、なしのつぶてだし。……カミーユにあんな事まで言わなきゃいけないくらい切羽詰まってるなら、相談して欲しいんだけどな……」
 ずずっとほぼ二人同時に茶を啜る。
 そして、その後の溜息のタイミングも、見事に一致した。
「一応ね、収穫はあったよ。カミーユをうちに泊めたこと。シャアとカミーユね、案外気が合うみたいで、家だと全然かち合わなかった。シャアも……あれで案外子供好きだし、あいつ、早くに両親を亡くしてるから……親に愛されないってこと、良く分かってたみたいで……それに、保育園では聞けなかったことも、本人から色々聞けたし。……まぁ、それで今朝ちょっとトラブっちゃったんだけど」
「そうか……」
 ぐりぐりとこめかみを揉む。既にその仕草はブライトの癖と化していた。
「状況の改善が見られなかったら、また今月中にでも通告するかな」
「そうだね。…………ほんとに健気でさ、あの子。見てるこっちが辛くなる」
「ああ……」
 視線は園庭へ向く。
 園庭では、荷物を部屋へ置いたカミーユが丁度出てきているところだった。

「おはよー、カミーユさん!!」
 園庭に出たカミーユに早速駆け寄ってきたのはジュドーだった。
 自分の通園時間には常に先に来ていたカミーユが来なかったので、心配で心配で堪らなかったのだ。
「やっときてくれた!! どうしたの? なんで、アムロせんせーといっしょだったの? おそかったよね。おなかいたい?」
 じゃれつく子犬のようにカミーユの周りをぐるぐる回りながら質問を浴びせかける。
 園庭に出た途端に掴まって、カミーユは一瞬戸惑った。しかし、次の瞬間には、ジュドーの隙を突いてその額をピンと弾く。
「う〜〜」
 弾かれた額を両手で被いながら、ジュドーは目を白黒させた。そう来るとは思っていなくて、ひどく無防備だった。
「きのうはアムロせんせいのおうちにとまったの! それだけだよ」
「えぇーーー!!? いいなぁ〜〜」
 ジュドーはとても素直に羨ましがった。
 カミーユの言葉を聞いて、周りにいた園児達もひどく羨ましがる。
 アムロは園児の誰からも好かれていたし、ほとんどカミサマのような扱いでもあった。
 彼らにとってそんなアムロの家に泊まるとは……まだ見ぬ天国へも等しいことだった。

 しかし、そんな周囲の園児達とは、全く逆のことを、ジュドーは考えていた。

「いいなぁ、アムロせんせー……ねぇ、つぎは、おれのおうちにおとまりして!」

 今度は、カミーユがきょとんとする番だった。
 半ばジュドーに自慢するつもりで言ったのに、完全に思惑が外れている。
「ねぇ、カミーユさん! いいでしょ? おれのおうちにおとまりして、いっしょにほいくえんいこう!!」
 ぎゅっとカミーユの手を握ってぶんぶんと上下に降る。
 カミーユは驚いた表情のまま、ジュドーに為されるが侭だった。
 自分のいていい場所が、ここにもあった。
「おまえ……ほんき?」
「うん!! おうちかえったら、おかーさんにおねがいする!!」
 満面の笑みできっぱりと宣言するジュドーに、カミーユ以外の園児達はげんなりした表情を見せた。
「ジュドー、おまえおかしくない?」
「なんで?」
「なんでそんなにカミーユといっしょにいたいんだ? おかしいよ」
「だって、カミーユさんのことだいすきだもん!!」
 ジュドーのとてもはっきりとした宣言を聞いて、何故かカミーユはジュドーの手を振り解いた。
「あ、」
 ジュドーが不思議そうな目を向ける前に、数歩後退る。
 そして、
「……ばかっ!」
「カミーユさん!!」
 まだ外に出てきたばかりだというのに、カミーユは靴を蹴散らかして部屋に戻った。
「なんで……?」
 ジュドーにはカミーユの行動がさっぱり理解できず、ただその場に立ち尽くした。


作  蒼下 綸


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