少年愛の精神病理学、社会学っぽいデタラメうんちく
少年愛は病気である、などと言われると、このサイトを見ている方の多くが、多少なりとも神経を逆なでされることだろう。しかしまた、精神科通いを五年以上も続けている俺にとっては「病人とは失礼な! 俺をキチガイと一緒にするな!」と叫ぶのも、精神障害者に対する蔑視であると感じられる。それは少年愛者を蔑視する一般「健常者」の傲慢な視線と同類なのではなかろうか。 そもそも、精神病と健常者の線引き自体、なかなか難しいのだ。 俺の限られた知識の範囲で、精神病には次のような分類がある(もちろん他にもいっぱいある)。 精神分裂病 最近、統合失調症と言い換えられた。幻覚や妄想を主体とする分かりやすいものから、俺にはちと理解しにくい症状も含まれる。重症化すると精神運動が遅滞して、ぼんやりと何にも反応しないような状態になる。幻覚や妄想には薬がシャープに効くため、分裂症患者の多くが通院治療が可能になった。 躁鬱病 悲痛、沈滞した精神状態が、病的に高まり続く単極性鬱病、興奮、高揚した精神状態が病的に続く、躁病、これらが周期的に交互に現れる躁鬱病がある。鬱の場合、脳内神経伝達物質のノルエピネフリン、ノルアドレナリン、セロトニンなどが、減少していることが知られており、これらのシナプスへの再取り込みを阻害する効果のある薬物がよく効く。躁病の場合、リチウムという薬が唯一効果があるらしい。 神経症 何らかの病的な不安を症状の主体とする。パニック障害、いろいろな恐怖症が含まれるようだ。抗不安薬やSSRIという抗鬱剤の一種が効く。 人格障害 これが言いたかった。性格の偏り。要するに変な人、困った人を指すわけだが、これを病気として認定する基準は「本人または社会が、その異常性に悩むもの」ということになる。ささいなことで人を恨むとか、人を信じない、喜びや悲しみを感じない過度の冷淡さ、極端に杓子定規で融通がきかない、等々……「それが病気なの!?」と思わないだろうか? これが例え病気であるとしても、もちろん効く薬はない。「一生治らない」病かもしれない。 躁鬱病にしても、感情の浮き沈みは誰にでもあり、それが少々極端な人もままいる。ただ、昔は「怠け者だ」「意気地なしだ」と周囲に思われ、自分も、自己嫌悪に苦しんでいた人が、実は「心の風邪」とでも言うべき状態であり、休息と薬によって、まさに風邪が治るがごとく症状が消退することは、この病気が、風邪や腹痛と同じ生理学的な病であることを証明している。だが、俺のように、五年以上も好不調の波を繰り返し、ずっと投薬を受けている場合はどうか。これはもう、人格の一部と言ってもいいのではないか。じっさい、抗鬱薬は病的でない落ち込みにも効果があるのだ。精神刺激薬と言われるリタリンなどは、健常者をも興奮状態に導く。リタリンは覚醒剤類似の物質である。薬物は人間の感情をコントロールしたり、一時的に性格を変えることさえできるのだ。怒りも悲しみも、脳内では化学物質と電気的な信号のやりとりに過ぎない。 こうして考えていくと、明確に人に見えないものが見えたり聞こえたりする幻覚や妄想を主体とする統合失調症と、上で述べてない癲癇ぐらいが(癲癇には脳波の異常や、器質的的障害がみられる)、はっきりと病気と言えるが、その他のはグレーゾーンがかなり広い。人格障害に至っては、病気と呼べるか疑わしい。 しかし社会は、その社会の中で適応できない障害をもたらす異常を、病気と呼ぶことが多いようだ。人格障害もそうだし、性的倒錯もそうである。 本来、性的倒錯には、何が含まれるのか。正常な嗜好と、どこで線を引くのか。生理学的に言うならば、生殖行為のできる異性の組み合わせ以外は、全て異常ということになろう。そうなると、皮肉なことに、11歳の少女と、精液の出る範囲の年齢(11歳〜60歳超!)の男子との組み合わせの性交は、正常範囲となる。5歳の少女はともかく、初潮を迎えた後の女子は、生殖行為が営めるのだ。一方、コンドームをつけて避妊した上での成人男女の性交は、生理学的にはナンセンスな「変態行為(笑)」である。 だが実際のところ、人間の性交は生殖行為を超越して久しい。性交は高度に社会的で文化的な行為であり、生殖行為はその中に内包されている。 現状の日本社会では、少女との性交は禁忌で、変態行為だが、成人男性同士の性交には、かなり寛容であると言える。「お互い好きならいいんじゃない」ぐらいの感覚が一般的だろう。だからと言って一部同性愛者団体みたいに、大きな顔をして、むしろ自分たちが選ばれた存在であるかのような態度をすることもないと思うが(あくまでも一部!)。 閑話休題。外国に目を向ければ、同性婚を認めるくらい同性愛に寛容な一部欧州の国がある一方で、イスラム圏のように、同性愛が犯罪扱い(間違っていたらごめんなさい)の国もある。歴史を振り返れば、ギリシャ時代は確かに同性愛や少年愛(と言ってもハイティーンの美しい少年のイメージがあるが)を、文化として肯定していたらしい痕跡があるし、我が国では、江戸時代の小姓、稚児、陰間といった存在は、文化の一翼を担っていたと言い切ってもいい。 時代、社会が変われば、病気、異常の概念も変わる。犯罪もしかり(犯罪についてはまた別の機会に述べてみたい)。 現状の社会通念上許されず、犯罪となってしまう行為を行いたい欲求がある以上、それは病気、もしくは病的だと言える。しかも、人格障害と同じで、一生治らない。薬も効かない。 だからと言って、我々が排斥されるいわれはないと言える。たまたま、今の世の中では、病気なだけだ。好んで下さいほめてくださいとは言わないが、黴菌扱いされることはない。 自分としては、精神障害と同じで、(内心では)堂々としていたいし、何も恥じることはない。社会とは折り合いをつけていけばいいのだ。「俺たちに人権を!」などと大きな声で言う気はないが、少しでも世の中、住みやすくしたいとは思う。まあ、日本はファジイが通用する社会で、まだいいと思う。同性愛ほど認められてないにせよ、害にならなきゃいてもいいんじゃない? ぐらい思ってる人は少なくないように思う。イスラム圏は理屈が通じないし、欧米圏のように、魔女狩りのごとく目の敵にされては、旗を振って戦わざるを得なくなる。 高度に成熟した社会とは、あらゆるものが相対であることを知り、より多様な者が共存できる社会である。そういう社会を目指す者としては、俺の表の顔と裏の顔は、矛盾していないように思う。 |