「あら、誰もいないのね」
 計器を見ているうちに集中力が欠けてきて、軽くシャワーを浴びて仕事へ戻ってきたセイラは、ブリッジを見回して小さく首を傾げた。
 ミライ以外の姿が消えている。
「休息に行っているわ。セイラは構わなくて?」
「私はいいわ。今少し気分転換をした所だから。ミライは構わないの?」
「みんなが外すわけにはいかないわ。先に男の人達が休んだ方がいいでしょう?」
「そういう所がいいのね、ミライは」
 セイラは自席ではなく、オペレーターシートへ上がる階段に軽く腰を下ろした。
 髪を手櫛で整えながら、舵に寄りかかって計器をぼんやり眺めているミライの後ろ姿を眺める。
「いい、って何かしら」
 セイラの言った意味が分からず振り返る。
 一通りはオートパイロットで動くのだ。ただ、他に見るものがないから計器を見ていただけだった。
 小さく首を傾げるミライに、セイラは軽く肩を竦める。
「そういう所が、男を立てている様に見えるのでしょう?」
「ああ……そうなのかしらね。よく分からないけれど。でも先に休んで貰った方が、ゆっくり出来る気分にならないかしら」
「そうなのだけど……。それを簡単に言ってしまえるからいいのね、貴女」
「? 何かあったの? 少しおかしいわ、セイラ」
 何処か言い方が冷たい。ミライは少し困ってセイラを見た。
 自覚はない。驚いた様な表情でミライを見詰め返す。
「そうかしら」
「ええ。よければ伺いたいけれど……話してはくれないのでしょうね」
「いいえ。…………そうね。たまには、女同士で話すのも悪くないのかも知れないわ」
「男の人が多いものね、ここは。私だって、本当はケーキでも食べながら無駄なお喋りをしたいのよ」
「いいわね、それは。フラウ・ボゥやマサキや……そうね、キッカも誘って」
 操舵席から離れ、セイラの隣に座る。
 セイラは片膝を抱え広く開いた窓の外を眺めていた。

「料理長に頼んだら作って頂けるかしら」
「難しいでしょうね。ケーキの材料なんて……通常の食料だってぎりぎりなのだし」
「そうなのよねぇ……材料があれば、私が作るのだけど」
「作れるの? 貴女」
「お菓子くらいはね。キッカとクッキーを作ったりするのは、楽しそうね」
「……全て……本当に全部が終わったら、私にも教えて下さる?」
「ええ、勿論。みんなでお菓子作りなんて、いいわね」
 楽しげに微笑むミライの肩に、セイラはことりと頭を倒した。
「セイラ?」
「本当に、終われるのかしらね、この戦い」
 敵はジオン軍。そしてザビ家だ。
 兄と手を組むことさえ出来るなら……。しかし、連絡の取りようもない。一人で何もかもを成し遂げようとしている兄に、セイラの声など届かない。
 完全に寄りかかってしまったセイラに、ミライは困って軽く背へと手を回してやった。

「終わるわ。きっと。……そうでないと人は滅んでいくだけだもの。そこまで愚かではないと、信じたいわ」
「……ジオンは、滅びるのかしら。ザビ家は……」
「国が一つ滅びるのを望むのは、重い事ね」
 ジオンの名が滅びるのは辛い。父の名が消えていくのは辛い。
 しかしザビの思惟に歪められた名は本意ではない。兄が……兄さえ正しく父の思想を継ぎ、正統なるジオンを復興してさえくれたら。
 復讐などしなくても、優れた兄の資質があれば興せる時が来る筈だ。まだ自分達は若い。
 だと言うのに、あの兄は。
「……そうね……。……ジオンにも、普通に暮らしている子供だっているわね……」
「考えては戦いづらくなってしまうけれど……そうなのよね」
「解放して欲しいわね。戦いは軍人のものだし、和平は政治家のものだわ」
「それは少し違うと思うわね。一人一人が考えていなくてはいけない事よ」
「考えても……動く為の力がなくてはいけないのよ。……力が」
 力が足りなかったから負けたのだ。父も、母も、ジンバ・ラルも、養父だとて。
 膝を抱え、組んだ指先が冷たかった。
「……力がなければ、何をしても負けるだけだわ」
「セイラ…………でも、力の使い方を間違えると、今のザビ家の様なことになるのよ」
「ええ。……ああはなりたくないわね。力だって、武力は厭。我が儘でしょうけど」
 兄がそんな手段を選ぶなら、自分はもっと平和な力が欲しい。
「人が死ぬだけの力なんて……要らないわ」

「貴女……疲れているのね」
 本当に、セイラらしくない。
 優しく背を撫でてみる。セイラは身を丸める様にして一層ミライに身体を預けてくる。
「……そうでしょうね……でも、疲れていない人なんて、この中にいるのかしら。貴女だって疲れているでしょう?」
「私は大丈夫よ。やっぱり、少し休んだ方がいいわ。甘いものでも頂いてきたら?」
 気遣ってくれるミライに頬を寄せ、セイラは浅く息を吐いた。
 ミライは優しくて温かい。
「いいわね、ミライ、貴女…………こう言うと怒るかしら。お母様を思い出すの」
「まあ……貴女のお母様だったら、きっととてもお美しい人だったのでしょうね」
「ええ。とても綺麗で、凛としていて、優しい方だったわ。でも、何度月が丸くなっても、私を迎えに来ては下さらなかった」
「月?」
「そういう約束だったの。だけど……そのまま居なくなってしまった。怨んでも仕方のないことだけれど……何処へでも、連れて行って欲しかったわ。独りになるくらいなら」
「そう……いいえ。私も同じね。母は幼い頃に亡くなってしまったし、父もこの戦争が始まってすぐに亡くなったから。連れて行ってくれたら……でも、生きていることに安心もしているのよ」
「ミライ……」
 手を取る。何処か柔らかみのある手に、セイラは頬を寄せた。

「いいわね、貴女、本当に……温かいわ」
 手を引き、抱き付く。
 柔らかく温かい。擦り寄ると自分よりは些かふくよかな胸へ頬を寄せることになる。
「セイラ……」
 困惑するが、だからといって邪険にも出来ない。
 そっと美しい金糸の髪を指で梳く。

 と────。

「ミライさーん! あら?」
 操舵席に姿を見つけられず、立ち止まってブリッジを見回す。
「ここよ、フラウ・ボゥ」
 階段に並んで座る僅かばかり年嵩の二人を見て、フラウ・ボゥはすぐに笑みを浮かべた。
 駆け込んできた少女に、セイラは直ぐさまミライから離れる。
 フラウ・ボゥは、手に布の固まりを持っていた。
「お喋り会ですか?」
「そんなものね。どうかしたの?」
「ここのかがり方が分からなくて。さっきレツがキッカと喧嘩をして破いてしまったんですけど」
「貸して頂戴。ああ……ここね」
「ブライトさん達はどうしたんですか?」
「そろそろ戻るんじゃないかしら。休んで貰っているわ。戻ってきたら、代わりに私達が休む番。貴女もね」
「ええ。あの子達、さっきやっと寝てくれましたから。これが終わったら私も少し休みます」
「はい、出来たわよ。ここは……こうするの。ね?」
「ああ……はい! ありがとうございます」
 フラウ・ボゥは二人の足下へ座り、続きを縫い始める。
 セイラは小さく溜息を吐いた。
「本当に……楽しそうだわ」
「何がですか?」
「何もかも……全部終わったら、ミライがお菓子作りを教えてくれるのだそうよ。貴女もいらっしゃいな」
「本当ですか? 是非! ミライさんって本当に何でも出来るんですね」
「そういうのではないのよ、フラウ・ボゥ。刺繍だとか、お菓子作りだとかは……少し嗜んでいるだけだから」
 女性の嗜みだと、父が教えてくれる人を付けてくれた、それだけのことだ。
 はにかむミライに、セイラは何処かもやもやとしたものを抱える。
 ずっとジオン・ダイクンの娘であったなら……自分も、それくらいことは、躾として教わったのだろう。少なくとも地球にいた頃は、兄の様な英才教育ではなくプリンセスとして……。
 緩く頭を振る。
 自分はどのみち、淑やかな貴婦人より前線で働く医師を目指していたことだろう。

「お菓子の話なんてするから、甘いものが食べたくなってきたわね」
「誰か戻ってきたら、食堂で何か頂きましょうか」
「賛成でーす! これももう終わるし。あ……そうだ!」
 ごそごそと服のポケットを漁る。
 そして、三つの小さな包みを取り出す。
「丁度三個! 子供達に上げた残りなんですけど」
 端を捩って止めた丸いお菓子。飴をセイラとミライの手に渡す。
 自分もすぐに包みを広げ、丸いその菓子を口に放り込んだ。
「ありがとう。……貴女も、いいお母様になりそうだわ」
「フラウ・ボゥは元気でいいわね。でも、子供達の分がなくなってしまわない?」
「お砂糖は少し余りがあるそうですよ。べっこう飴なら、すぐに子供達に作ってくれるって、料理長が言ってくれてます」
「べっこう飴?」
 セイラとミライは顔を見合わせて首を傾げる。
 凝った菓子なら幾らでも知っているが、素朴な菓子には馴染みがない。
「知りません? お砂糖と少しの水をお鍋に入れて火にかけて……とろみが出て薄い鼈甲色になったら、好きな形に広げて冷ますんです。お家でも簡単に作れる飴です」
「いいわね。好きな形に出来るの?」
「好きな様にするのは難しいですけどね。少し手が空く時間があればここでも作れるんですけど……無理なんですよね。ジオンの人達が少し見逃してくれたらいいんだけど」
 飴玉で片頬が膨れる。
 いかにも普通の少女らしい様子に、セイラとミライは顔を見合わせて微笑んだ。
 幾らセイラが素性を隠していても、滲み出る気品は隠しようがない。立場の自覚はミライにも伝わっている。格が同じでなければ分からない域の共感があった。
「貴女もいいわね。可愛いわ」
「え?」
「飾り気のないのが、いいんでしょうね」
 セイラに微笑みかけられ、フラウ・ボゥはさっと頬を赤らめた。
 これ程の美女に褒められては、気恥ずかしいやら嬉しいやらでどう答えていいものか分からない。
 戸惑って、手元に戻る。

「っ、痛っ」
「あら」
 手元が狂い指先を針が傷つける。
 飴玉が入ったままの口で傷を軽く吸った。
「気をつけなくては駄目よ」
「ええ。……もう。おっちょこちょいなんですよね、私」
「絆創膏、あったかしら」
「大丈夫です。こんなの、よくありますから」
「洗ってらっしゃいな。飴を舐めていては、ベタベタするでしょう?」
「そうですね。…………よし。できた! じゃあ、失礼します」
 玉結びをし、糸を切って立ち上がる。
「置いたら、よければ食堂にいらっしゃいな。私達も行くから」
「はい!」

「いい子ね、フラウ・ボゥって」
「そうね。素直で、正直で。普通の女の子って、こんなに可愛らしいものなのねぇ」
「私達だって、もう少し幼い頃にはそうだったのでしょうけど……そうねぇ……お砂糖だけで飴を作った事なんて、ないわね」
 ミライは微笑んで飴の包みを開け、口へ入れる。
 セイラは立ち上がり、軽く伸びをした。
 そこへ通路の方から人声が聞こえ始め、軽く目配せをする。
「行きましょうか、私達も」
「ええ。料理長に飴の作り方を伺わなくてはね」
 自然に手を繋ぎ、ブリッジを出て行く。
 入り口の辺りでブライトやオペレーターの二人とすれ違ったが、セイラは視線も寄越さず、ミライも軽く会釈をして微笑んだだけだった。
 ただ、通り過ぎてからくすくすと笑う。
 男達が居ては出来もしない様な話をしよう。
 たまには、そんな時間も欲しかった。


作  蒼下 綸

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