ソロモンでは懇親会と称したパーティーが開かれていた。 
 士気を高める為、また、基地での鬱屈した生活を少しでも緩和する為、ドズルはよくこうした催しを行っていた。
 人の繋がりが有益であると信じていたし、そんなドズルだからこそ人望もある。
 だが、こういった場を好まない者も、少なからず、居た。

 クラシカルで典雅な会場ではあるものの、何処かむさ苦しいのは、女性士官が極端に少なく男も給仕と調理関係の技術士官の他は全員が軍服だからだろう。
 仕方がないと言えば仕方がないものの、自然体育会系のノリになっている。
 鯨飲の者も多く、隅にはワインや麦酒が樽で幾つも置かれていた。

「飲んでるか、ガトー」
 鯨飲の一人、親友のケリィがジョッキを片手に歩み寄ってくる。
 ガトーは酒の匂いに、微かに眉を顰めた。飲めない口ではないどころか、飲んでも一切乱れることのないガトーは、自分の酔いよりも友人知人や部下達のこれから先の醜態の方が気に掛かって存分には楽しめない。損な性分だった。
「壁の花を気取っても仕方ないだろう」
「誰が花だ。それは女性に対する表現だろう」
「女なんか数える程しか居ないじゃないか。お前くらい綺麗だったら、こんなむさ苦しい中なら花と言っても差し支えないだろう、アナベル」
「その名で呼ぶな」
 思わず睨む。ケリィは悪びることなく軽く肩を竦めた。
「はっはっは。何か持ってきてやろう。何がいい。麦酒か? ワインか」
「……そうだな……」
 会場の中に何気なく目を移す。
 体格のいい男達の間にちらちらと、混じりけのない淡い金髪が見え隠れしていた。
 意識して視界に入れたくないが、誰よりも豪奢な髪の色も、隠してはいるが華やかな雰囲気も、その圧倒的な存在感も、厭がおうにも人目を引く。
「シャンパン……か」
 色合いも、その高貴さも、その繊細さも。酒に例えるならシャンパンに似ている。
 人の輪から次第に距離を置き、窓の外へ逃げていく。
 人付き合いを分かっている癖に、堪えられなくなりでもしたのだろう。まったく、未だ若い。
 酒の話と入り交じり思わず零れた呟きに、ケリィはガトーの肩を叩いた。
「シャンパンか。待ってろ」
「いや……白でもいい」
「了解」
 あんなものを飲み込みたくなどない。しかし、口を突いたのはやはり似た印象の色合いだった。
 口当たりの良さも、その分気付けば後に引く酔いも、似ているのかも知れない。
 渋面になったガトーを不思議そうに眺め、ケリィはグラスを取りに給仕を探した。

 暇を持て余して眺めているうちに、シャアも嫌気がさしたのだろう。
 何杯目かの酒を勧められた辺りで、輪から距離を取り始めているのが分かる。人を絡め取り利用するのがシャアの基本姿勢だろうに輪から抜けるというのは、それだけ厭になっていると言うことだ。
 グラスを片手にはしているものの別の空気を吸いたくなったのだろう。壁へ寄り窓を開ける。凝った作りのこの広間には窓が作られ、擬似的な外を楽しめるテラスが張り出していた。
 息が詰まりそうなのは分からなくもない。比較的社交性がある様には見えるが、シャアにはきっちりと壁があるのは分かる。酒宴でそれが薄らぐのが厭なのだと想像はついた。
 同じ様にして、幾つかあるテラスへ出ている者の姿は幾人かある。少し涼みたい者達にも、いい仕様だった。限りがある為数人が重なる場もあるが、それはそれで広間とはまた違った空気を楽しめるものだろう。
 程なく、シャアが出て行ったテラスへ重ねて出て行こうとする男がいた。内心厭がっていてもシャアは表面上柔らかく受け止め流すのだろう。
 その男はガトーも一目を置く、優れた歴戦の勇士だった。階級はガトーと同じだが、経験も経歴もずっと深く、重い。
 本来ザビ家の下で動く人材ではないという話は、未だ若年のガトーでさえも知っていた。
 実直な男は嫌いではないと言い、また、ガルマやドズルと親しくしながらもザビ家とは一線を引いている感のあるシャアなら、この男の事は気に入るのだろう。
 その事に微かに安堵を覚えた。

 シャアは、本気で辟易していた。
 どれだけ酒を勧められたのか、まだ宴も始まったばかりだというのに覚えていない。
 笊の自信はあったが、上官にせよ年上の部下達にせよ、あからさまに度を超している。
 懇親会の手前出来るだけ軽く受け流しているし、我が身に累が及ぶ様なら簡単に逃げてもいるが、鬱陶しいことに変わりはない。
 シャアに、懇意にしたい人間など居ない。懇意にしておかなくてはいけない相手は幾人かいるが、それだけで十分だった。
 だが、酒の席と言うこともあり懇親の名の下に無礼講もまかり通るとなれば、秘された部分の多いシャアは自然、衆目を集めることになる。
 表面上は平静さを保ちながらも次第に距離を取り、グラスを片手にさり気なく輪から外れていく。
 そして窓の外へと身体を滑らせた。

 人が居ないと言うだけで幾分呼吸が自由になる。適当に窓を閉め、テラスの端に寄った。壁が広間の方からはシャアの姿を隠してくれる。
 ドズルのことは嫌いになれない。ガルマと同じだ。純粋で、真っ直ぐで、疑うことを知らない。
 その厳めしい異相からは想像できない程、気のいい男だ。だからこそ、苛立たしい。
 馴れ合うつもりはない。
 テラスの手すりへと寄りかかり、空気の流れが作られている為に起こる風の様なものに頬を晒す。
 口にした赤ワインは渋みが強かった。
 果実味の残る息を吐く。
 そこへ、広間への窓が開いた。

「ああ、先客か。…………失礼。貴方も酔いましたかな」

 誰と同席になろうと、そっとしておいてくれるなら構わない。
 しかし、耳馴染みのいい大人の男の声に撃たれる。
 シャアは振り返ることが出来なかった。
 昔、聞いた記憶のある声だった。尽くしてくれた、誰よりも頼りにした、その記憶を呼び覚ます声だ。
 記憶が間違っていなければ年齢はともあれ今のシャアの方が階級は上である。振り返らなくても不審には思われない。
「ああ……少し風に当たりたかったのでね」
 口を開いては声で悟られるだろうか。声変わり前に会った記憶しかないが微かに不安が過ぎる。
 男が近寄ってくる気配に、シャアは微かに身を強張らせた。

「シャア少佐、ですな。お一人の所、失礼した。お噂はかねがね」
 気付かれてはいない様子に、ほっと息を吐く。
「……碌でもないものだろう?」
「いいえ。口さがない者の噂など。少佐の素晴らしい戦績は拝見しております」
「……そうか」
 駄目だ。
 頭の片隅へと追い遣った筈の記憶がまざまざと蘇る。
 幼き日の自分。
 グラスの中身を飲み干した。酷く渋い。これまでに流されてきた血が凝ってグラスを満たしていたかの様だ。

 ここへ配属されてそれ程立たないし、今まで顔を合わせる機会はなかった。
 ドズル旗下だとは聞いていたから、いずれ会ってしまうこともあろうかとは思っていたが、いざ直面すると戸惑う。
 数多くはない過去の栄光の残骸だ。
 未だ幸せだった日々。それが崩れた日。惨劇の逃避行、その全てにこの男の姿はある。彼が居なければ、ズムシティを出ることも、幼い妹を連れて地球へ降りることも出来なかっただろう。
 それでも、緩く頭を振り、襟足に掛かる髪を軽く払った。
 自分は、シャア・アズナブルである。
 キャスバル・レム・ダイクンではない。
 シャア・アズナブルなのだ。

「失礼、ラル大尉。貴方とは、いずれ……戦争が終わった暁にでも、酒宴を設けてみたいものだ」
 全てが終わり、ザビ家が潰えたら……。
 それでもこの男に顔を明かすつもりにはなれないだろう。
 この男はキャスバル・レム・ダイクンの事だけを覚えていればいい。
 キャスバルの名を、身を堕とし、血に塗れたシャア・アズナブルという男と等号に結んで欲しくない。
 馬鹿な夢だ。
 だが、幼心に、ランバ・ラルが尽くしてくれたことはよく覚えている。
 その父ジンバ・ラルは愚かな男だったが、その息子は血を引いていない様にさえ思っていた。
 夢は夢のままに、それくらいの美しいものが、今のシャアには必要でもあった。

 側に居ることの余りなかった実父より幾分か慕っていたのだろうと、今なら分かる。
「いずれ……全てが終わったら」
「そうですな。今は、目の前の有事を片付けましょう」
「ああ」
 バイザーに顔が半ば隠れている。それを初めてありがたいと思った。
 漸く意を決し、振り返ることが出来る。目の色さえ読まれなければ、正体を悟られることはないだろう。
 微笑むことは出来る。
 この数年、仮面を上塗りしていくことばかりを覚えた。
 二十歳にも満たない。微笑む唇も、若さを存分に見せつける頬や頤の先も、未だ何処か少年の面影と甘さを残していた。
 目元が分からずとも、見えるだけの範囲で十分に若く美しいことは分かる。
 ランバ・ラルは眩しげに目を細めた。
「……思いの外、お若いな少佐は」
「そうかな。……経歴は知れているだろう。ガルマ・ザビ大佐と年は変わらない」
「死に急いでいただきたくないのですよ。貴方の様な、若い方に」
「そう……見えるかな」
「失ってしまった大切な方を思い出すのです。少佐にせよ、ガルマ大佐にせよ。生きていれば、同じ年頃だっただろうと」
「……大切な方、か」
 バイザー越しに目が合う。
 優しく温かい瞳は、昔のまま変わりなく見えた。
 アルテイシアをあやしてくれた、あの頃のまま。
 足が竦んだ様な気がした。ぼろぼろと身の内から崩れていきそうな危うい気配がし、軽くこめかみへと手を当てる。
 優しいものなど……頼れるものなど不要だ。これ以上自分が弱くなることには堪えられない。全てはこれからなのだ。
 ラルが言ってくれているのは、キャスバルのことなのだと分かる。
 全てを打ち明けてしまえばランバ・ラル隊を取り込むことは出来るだろう。だが、今の自分にはまるで足場がない。未だ時は満ちない。彼らの全てを引き受けられはしない。
 それ以上に、理由などなく打ち明けたくはなかった。
 シャア・アズナブルは、キャスバルではない。もう戻れる道ではないのだ。

 飲み干したグラスを握り割ってしまいそうになり、シャアはラルに背を向けた。
「私はそれ程死に急いではいない。まだ死ねないな。やり残したことが多過ぎる」
「そうでしょうとも。死ぬのは年寄りから順と、決まっている」
「だが、貴方の言葉は心に刻んでおこう。感謝する」
「老婆心も、少しはお役に立てましょうかな」
「気遣いには痛み入る。…………失礼。もう少し飲みたくなってきた」
 空のグラスを軽く上げてみせると、ラルは僅かに身を寄せて道を空ける。
「またいずれ」
「はい。また、いずれ」
 それ以上ラルへ視線は向けず、シャアは広間へ戻った。

「全く、揃いが悪い。シャンパンはなかったから普通のスパークリングワインでいいな」
「ああ。……済まないな」
 ケリィが戻ってくるのとほぼ同じに、窓からシャアが戻ってくる。
 シャンパンでも、スパークリングワインでも、ガトーの心情的にはそう大差ない。
 グラスを受け取り、軽く口を付ける。軽い飲み口の筈が、何処か苦々しかった。
「いや。…………何を見ている?」
「別に大したものではない。皆を眺めているだけだ」
「物好きだな」
「他に何を見ろというのだ。部屋に下がらないだけマシだろう?」
「まあな。……ああ、もう一人の壁の花だ」
「だから、それは女に対する表現だろう」
 ケリィが目を向けた先には、ガトーがつい眺めてしまっているものと同じ、シャンパンゴールドの髪に酔狂な色合いの軍服を着た男がいる。
 給仕へ空のグラスを渡して新しいものを受け取ると、隅へと移って壁に寄り掛かり室内を見回し始めていた。
「あれこそ本当に花だな」
「花なものか、あんな毒……」
「綺麗な花程棘や毒を持っているものだろう。……そういえば、士官学校時代親しかったんだったか?」
「別に。……ガルマ様についていれば、厭でも目に入っただけだ」
「そう言うな。なあ、あのバイザーの下の顔、見たことあるか?」
「……………………いや」
「そうか。酷い火傷痕があるって噂もあるが……どうなんだろうな。鼻から下を見ればかなりの美人の様だが」
「美人、と言うのも女性に使う言葉だぞ。……見たことがないものを、知るものか」
 氷の様な青い瞳が脳裏を過ぎる。
 確かに、美しい。
 美人という表現も、瞳を除けば何処か柔らかい容貌をしている為かそう違和感はない。
 ケリィもどちらかと言えば寡黙な筈が、酒が入って少し饒舌になっているらしい。無駄な詮索は鬱陶しいものだ。知らぬで通すに限る。
 シャアの周りには、幾人かが寄って話しかけている。
 あれだけの人材なら取り入ろうと思う者もいるだろう。男ばかりではなく、当然ながら女性士官の幾人かも、遠巻きに見詰めていた。
 それはガトーも同じ事ではあるが、側に居るケリィが何処か隙のない気配を見せている為に誰も近付かないし、ガトー自身も気付いていない。

 そのうちに、一人の将校がシャアに近寄る。
 さり気なく肩や腰へと手を回す様に、ガトーは眉を顰めた。酒席とはいえ、衆人のある場所で取る態度ではない。
 しかしシャアはそれに応える様に曖昧な笑みを浮かべ、相手の腕に軽く触れる。
「……ほう。あの噂も、あながち嘘ではないのかな」
「………………噂?」
「シャア・アズナブル少佐は身体で上官を堕として出世したってな。こんなに女の居ない環境じゃあ、分からなくもない」
「馬鹿馬鹿しい」
 ただの噂であればどれ程いいだろう。シャアならば、そんなことをする必要もなく上へ登れる。だというのに全てを急ぎ過ぎているが為に、愚かな手段にも簡単に身を堕としている。
 本来、当人とて唾棄すべき行為だと認識しているだろうに。
「そう言うなよ。ただの噂だ。連邦の連中まで誑かしてるってのでもなければ、戦艦五隻は落ちんだろう」
「当たり前だ。全く……そんな讒言は好まないぞ、私は」
「知ってる。悪いな。酒の席のことだ。忘れてくれ」
 将校の肘に軽く手を置き、連れだって広間を出て行く姿を眺める。
 シャアは通り様にガトーを振り返ったが、ケリィは分かっていなかった。
 微笑みを増した唇に気がついたのは、ガトーだけだった。

 次第に場が飽和してきているのが分かる。
 ケリィも酒量が増えるにつれ、付き合いの悪いガトーを置いて騒ぎの輪へと入っていた。
 タイミングを見計らい、ガトーもさり気なく会場を後にする。
 みんながみんな飲んでいるわけでもない。宴会の間にも哨戒の番が回れば抜け、終わればまた戻り、と、人の流れはある。気がつかれることはなかった。

 酒宴の場よりはまだしも廊下の方が涼しく、空気もまだよい様に思う。
 抜け出してほっと息を吐く。
 まだガトーの任務時間までは間があったが、だからといって最後まで付き合う必要もない。
 最後は特に誰かの一声があるわけでもなく、三々五々人が減ってうやむやのうちに終わるのが慣例だった。
 暫く仮眠でも取ろうと、居住区の自分の部屋まで辿り着き……足を止めた。

「……………………何をしているのです」
「…………ああ………………誰かが通りかかるより前に帰ってきてくれてよかった」
 広間から出て行った姿を見てから数時間経っている。
 その間に何があったのか、見る影もなくまるでぼろ雑巾の様な姿でドアの前に蹲っている。側に落ちたバイザーにも、罅が入っていた。
 見上げて、微笑んだのは分かったが、何故微笑めるのかも理解できない状態だった。
「何故自分の部屋に帰らない」
「少し不都合なのでね。……手を貸してくれ」
 伸ばされた手を仕方なく取る。
 手袋はなく、擦り切れた様な痕跡が手首に残っていた。
 引き上げて立ち上がらせると、身体からは臭気すら漂っている。これ程に乱れているシャアというものを、初めて見た。
 まざまざと、シャアが何をしているのかを見せつけられ、酷く気分が悪くなる。
 だがこのままにして置くわけにも行かない。他の士官が通りかかる前に、取り敢えず部屋へと押し込む。
 力が入らないらしく、シャアは直ぐにくたりと床へ膝を付いた。
「……トイレを借りるぞ」
「好きに」
 這う様にして備え付けのトイレへ入っていく。程なく、酷い嘔吐(えず)きが聞こえ始めた。
 ちらりと覗くと、便器を抱え顔を突っ込む様にして吐き戻している。

 タオルと、水の入ったボトルを用意してやり、換気扇を回す。
 一体何をし、何をされてきたというのか。単なる飲み過ぎの可能性もなくはないが、酒席を共にしてもシャアが乱れた姿など見たことがない。
 まして、途中で抜けた筈である。
 何の為の吐き気なのか……不機嫌も極まってきたそこへ、声が止んだ。
「生きていたら、水を飲め」
「…………ん…………」
 手が伸びる。ボトルを握らせてやるとまた引っ込んだが、ややあってまた吐き戻したのが分かった。
「一体何があった。その様は……白兵戦でもくぐり抜けてきたかの様だ」
「………………そんなもの……かな」
 再び手が伸びてくる。宙を弄る様に動く指へタオルを掛けてやった。
 また少しの間があり、顔を覗かせる。
「シャワーを借りたいな」
「何故私の部屋に来たのだ」
「君しか居ない。みんな潰れているし、今は酒に酔った者達に肌を晒す気にならないのでね。君が過ごすタイプでなくてよかった。……手を貸してくれ。立てない」
 声が何処か掠れている。
 這いだしてきたシャアを抱き起こすと、無垢なままの表情で微笑む。

「全く……私には事情を聞く権利があると思うが」
「落ち着いたらな。まずはシャワーだ」
「だろうな。これは……酷い」
 軍服のあちらこちらが切り裂かれている。汚れも酷く、服にも髪にも頬にも、白い液体が付着して乾いた痕跡がいくつも残されていた。
 何を示しているのかは、分かる。
「許したのか、これを」
「許すも許さないもないよ。私が誘い、望んだことだ」
 大人しくトイレの隣のシャワールームへ運ばれる。
「哨戒は何時です。この様では出撃できない」
「延ばしてくれたよ。こういう時、相手が上官だと便利だ」
「そういう問題では、っうわ!」
 シャアを残しシャワールームを出ようとしたその上へ、湯が降りかかってくる。
 コックに手を伸ばしたシャアが降らせていた。
「何を!!」
「濡れてしまったな。では同じ事だろう。手伝ってくれ。身体を洗いたい」
「幾つの子供だ!」
「……生憎、自分で服を脱ぐことすら覚束ないのだよ。立てもしないし」
 見上げてくる目は変わらず美しい。ガトーを揶揄う気配は十分に滲んでいたが、それと同じ程、不安げでもあった。
「…………仕方のない男だ」
「君なら、助けてくれると思っていたよ。面倒見がいいからな」
 湯を被りながらシャアの身に纏っていた服を脱がせる。
 思わず息を呑んだ。

 素肌は見慣れている。今更何を思うこともない程の関係だ。
 だが……温かい湯に上気し始めた肌には、一層傷痕が痛々しい。
 刻まれたばかりの擦り傷や切り傷、打たれた痕が鮮やかだった。
「これは、一体」
「私が頼んだのだ。理由はなくもない」
「だからといって、この様に任務に支障を来す有様は感心できない」
 見ていられない。
 ボディーソープをスポンジへ取り泡立てる。シャアの手の中へそれを押しつけ、自分も濡れた軍服を脱ぎ捨てた。
「狭いな」
「当たり前だ。二人用には出来ていない」
「もう少し近寄ればいいのだろう?」
 身を寄せてくる。ガトーは思わず身体を引いた。
 シャアはきょとんとした顔でガトーを見上げ、口元を綻ばせる。
 ガトーには、シャアが何を面白がっているのか理解できなかった。
「洗ってくれ」
「何を馬鹿な。それくらいは動けるのだろう」
「洗ってくれ。君の手で」
 肌理の細かい泡の立ったスポンジをガトーの手へと戻す。
 ついと伸ばされた腕も、傷だらけだった。湯はさぞかし染みていることだろう。
 このまま湯を被り続けるだけでは埒があかない。嫌々ながら、ガトーはシャアに従った。

 傷に触れる度に秀麗な顔が引き攣る。
 見ていられず適当に切り上げると、シャアは何を思ったかガトーの手を掴み、自らの後孔へと導いた。
「なっ! 貴様」
「洗ってくれと言っただろう?」
「自分でやれ。私はもう上がる!」
「君の手で洗われたいのだ。…………頼む」
 声が何処か愁いを帯びる。
 見上げる目から、揶揄いが消えていた。
「…………何を考えている」
「君にしか頼めない。私が自身の手で洗ったところで、きれいになどならないからな」
「……何があった。貴方らしくもないだろう、こんな……私に弱みを見せるなどと」
「会いたくない人に会ってしまった。それだけのことだ」
 触れた後庭にぬるりとした感触があった。湯のものではない。
「あ、っぅあ……」
 引き攣る様な声が洩れる。
 つぷりと指を埋めると、内から白濁した粘液が溢れ出した。
 どれだけ注ぎ込まれているというのだろう。一人のものでさえなさそうだ。それでも、ここに来るまで流れ落ちていなかったのは、それだけ必死で堪えていたと思しい。
「あ…………っく……ぅ……」
 刺激に頤が刎ねる。上を仰いだ頬を湯水が伝い流れる。
 それがあたかも涙の様に見え、ガトーは思わず息を呑んだ。
 この男の、そんな様など見たくない。
 手っ取り早く終わらせようと無感情を装って中を掻き出す。その苦痛の中に快楽を見つけ出そうとする表情さえ不愉快だった。

「ぁ……あ、っは……」
 シャアは瞬く間に極まった。
 常より随分早いのは、達することが許されない状況にでも置かれていたのだろう。
「く、ふぅっ……ぅ……」
 長引かせるのも厭で、花蕾から雄の穢れを掻き出すと同時に前も弄ってやる。
 ついでと言わんばかりに、勝手知ったる指が迷うことなくシャアの中を弄り一層高めていく。
「あ、っあ! ぁあっ!!」
 悲鳴が上がり、頭ががくりと仰け反る。
 硬直し放出を終えた後、ぐったりと弛緩した身体を慌てて抱き止めた。
 シャアは意識を手放していた。
 苦々しいものが口の中に広がる。しかしこのままにも出来ない。簡単に下肢を洗い流してやると、髪を洗ってやることにした。


「う…………ぅ……ん…………」
 長い睫が震える。数分の事ではあっても、気を失う程にもなれば心配にもなっていた。
 部屋のベッドへ何枚かのタオルを広げ、その上へと寝かせてやっていた。
 ガトーも着替える間はなく、濡れた身体へバスローブを纏っただけだ。濡れ髪のままなのが気に入らないが、乾かす時間もなかった。
「無事か」
「……ぁ…………ああ、ガトー……私は君に……随分醜態を見せた様だな……」
 未だ声音が虚ろだ。
 側へ水の入ったボトルを差し出してやるが、緩く首が振られる。
「何をしていた。少佐ともあろう者が、それ程身体を痛めつけて何の利がある」
「少し……想定外のことは……あったが問題は……ない。君が……助けてくれたしな」
「…………薬を持ってこよう」
 白い肌に刻まれた数多の傷痕がまるで花の様に咲き乱れている。その二つ名やパーソナルカラーと同じ様に赤く、紅く色付いている。
 堪えられず目を逸らし、膏薬を取りに僅かに離れた。

「ん…………ふ…………ぁ」
 何処か肌が過敏になっている様で、軟膏を取った指が滑る度、鼻に掛かった声が洩れる。
「気持ちの悪い声を出すな」
「心地よいな、君の手は……」
「………………その気になるなら、やめるぞ」
「それがいいのだ。君は、そんな気もなく私に触れるから」
「貴方が誘わなければ、乗ったりなどするものか」
「ああ……君には、ずっとそうあって欲しいものだ」
 言葉遊びのような様は、ほぼ常態を取り戻している様に見える。
 ガトーは僅かながらほっとした。あまりに痛々しい様はシャアらしくなく落ち着かないことこの上ない。

「私は……何か口走らなかったかな。少し余裕がなかったのでな……何か聞いていたら、なかったことにして貰いたいが」
「会いたくない人に会ってしまった、と。あの場には軍の者しかいなかった。見ていたが、貴方が少将殿と広間を出る前に会ったのは、」
 ひらり、と撓やかに手が閃いた。
 口の前に翳され、ガトーは口を噤む。
「推論を口にする男だったか、君は」
 口元には柔らかな笑み。そして瞳には透徹した青。その様子に不快感を覚えはするものの、慣れた様子に安堵する。
「断じて否だ。しかし貴方があの方を嫌うことには納得がいかない」
「私が誰を嫌っていると言うのかな。私はただ、会いたくないといったのだろう?…………会いたくなかったのは確かだな。それだけではない。会ってはならなかったのだ。互いの為にも」
「ラル大尉と貴方に何の接点が」
「ルールは守って貰いたいな、ガトー。立ち入らないことだ。それが君の為にもなる」
「なら思わせぶりなことを言うな」
「聞いてしまった部分については取り消すことなど出来ないだろう。だから説明をしたまでだ。……君は口が硬いしな」
 邪魔であればそれが何者であっても排除する。それしきの覚悟はとうの昔に出来ている。
 ただ、無用な殺生は我が身を危うくするということもまた、十分に理解していた。
 ガトーは今のところシャアには必要性のある男だ。
 薬を塗り終えた手を取る。
 身体の大きさに比例して、シャアの手より一回り大きい。
 厭な手だ。自分が背伸びをしていることを突き付けられる様で苛々する。
 甲斐甲斐しくなどされたくない。優しいものなど何も要らない。
 ランバ・ラルの様に……幻想の中にしか居ない父性の様に、温かく、揺るぎなく、優しいものなど。

「君の様に清廉な男が知る必要のないことは、幾らでもある」
「馬鹿にしているのか」
「まさか。私の実感だ」
 濡れて冷え始めた身体を敷いていたタオルで包む。微かに震える身体に、ガトーは仕方なく自分のシャツを被せた。
「……後で軍服は取りに行く。それまでこれを着ていればいい」
「ああ。済まないな」
 袖を通すがやけに大きい。身長だけでなく、体型もかなり違う。ガトーが立派過ぎるとはいえ、一抹の不愉快さを感じた。
「足が立つ様になれば勝手に帰れ。私は広間へ戻る」
「君こそ哨戒時間が近いのではないか?」
「貴様と居るよりは幾らかマシだ」
「嫌われたものだな、私も」
 楽しげに笑う。
 何処か色香を含んだ声が耳の奥に残る。
 どうしようもなく不快だ。そうして自我を保とうとするシャアも、それを分かりながら絆されてしまう自分も。
「……それでは、私に何を望むと言うのだ」
 聞いてはならないことだ。泥沼に片足を踏み入れていることは、分かる。
 苦々しく奥歯を噛み締めるガトーの表情を見て、シャアは、それは綺麗に、笑った。

「まだ物足りないから酷く犯せ、と言っても君には出来ないのだろう?…………君なら、私を抱き上げられるかな。女を抱く様にではなくて……子供を抱く様に。肩車でもいい」
「子供などより余程質が悪い。何を求めている」
 こんな大きな子供をあやすのは面倒が過ぎる。
 シャアは小さく首を傾げて、渋面を隠さないガトーを見詰めた。
「そうか。さすがに重いかな。…………では、私のバイザーを取ってくれ。抱き上げて私を連れ帰るか、ここで休ませてくれれば助かる」
 帰る気などない様子でシャツとタオルに包まり、その間からちらりと目だけを覗かせてガトーを伺う。
 その本当に子供のような様に、ガトーは変わらず苦い溜息を吐いた。
 廊下に落ちていたバイザーは拾ってある。
 それを顔の側に置いてやると嬉しげに唇を綻ばせ、直ぐに身につけた。ほっと小さく息を吐いたのが分かる。
 目を隠さなくては息も吐けないその性分に馬鹿馬鹿しくなる。
 指先が確かめる様にバイザーの罅に触れていた。
「予備に取り替えて、これはサイド3に送って修理に出さねばならないか。加減を知らないのも困りものだ」
「一体何の相手をしてきたのだ」
「セックスだよ。他に何かすることがあるか?」
「…………それで、何故バイザーが割れる」
「少し趣向を凝らしただけだ。思ったより人数が多かったから疲れたな」
「下らない趣向だったらしいな」
「そもそも下らないものだよ。男同士のセックスなど」
「それはそうだが」
 身体に残されている傷痕はその趣向の結果なのだろう。鬱血は湯で温めた為にもう随分薄らいでいたが、血の滲んでいた傷はまだ目にも新しい。
 抱き上げて欲しいなどと、この男の口から聞こうとは思わなかった。それだけ疲弊しているのだろうと思うと、一層苦々しくなる。
 分かっていて下衆な上官達に身を任せるべき男ではない。だというのに。
「…………膝に抱えるくらいは、出来るが」
「……大した譲歩だな。君がそんな甘えを許すとは」
「貴方がらしくもなく甘えるからだ。さっさと眠って自分の足で帰って貰いたい」
「君に優しくされるのは気持ちが悪いな」
 甘えておいてその物言いはないだろう。
 ガトーはブランケットを引き上げてシャアを頭から覆い隠した。

「眠ってしまえ。貴様の相手など鬱陶しい」
 顔を見られたくもない癖に、帰ろうとしない。ガトーが出て行くことも引き留める。なら、隠してしまうしかない。
 ガトーは仕方なく、部屋の椅子に座って本でも読むことにした。
 しかし、ブランケットの隙間からシャアの手が伸び、手にした本を奪う。
「何だ」
 答えは返らない。取り返そうと近寄ると、もう一度手が伸び、今度はガトーのバスローブの端を掴んだ。
「全く…………」
 本当に、どうしようもなく不愉快で仕方のない男だ。
「…………君はラル大尉と親しいのだったか?」
「いや。尊敬はしているが、お近づきになる機会はない。先方も私では複雑だろう」
 ガトーは祖父の代からザビ家と親しい。ランバ・ラルはそうした血筋のみに拘泥する人間ではないと聞いてはいても、多少の禍根はあるものだろう。
「そうか…………」
「私の恥にもなる。吹聴などしない」
「それは残念だ。言いふらしてくれればいいのに。君のことは伏せて……私が上官と寝ていることを」
「何を馬鹿な」
「ふっ。君が言わないと分かっていて言っているのだ。君は揶揄い甲斐があり過ぎる。そのうち飽きる反応だぞ、それは」
「さっさと飽きてくれ。そして私を巻き込むな」
「あっはっはっは。そうだな。気が向けば、そうしよう」
 一頻り笑い、漸くに落ち着く気になったのだろう。それでも未だローブから指は解けなかった。
 ブランケットに手を差し入れて本を探る。本を見つけるより先に、シャアの肌に指先が触れた。
 ランバ・ラルの様に高潔な男とシャアの接点が分からない。
 濡れて冷えた身体が不快で、乱暴に本を探し見つけると、バスローブを脱ぎ捨てた。シャアの手がローブをベッドへと引き込んでいく。

 それを見届けて、ガトーは本を置き着替えを始めた。
 今日が最後の懇親会かも知れない。何時戦争が激化するかなど、一介の軍人に分かる話ではないのだ。
 もう少しだけ飲んで、後は出撃の時に備える。
 これ以上相手をしてやってもシャアが楽しむだけだろう。それは、面白くなかった。
「鍵は掛けていく。お優しい上官とやらの計らいで出撃が遠いなら、ここで眠っていけばいい」
 声を掛けても返答はない。
 まだ眠りに落ちていないなら聞こえているだろう。ガトーは部屋を出ることにした。
 戻ってきた時にまだ居たら、今度こそ叩き出してやろう。シャアの香りの残るベッドは不愉快だ。

「おぅ、ガトー! 何処に行ったのかと思ったぜ!」
「……ケリィ……貴様、どれだけ飲んだ」
 廊下へ出るなり、遠くから声が掛かる。
 足下が覚束ない様子で寄ってくる親友を睨んだが、悪びれもせず笑う。
「まあ後一時間あるだろ。これから一発シャワーを浴びてだなぁ…………ん? いい匂いだな、ガトー。もう浴びたのか?」
 側まで寄り、髪や首筋を嗅ぐ。
 酔っぱらいは質が悪い。顔面を掴んで引き離す。
「水でも浴びて正気に戻れ、ケリィ!」
 いっぱいだけ、と思っていたが、こんな輩ばかりだと思うと気が進まない。
 待機室へ行くことを心に決めながら、ケリィの首根を掴んだ。
「さっさと部屋へ入れ。我が中隊の名折れだ!」
「はっはっは、固いなぁ、ガトー!」
「ええい、全く!」
 階級が等しく同隊所属のケリィの部屋は近い。そのまま引き摺って、扉の中へと押し込む。
 ドア越しに未だ何かを笑いながら言っていたが、相手をする気にもならない。
 軽くこめかみを揉みながら、ガトーは待機室へと向かった。
 もはや、飲み直す気にもなれなかった。


作  蒼下 綸

戻る