TV番組より〜Missing Children

 
 日本でもここ数年「安全神話」の崩壊などとマスコミが騒ぐようになり、犯罪被害者のみならず加害者も少年(しかもローティーン)だったりして、「一体世の中どうなっちゃうんだろう」と愚にもつかない世間話をする「フツー」の人々も多いようだ。ここ最近は特に親(実父母養父母問わず)による虐待……というか数年前私が「萌え」も交えて紹介した虐待事件をはるかに上回る「えげつない」事件が続けざまに起きている。デイブ・ペルザーの「itと呼ばれた子」は、筆者自身の受けてきた米国でも史上最悪レベルの実母による虐待を、まさに「生き抜いた」著者が赤裸々に描いたものだ。しかし最近の日本の餓死だ餓死寸前で自らの排泄物を口にするほどの精神崩壊に追い込んだだとかいう実際の事件を耳目にすれば、デイブ氏の体験と十分に向こうを張れる。嗜虐的嗜好を書き殴ってる私自身、申し訳ないが正直吐き気がして「萌える」どころではない。
 これだけ続けざまに親による虐待事件報道を耳にすると、これはもう加害者の特異なパーソナリティなどに原因を帰することはできず、現代社会のあり方に匕首を突きつける「事実」の連続だと言える。

 前フリが長引いたが、日本もひどいがこうした問題の最先端を行くのはやはりアメリカだ。もう十年前後も前になると思うが、向こうで作られた特集番組“Missing Children”を見ていて、その中で非常に興味深いインタビューがあったので、記憶を掘り起こして紹介したい。

 インタビューを受けていたのはスラリとした体型に整った顔立ちの青年で、確か二十歳前後だった。おそらくかつては、「かわいい男の子」だったのだろう。彼は五歳前後の頃、ある男に誘拐され、ずっとその男とキャンピングカーで転々としながら、大人になるまで一緒に「暮らして」きたのだという。
 その男は幼時の彼に近づくと、「ご両親がよんどころない事情で遠くに出かけてしまったから、しばらくの間おじさんが面倒を見るように頼まれた」というような言葉で、彼を拐かした。
 年齢が年齢で帰り道も住所も、そのうち親の名前すらわからなくなってしまったという。
 「彼は週に二、三度、寝床で《変なこと》をする他はとても優しく、勉強も教えてくれた」
 と青年は語る。性行為はもちろん彼が長ずるに従ってエスカレートしていったが、「男」は「少年趣味」である以外はサディストだとかではなかったので、ごく自然に彼もその行為に慣れていき、嫌悪感もなく、「当たり前」のことになっていったという(思春期以降はそれなりの「快感」も得ていたことだろう。無論インタビューでそんなことは語らないが)。
 「男」を憎むか、という質問に対し、青年はこう答える。
 「一言では言えない。『ここまで育ててくれた恩』も感じるし、だからと言って憎くないとも言えない。僕の両親が感じてきたであろう苦痛と、僕の『普通』の少年時代を奪ったことは、やはり許せないと思う」

 男が逮捕されたのは、青年の通報によってだ。十年以上も連れ添ってきた「男」を警察に引き渡そうとしたきっかけは、男が、かつての自分のような小さな男の子を新しく連れてきたことだった。
 「とても迷った。でもこの子に、僕と同じ運命をたどらせるわけにはいかないと考えた」
 青年は、その男の子を連れて警察に出頭した。もともと監禁や監視をされていたわけではないから、それは容易なことだった。

 私はこのインタビューを見ていて、いろいろな疑問や感銘を受けた。青年は一応親に再会したものの、一緒に暮らすことはしなかったらしい。無論番組では青年はそんな部分は語らないが、上記のような十数年を過ごしてノーマルな性的嗜好が育つはずがない。そして、何をされてきたかは実父母にもおおよそわかっていることだ。そのように「変えられて」あるいは「歪められて」しまった我が子を、本人が望めば世間体から両親は受け入れるだろうが、おそらく複雑な感情、あるいは嫌悪感は禁じ得ないのではないか。「いっそ見つからなければよかった」と思っているかもしれない。そう、青年自身が感じたのだろう。
 全米でのMissing Children(行方不明の子ども)は年間百万人とも言われ、あいにく簡単に見つかると思った最近の統計はネットで出て来なかったかったが、日本では警察に届け出のある行方不明者が年間8〜9万人ということで、まあ日本とは次元の違う数の子どもが毎年「消え」続けているのがアメリカということだ。ただ、誤解をしてはいけないのは、これが性犯罪者の犠牲になった子どもの数とは全く別のものだということだ。自ら家出した者、また離婚して親権を剥奪された者による誘拐といったケースの方がはるかに多い。そして、それでもやはり日本とは比較にならぬほど多くの子どもが、命を落とすほどの性犯罪の犠牲になっている。
 正義感ぶってこうした事実を槍玉に上げ、「許せない」「私も戦いたい」というような論調は、昔からよく見かけた。たぶん近頃流行のブログでもいきりたっている輩が多いことだろう。彼ら(なんとなく彼女ら、の方が多い気がするがw)が省みなくてはならないのは、まず、「感情に流されていないか」、そして「視野が狭くなっていないか」ということだ。男だろうと女だろうと子どもだろうと大人だろうと、殺されたり痛めつけられたり犯されたりすればそれは被害者にとって果てしなく大きな苦痛であり、そのような危害を加えるのは憎むべき犯罪であることに変わりはない。「子どもに欲情するなんて」という嫌悪感が先に立っていないだろうか。
 また、こうした犯罪の犠牲になるのは、すべからく社会的弱者である。「女」である、「子ども」である、という時点ですでに弱者だが、ここではそういうことを言っているのではない。米に暮らす知人がいるが、ワシントンのある地域の学校では子どもは必ず車で送り迎えするものであって、その「義務」を怠ったり、日本でよくあるようにパチンコをしている間「車に子どもを放置」などすれば、裁判所で親権を剥奪されかねないという。だが、全ての親が子どもを車で送り迎えなどできるはずがない。失業者の親を持つ子やスラムに暮らす子は、上層階級の親がそれほどの危機感を抱く「危ない社会」の中で、放置されている。実際に誘拐されたり性犯罪に遭う子も、そうした下層階級の子だ。アメリカ人の子どもは、親の階層によって「命の重み」が違い、基本的人権を守られていない。
 話を広げれば、罪もない子どもの、しかも我が子よりはるかに恵まれず、放っておいても餓死するかもしれない過酷な暮らしを生き抜いている子どもの頭の上に、アメリカ人は爆弾の雨を降らしている。我が子を高級車で送り迎えしている人間には、こうした悪を見抜く想像力がない。
 そして、キャンピングカーで拐かした子どもを連れて根無し草のように各地を転々とした男は、果たしてどんな階層の、どんな親の元に育ち、転々としている間の彼自身は、どんな階層の人間だったと言えるか。彼らに発信器をつけ、刑務所を出たあともネットで住所や顔写真を公開する。その一方で、他国に爆弾を落とし罪もない人々を大量虐殺することに拍手する。それは、正義か。
 無自覚な「弱い者虐め」をし続けている人間達自身が、自らの暮らしを脅かす危険の元凶であり、いかなる世になってもいかなる階層に生まれても、常に「弱者」であり続ける「子ども」を傷つけ続けてるのである。

2005/11/13記す