「う、わーー……」
 食事時以外の食堂は休憩所も兼ねている。その片隅でコーヒーを手にしている男を見て、ジュドーはその様子をしげしげと眺めた。
 妙に美男美女の多いロンド・ベルではあるが、その中でも群を抜いて美しい容姿をしている。それが、カップを片手に、もう片手に書類を持ってうとうととしていた。
 そんな緊張感のない姿など、人目に晒す男ではないと思っていた。
 そっと近寄り向かいに座ってみる。
 柔らかそうな髪だ。グラス越しながら睫も長い。もう少し近寄ってみるといい香りがした。あまり香水の匂いは好きではないが、男の趣味は良かった。
 近づき過ぎて息が掛かったのか、その長い睫が震えた。

「ぅ…………ん……何だ……? ジュドー?」
「あ、ごめん! 起こすつもりはなかったんだけど」
 慌てて身を引く。緩く首を振り、クワトロは僅かに体勢を直した。
「いや……寝ていたか、私は」
「お疲れ様。最近大尉には出撃命令ないから、デスクワークばっかりなんでしょ? まだ戦いに出てる方がマシだよね」
「アムロが戦わせてくれないのだよ……。艦内でじっとしているのは、性に合わないのだが」
 憔悴している様に見える。そもそもデスクワークに向いている人でないことは知っている。動いている方が気が楽だと言ってしまう人だ。そもそもは、細かなデスクワークも、パイロットも、どちらもするべき人ではないのだが。
 テーブルに肘を付いて顔を見上げる。
「俺達が出てる時、大尉は何してんの?」
「ブリッジで艦長の補佐をしているか……機銃砲座にいる。砲座は怖いな。何が来ても自分では避けようがない」
「へぇ……意外。大尉にも怖いことなんてあるんだ」
「大人になれば増えるものだよ。君の頃には、怖いものなど何もなかった」
「俺にはもう怖いことたくさんあるよ」
「なら君は今よりもっと強くなれることだろう」
「臆病って事じゃないのか?」
「君はいろいろな怖さを知っても、逃げないだろう?」
 クワトロは実に美しい微笑を浮かべた。ジュドーはただドキドキしながらひたすらにその顔を見詰める。

「……何だ?」
「クワトロ大尉って、ほんっとーにキレイだよなーって」
「……男の顔をしげしげと眺めておいて、言うことはそれか?」
「だって事実じゃん。カミーユさんだってすげぇキレイで可愛いけど……何か大尉って特別! って感じなんだもん」
「特別……か?」
「うんっ!」
 緑色の大きな瞳には全く陰がない。クワトロは返答に困り、小さく首を傾けた。
 ジュドーの方が余程「特別」に見える。目に見えるステータスではクワトロが圧倒する筈だが、実際戦うとその力強さは半端ない。愛機と精神コマンドの相性の良さからも、既にクワトロとは二十程のレベルの開きがあった。
「アムロさんに、たまにはクワトロ大尉も出撃させてあげて下さいって頼んでみようか?」
「いい。……これ以上惨めにはなりたくないな」
「……まあさー…………大尉って、数値の割りに避けないし、当てないし、必要じゃない時だけクリティカル出すしね……アムロさんが引っ込んでろって言うのは、分かる」
「言ってくれるな……」
 クワトロは目に見えて落ち込んだ。情けなくあまりに可哀相に思えて、ジュドーは慰めにぽん、と頭に手乗せてやった。

「うわ…………」
「……何だ」
「いや……すげー……」
 繊細で柔らかく、艶やか。ルーやリィナの髪とも、カミーユの髪ともまるで違う。
 こんな戦艦の中で手入れ出来るものとは思えない。生来のものなのだろう。  天は二物も三物も与えているのだ。ただ、望むものが足りないだけで。
「……何が、凄いと……」
「こんなキレーな人、滅多にいないよ!」
「それを言うなら君や君の妹の瞳の方が余程に美しいだろう。宝石に擬えるのは陳腐なものだが、そうも言いたくなる」
「そんなの、大尉もじゃん。そんなキレイな色、なかなかないよ」
「……語彙が少ないな、君は」
「ごいって何?」
「知っている言葉の数が少ない、と言ったのだ」
「悪かったね、頭悪くて!」
「君が馬鹿だと言っているのではないよ。君はむしろ頭がいいと思う。ただ、学がない。君は本を読まないだろう? 知識は、得て損をするものではないよ」
「分かってるけどさー。別に大尉みたいにいっぱい言葉を知らなくても、困んないし」
「折角利発なのだから、勿体ないと思うがね」
「頭いいって褒められたの、初めてだよ」
「それはこれまで周りにいた人間が愚かだったのだろう。頭の良し悪しは、学校の成績の良い悪いではない。私は、君の様な賢さは好きだな」
「っ」
 計算などないのだろう。だが、こんな物言いをされては初対面の女が勘違いをしてしまうのも分かる話だ。目を細める様にした微笑みまで付けられては、堪ったものではない。

「大尉ってさー……心臓に悪いよね」
「そうかな……何故そう思う」
「どーしても!……ちょっと言葉覚えようかな俺……確かに、大尉に言いたいことはたくさんあるのに、ちっとも言葉が出て来ないや」
「君の瞳は何より雄弁だがな。その目は嘘など知らないだろう?」
「そんなの。俺だって、いろいろあったしさ」
「濁りのない瞳だ。それも好きだ」
 まだ持っていたカップを置き、何気なく手が伸ばされる。コーヒーの温もりが微かに移った指先が、ジュドーの目の縁を辿る。
 クワトロに褒められても戸惑う。お返しにスクリーングラスを取り上げ、瞳を覗き込んだ。やはり、透き通った美しい瞳だ。若葉の色をしたジュドーに比べると色合い故に冷たい印象は拭えないが、その分余計に透徹した輝きを放つ。
「やっぱり、大尉の方がずーっとキレイだって! 俺の知ってる人の中で、一番キレイ!」
「……そうまで言われると、面映ゆいものだな……」
「俺ね、キレイなものって好きだな。大尉はもの凄くキレイだから、大好き!」
 もう本当に絶句するしかない。まだ手にしていた書類の束がテーブルに落ち、散らばる。
「うわっ! 何やってんの!?」
「君があまりなことを言うからだ!」
「えー、だって大尉って、何でもちゃんと言ってあげないといけない気がして」
「子供か、私は」
「そう言うんじゃないけどさ。軍のこととか、政治のことは任せてて大丈夫って思うけど……どっか頼りないんだよなぁ」
「何だそれは……君に心配される謂われはない…………っあ!」
 不愉快げに形の良い眉を顰め、散らかしてしまった書類を掻き集め整えようとした瞬間。

「…………うわぁぁぁ……」
「……参ったな、これは…………アムロとブライトに叱られてしまう……」
「問題ってそこ? ほら、取り敢えず立って! 大丈夫? 汚れてない?……あー……脱いで、それ!」
 軽く当たった手が、運悪くコーヒーの入ったカップを倒す。
 机の上に褐色の液体が広がり、書類の端を汚していた。書類だけではない。ジュドーは無事だったが、クワトロには散ってしまっている。
「なっ……」
「もー、早く!」
 テーブルをずらし、座っているクワトロに覆い被さる様にして手を伸ばす。クワトロが抗う間も与えず、手際よく上着を脱がせてしまう。
「なっ、何をする!」
「アンダーには染みてないな。よし。……もー、コーヒーはのかないんだよ。気をつけなきゃ! 俺、ちょっとこれ洗ってくるから、大尉はテーブルの上、片しといてよね」
 白いノースリーブのアンダーシャツを引っ張って確かめ、ジュドーはクワトロを叱った。十三歳も年下だが、その姿は中々堂に入っている。
「君にも叱られるとはな」
「何でそんな嬉しそうなんだよ。大人なんだから、もっとしっかりしてよね」
「いや……叱られるのも、悪くないな」
「……もー、怒りがいがないなぁ。あっ、手袋もだ! それも脱いで。痛くない? 火傷とかしてない?」
「ああ。もう温くなっていたからな」
「そ……あー、でも、色白いから、ちょっと赤くなってる」
 長手袋の抜き取った腕の内側、皮膚の柔らかい辺りがうっすらと赤くなっている。思わず確かめる様に指で撫でたが、クワトロは軽く肩を竦めただけだった。
「大丈夫だね。ホントに、気をつけてよ」
「ああ」
「下は?」
 案外広範囲に散っているのを見て、ジュドーはクワトロのボトムへも目を遣った。腿の辺りを引っ張って確かめる。
「うん……大丈夫だね、こっちは」
「………………ジュドー」
「何? どっか濡れた感じするトコとかある?」
「いや、そうではないが……」
「何?」
 服を見ていた顔を上げると、クワトロはジュドーではなくその後ろを、青褪め強張った顔で見詰めていた。釣られて、ジュドーも振り返る。
 と。

「…………か、カミーユ、さん?」
 ゆらり、と背後から何かが立ち上っている様に見えるカミーユが、もの凄い形相で立っていた。コーヒー染みのことばかりが気になって全く周りに気が行っていなかったにしても、これに気が付かなかった自分に心底呆れる。呆れながらも、額に冷たい汗が流れた。
「ど……どしたの?」
 この怖い空気はジュドーには向けられていない。脱がせたばかりの上着と手袋をクワトロに押しつけ、カミーユの肩を抱く。
「どしたの、カミーユさん? 凄い怖いよ? 大尉がどうかした?」
「……黙れクソガキ」
「な、っん、んぅ……」
 地獄の底から響く様な声がしたかと思うと、次の瞬間、ジュドーは視界いっぱいをカミーユで覆われた。
 噛みつく様に唇を合わせられている。息を継ぐ間も与えられない。勢いが強過ぎて歯がかち合い、痛みと微かな血の味がしたが、そんなことはどうでもいい。
 こんな風に求めてくれるのは初めてで、ジュドーは嬉しくなって強くカミーユを抱き締めた。
 抱き返してくれるカミーユの腕も、力強い。……強過ぎる。
「……っく……ぅ……」
 絞め技かと思う程に強い。
「……二度と大尉に近寄るな」
「う……ん……わ、分かった……から、離しっ…………ふぅ……」
 ぱっと腕が離され、ジュドーはカミーユに縋り付きながら蹲った。しかしカミーユはそれを一瞥しただけで、今度はクワトロを睨み付ける。視線だけで射殺されそうだ。
「ジュドーに近寄るな」
「……あ…………ああ…………」
 誤解だ! と叫びたいが、これ以上の混乱はごめん被る。叱られるのは嫌いではないが、怒られるのは厭だ。クワトロは素直にこくこくと頷いた。
「行くぞ、ジュドー」
「う、うん……あ、待って! 大尉の服、洗濯しなきゃ」
「ほっとけ! 大尉だって、どれだけ碌でもない役立たずで生活能力が欠如してたって、子供じゃないんだから!」
 立ち上がりきる前に、カミーユはがっしりとジュドー腕を掴んで半ば引き摺る様にして食堂を出て行った。もう、クワトロへは視線も寄越さなかった。

「カミーユさん! カミーユさんってば!」
 廊下へ出て、倉庫などへ続くあまり人気のない通路へ入る。漸く立ち止まり、カミーユはキッとジュドーを睨み付ける。目が潤んでいた。
「泣いてるの?」
「馬鹿言うな」
「でも、目、赤いよ? 俺が泣かせちゃった? ごめんね」
 指先で切れ長の眦を拭ってやる。への字に引き結んだ唇がわなわなと震えていた。
 どうしてカミーユを怒らせたのかジュドーには分からないが、繊細な人なのだ。大雑把でがさつな自分には、分からないこともあるだろう。
 そう思って素直に謝る。
「……クワトロ大尉と何やってたんだ」
「珍しく大尉があんな所で寝てたからさー……あんまりキレイだったから、近寄ってったら起こしちゃって。話してたら大尉ってば、書類落としたりコーヒーこぼしたり大変で」
「何で……あの人の服なんか」
「だから、コーヒーこぼしちゃったからだよ。もー、大尉ったらさ、アムロさんや艦長に叱られること気にして、自分の服に掛かっちゃったのに気付かないんだもん。大人なのにさ」
 説明してもカミーユの不機嫌は消えない。困って、ジュドーはカミーユを抱き締めた。少し背伸びをして、こつりと額を合わせる。
 カミーユは目を閉じて、尊大にしかし僅かに頤を上げた。
 その薄い唇に、軽く口付ける。カミーユの求めは分かり易い。
「ん…………っ……」
 撓やかな腕が絡んでくる。ほっそりとしているのに、力強い。軽く繰り返し口付けるうちにもっと深く求められる。拒む謂われもない。
「……ぅ……ふ……」
 荒々しいが何処か頼りなげな口付けに、ジュドーは抱き締めた腕をそっと動かして窘める様にカミーユの背を撫でた。カミーユの全てが可愛らしく思えて仕方がない。

 飽きるまでカミーユに任せる。カミーユのキスは好きだ。気持ちがいい。
「ごめんね、カミーユさん」
「……何に対して謝ってる」
「俺、無神経だから、何かカミーユさんの気に入らないコトしちゃったんだろ? だから!」
「理由も分かってないのに謝るな!」
「……ごめん」
「だから!」
 涙は流れることなく引っ込んだ様だが、やはりまだ目元が薄赤い。キレイで可愛い。やはりカミーユのことが一番好きだ。クワトロなど霞んで消える。
「カミーユさんが嫌がるなら、もう大尉には近付かない」
「あの人の世話なんて、アムロさんが焼いてればいいんだ」
「それはそれで、カミーユさんが怒るの想像出来るんだけど」
「…………あの人なんか、一人でいればいい」
「でも、そうしたら……カミーユさんが側にいてあげるんでしょ?」
 簡単に想像が付く。カミーユも、クワトロのことは気になるし、好きなのだ。それは見ていれば分かる。
 カミーユは酷い顰めっ面になり、ジュドーから顔を背ける。ジュドーには……ジュドーにだけは、クワトロの側に行くことを容認して欲しくない。
「うるさい」
「……ごめん」
 頬を合わせる。三、四歳の歳の差が煩わしい。もっと大人ならそうも感じないのだろうが、この年でそれは、如実に身長の差となる。背伸びを続け頬に口付けてくるジュドーに、カミーユは漸く愁眉を解いた。
「大尉はキレイだし、好きだなって思うけど……カミーユさんは、全然別なんだからね。カミーユさんは、俺にとってもっとずっと特別なんだから」
「一番好きか?」
「勿論! だから……カミーユさんも俺のこと、ちょっとでも好きでいてくれたらいいな」
「ちょっとでいいのか?」
「だって、ファさんも、フォウさんも、アムロさんも、クワトロ大尉もいるでしょ、カミーユさんには。一番じゃなくていいんだ。俺を好きの中に入れてくれたら、最高に嬉しいんだけど」
 欲がない。
「……嫌いじゃない。お前のことは。ちょっと鬱陶しいけど」
 好きでもない相手とキスなど出来ない。そこまで自分を捨ててはいないし、選択権はカミーユが持っている。その事に気が付かないジュドーは、まだまだ子供だった。

「いつか好きって言ってね、カミーユさん!」
「……お前も大尉も安売りし過ぎだ」
「そうかな……ホントに好きだって思わなかったら、言わないよ?」
 クワトロの場合は口から出任せだったりその場の雰囲気だったりと信用ならないが、ジュドーの物言いは信用出来る。きらきらとした大きな目を見ると、そう思えた。
「好き…………」
「っ」
 カミーユの呟きに、ジュドーの顔が赤くなる。大きな目を更に見開いて見詰めてくる様子に、カミーユは心地よく思いながらにやりと笑った。
 まだだ。
 まだ、素直にはなってやらない。

「言わせてみろよ、俺に。お前のことが好きだって」
 絶対言ってやらない。
「頑張る!」
 ジュドーは本気にしたらしく、ぐっと拳を握った。その額をぺしりと掌で軽く叩き、カミーユはジュドーから離れる。追いかけられている間が、一番心地良いのだ。本当に纏まってしまうのは、怖い。「好き」の先が、カミーユには分からなかった。
「まあ、精々頑張れよ」
 ジュドーから腕を解く。手首を咄嗟に掴まれたが、軽く捻って外してしまう。
「さっき言ったこと。忘れるなよ」
「大尉にはもう近付きませんって。大尉だって。カミーユさんの大事な人だもんね」
「……馬鹿だな、お前」
「えー? まあ否定は出来ないけどさー」
「本当に、馬鹿だ」
 あんな男に関わったら、ジュドーだってどんな不幸な目に遭うか分かったものではない。何処までも好意的なジュドーの解釈に、また少し腹が立ってくる。
「俺はもう行くけど、お前も食堂で油売ってる暇があるなら整備を手伝えよ」
「分かってますよーぅ。さっきはたまたまだって」
 腕に腕を絡めてくるジュドーから逃れる。それでも、また食堂などへ行かれたら堪ったものではない。
 カミーユは、ジュドーの手を取った。
「行くぞ」
「うん。…………うんっ!!」
 ジュドーは満面に笑みを浮かべると、カミーユの手を引っ張ってデッキへ向かう。
 たったこれだけのことでも、本当に幸せだった。ずっとこの手を離したくない。
 幸せそうなジュドーの顔を見て、カミーユも、小さな笑みを零した。
 ジュドーの手は温かい。カミーユにも、ただそれだけで十分だった。


作  蒼下 綸

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